各政党のマニフェストを基に、アナウンサーが選挙の争点を解説している。数年前に政権を奪取した革新派の野党勢力に対抗する保守政党は、汚職疑惑で退陣した政治家達に代わり、フリーアナウンサーや俳優などの顔が広い人間のほか、公共事業を手がけた元役所の職員など、住民へのサービスに貢献した人間を野党陣営への対抗馬として立てた。「激戦区は何処でしょうか」との問いに、都内の複数の区が挙げられる。
ぼんやりと液晶画面を眺めていた洸は、玄関の鍵が開けられた音に戸口へと振り返った。
「おかえりなさい、降谷さん」
「あぁ」と降谷が答える。会話はまるで夫婦のそれだが、纏う空気はやけに重々しい。
部屋に入るなり、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた彼に洸は「先にご飯食べます?お風呂も一応沸かしていますが」と、これまた夫婦のような質問をする。決して睦言を交わすような間柄ではないことは、双方の態度が証明していた。
「食事をしながら、にするか」
「……分かったことがあるんですね」
「真相が全て…というわけではないが、隠れていたモノは掘り出すことができた」
「隠れていたモノ…?」
「幸村光輝の嫌疑についてだ」
洸の目が見開かれる。「何が分かったんですかッ」と詰め寄った彼女を小突いた降谷は、ハンガーラックに上着を掛けた。
「取り敢えず、食べながらな。冷めるだろう」
思い出したように鼻孔を抜けた腹の虫が鳴る匂いに、洸は苦笑した。
夕飯はどちらが作ると決まっているわけではない。ただ、降谷の帰りは基本的に深夜、もしくは泊まりのため、必然的に台所に立つのは自分だろうと洸は考えていた。
他人の作った料理など彼は食べやしない。そう高を括って、適当な味付けをしていた洸は降谷が帰宅すると連絡を受けてひどく慌てふためいた。カチャカチャと、背景音を聞いた降谷が「何か作っているのか」と聞き、肯定した途端「帰ったら食べる」と言い出したためだ。頼むから食べないでくれと懇願した洸に、嫌がらせかと威圧感たっぷりの声を聞かせる降谷。粘りはしたが、折れたのは洸だ。
「武藤の口座の金の回りを調べところ、少なくない一定額が企業から振り込まれていたところまでは話したな」
カボチャとオクラを炊いたものを口にした降谷が、飲み下してから問いかける。頷いた洸は、以前国産スポーツカーの中で降谷から与えられた情報を思い返した。
武藤の口座にはペーパーカンパニーとみられる架空企業から、小分けで金が振り込まれている。それも少なくない額だ。
「それが何か?」と尋ねた洸に降谷はひとつ声音を低くした。
「振り込まれた日付は、半年前、里見哲による資産家夫婦刺殺事件の後、そして、二年前の幸村光輝巡査が住民を銃殺したとみられる事件の後だ」
どくんと洸の心臓が大きく脈打った。
まとまった額の金が、小分けにされて一定期間に振り込まれている。
「更に、武藤の口座からの出資記録も調べたところ、東都不動に…同時期に振込があることが確認できた」
「え……」
──東都不動は…
目を瞠った洸は、冷や汗がこめかみを伝うのを感じた。呼吸が乱れ、動機が激しくなる。
東都不動、高橋勇、黒の組織、アパートの一室での凶行、振り上げられた拳と肌を裂くような痛み、男の体重、下卑た口元と嬲る視線。そして、呆気ない幕引き。
それに加えて、洸が驚愕したのには理由があった。
「東都不動は……秋林組の傘下…」
秋林組。古くから都内で地歩を築いてきた暴力団体。地上げ屋として警視庁に目をつけられてからは活動を縮小させていたが、代わりに、不動産業を営む子会社を抱え、法律に触れるか触れないかのラインで商売をしている団体。
東都不動は秋林組の中でも比較的真っ当な商売をしている企業だったというのは河村の話だ。表の資金調達と関係企業との折衝を担っていた、秋林組の日の当たる部分。
が、しかし、裏の顔を持つ組織に属していることに変わりはない。
「武藤管理官が東都不動に何かを依頼していた、てことは……つまり」
「秋林組への依頼ということだろう。そもそも、あの組は武藤の管轄だ。普段から、内部の情報提供者に直接金を渡すことはあったろうが、組そのものへの依頼となると話は別になる」
現役警察官の殺人教唆に加えて、暴力団との金銭のやり取り、そして何かしらの依頼があったとすれば、本人がこの世にいないとは言え世間を騒がすことは間違いないだろう。
唇を固く結んだ洸に、降谷は更に続けた。
「二つの事件の共通点がある。ひとつは、どちらも港区で起きているということ。もう一つは、どちらの土地も、道路拡張のため行政が買い取っているということだ」
俗に言う地上げ。それそのものは珍しくないことだが、降谷の言葉に洸は息を呑む。
被害者宅が、どちらも開発されている。偶然にしては出来すぎてはないかと嫌な汗が背筋を流れた。
「……あの、土地開発…というか、地上げには土地を持つ居住者の同意が必要ですよね?」
道路拡張のためには土地の所有者、つまりは居住している住民の同意が必要不可欠だ。無理強いすることは出来ない。立ち退き料が行政側から支払われるのが常で、仮に拒否しても強制することは不可能であり、時折、道路開発が進んだ場所で不自然に民家が残っているのは、立ち退きを住民が拒んだことが要因だ。
二年前と半年前の被害者双方にも、行政側から打診があったことはないか。
