今日の天気は曇りのち雨。ところにより、激しい雷雨となる可能性がある。
そんなお天気お姉さんの天気予報を聞いた日の夜、
咄嗟に感じた違和感に、全身の汗腺から汗が噴き出した。


普通の日だった。いたって普通の日常を過ごしていた。いつも通り出勤して仕込みの手伝い、オーダー受け、配膳、洗い物、買い出し、業務をこなして夜になり、「もう上がっていいよ」という店長の呼びかけに高いトーンで返事を返して帰宅の途についた。賄いを貰ったから家でレンチンして食べようとか、その前にコンビニでアイスでも買おうかなとか、よくある日常の一ページを綴っていた筈なのに、ふと感じた強烈な違和感に足が止まった。

(あ、れ?)

数歩歩いて、止まって、また数歩歩く。それを繰り返していると感じていた違和感は大きくなっていった。
街灯の少ない通り、時刻は8時前、人通りはなくしんとした気配が闇夜を更に深める。その中で、後方にピタリと張り付く気配に生唾を飲み込んだ。

(いつから…)

ひたひた、と後ろから木霊する足音に心臓が激しく脈打っていた。

つけられてる。そのことに気づいた瞬間、警鐘が私の中に鳴り響いた。どくんどくんと心臓の音が耳の中に響く。足音はピッタリ私についてきていて、三叉路にある反射鏡をちらりと確認したら全身黒の服を着た誰かがポケットに手を突っ込んで歩いてきているのが確認できた。恐る恐る、振り返ったら何故かその姿は視認できなくて、民家のガレージとかに潜みながらつけているのかと思うと、途端にひどい吐き気に襲われた。

以前、テレビのニュースで見たことがある。
ストーカーを働いた男が相手の女性がそれに気づいた途端、凶器を取り出して女性に襲いかかった。逃げられる前にことに及ぼうとしたのだ。女性が叫び声を上げたことで周りの住民は気付いたが、男の凶行を止めるには至らなかった。
都会って怖い。私は呑気にそう思った。
自分の住んでいた地域は通り魔どころか女性を狙う軽犯罪も起きない。なぜなら、犯罪を犯す人数そのものが都会より圧倒的に少ないからだ。会う確率なんて更に低くなる。生まれてこのかた、住んできた地域で凶悪犯罪が起きた試しがない。
ぼんやりと液晶画面の向こうにあるどこか違う世界を、当時の私は遠巻きに眺めていた。

脳裏に蘇ったニュース映像に、息が止まりそうなほど呼吸がうまくできなくなった。胸の圧迫感、激しい動悸、それを悟られたら何をされるかわからない。そう思った瞬間、恐怖に全身が支配された。

どうしよう、どうすればいい。

インターネットで護身術の動画とかは見たことがあるけれど、それだけだ。実践する機会には幸い恵まれたことがない。友達と仲良く護身術ごっこなんてしていたほど、平和で何事もない世界で生きてきた。

もし、今襲われたら?
もし、通り魔だったら?
もし、刺されでもしたら?

ぐるぐると頭の中を巡る恐怖に足がすくむ。その場で振り向いて、相手を睨みつけてやれば逃げてくれるかもしれないと血迷った考えが頭を過って勢いよく首を横に振った。だめだ、怖い