洸の意図に気づいた降谷の目が薄っすらと細められる。含みのある視線を下げ、彼は重々しく呟いた。
「行政側の依頼歴を調べた。結果、どちらの被害者も強く拒否してきたそうだ」
ぞわりと背筋が震える。乾いた喉を潤すために水を口に含んだが、洸の口内は直ぐにカラカラになった。
降谷の言葉に洸は黙然とした。
都市計画道路の実施区間となれば、土地の価格に応じて転居や移動、家の解体費用やライフラインの引き込み費用まで、手厚く行政が保障する。が、土地の相場に対する補償金の額のトラブルは無きにしも非ずだ。
「土地の相場に対しての行政側との見解の不一致に加えて、どちらも資産をある程度保有していた。立ち退きするだけのメリットを感じていなかったんだろう」
「……そんな人達が殺された」
「どちらも、親戚づきあいがなかったため、土地は売りに出された。事件により物件の価値も下がったところを行政側が購入した」
もはや確信に近い何かが洸の胸中にあった。暴力団組織の秋林組、傘下の東都不動。武藤管理官。金銭の授与。地上げ。都市計画道路。架空法人からの振込。
二年前の事件では、幸村光輝巡査に住民殺しの嫌疑がかけられた。一般には手に入らない、銃を用いた犯行。組織犯罪対策部にいた武藤管理官の下にいた若手警察官の彼が、『何故か』その場に居た。複数人の目撃者が、口を揃えて警察官が慌てた様子でその場から直ぐに立ち去ったと──
「……あの事件の目撃者は、幸村巡査が直ぐに立ち去ったと言っていた」
ぽつりと洸が零した言葉に、降谷が反応した。
「……目撃証言をした人間の記録は本庁に保管してあった」
心臓の鼓動が煩い。嫌な予感というのは大概当たる。
動悸が激しくなる胸を押さえて降谷の言葉を待った彼女に告げられたのは無情な真実だった。
「相澤智則、以下、全員があの一千万円の強盗事件を働いた容疑者……結城亮が手をかけたとされる人間達だ」
点と点が繋がりを見せ始めた。
*
アイツはいつだってお人好しだった。人を疑うことをしない、できない奴だった。
そんな人間が警察官になるなんて無謀だ。馬鹿げている。警察官は正義のヒーローなんかじゃない。知略、謀略、狡猾さすら必要な職業だ。相手の裏をかき、時には甘言で誘い込み、弱みを握ってより上位の情報を吐かせる。
真っ直ぐなアイツに、向いているはずがなかった。
『あのガキですか? よく覚えてますよ』
汚泥の匂いのする酒場での出来事だった。
組織に入り込み、下の管理を任されるようになったことで、事件に関わった『奴ら』の情報を仕入れることができた。
『口裏さえ合わせれば、サツなんてコロリでしたよ。武藤さんの協力もありましたし、何より、証拠なんてどこにもないですから。一番疑わしい人間をサツは犯人にしたがる。未解決ってのが一番嫌ですからね。まぁ、結局はムショにぶち込むことはできませんでしたけど、へへ』
黄色い歯を見せつけて、下卑た笑みを浮かべる。視界に入れるのも苦痛を伴うような醜悪な面を下げた人間達に、胃の内容物が迫り上がる感覚を覚えたが堪えた。
端麗な相貌を湛えて、組織の重役の様相を見せながら促せば、男達は口をいとも簡単に滑らせた。
『武藤さんも人が悪い。可愛い部下を生贄にするなんざ、俺達なら胸が痛んでとても出来ねえよ』
どっと起こった腐った高笑いが、逆に感情を沈め、思考を研ぎ澄ませた。鋭利な刃物を、更に研いでいくように。
『──誰に頼んだって?そりゃ、高橋さん以外ありませんよ。秋林の幹部だし、武藤さんとも馴染みがある。シマの抗争のネタは、サツにとって喉から手が出るほどの情報ですからね。高橋さんから情報をもらえるとでも言ったんじゃないですか。まぁ、現場に行ったら、肝心の高橋さんはいないわ、銃声聞こえるわで、ホント不憫ですよねえ』
今、自分は臓腑から滲み出る殺意を隠せているだろうか。武勇伝のように、自分の『無二の親友』を陥れた話を嘲笑を交えて語る男を、冷静に見ているだろうか。
『こっちは金が入るし、武藤さんは厄介な人間をどうにかして、上に駒を擦れるしで良いことしかないですよ。疑わしい話は全部、あの不憫なボウズが引き受けてくれる。可哀想にねえ、誰にも相談できないでしょうよ。なんせ、怖い輩が自分の周りに何するか分かったもんじゃないですから』
もはや、話を聞くのは無意味だった。
アイツはお人好しだった。人を疑うことを知らないと言って良いほどお人好しのアイツが、どうして組織犯罪対策部なんかに転属になったのか不思議でならなかった。この組織の人事はよほど人を見る目がないのかと思っていたが、ある意味、見る目は大いにあったらしい。
アイツは生贄だった。ただ、誰をも疑うことなく、純朴に公務に殉じる警察官の鏡。そんな都合の良い、ただの生贄。
あの時から、俺のやるべきことは決まった。
アイツの為じゃない。誰の為でもない。ひとえに自分のため、自分という人間を形作ったアイツを奪った全てを、壊し、殺し、抹殺するためだけに生きる。ただそれだけが、生きる指標となった。
──ありがとう、結城。
だから、他には何もいらない。
──結城に、終わらせて欲しくないの。
なにも、必要ない。
「いらないんだよ」
微睡むような暖かい関係も、言葉も視線も全て、置いていく。
あと少し、あと少しで終わるのだから。
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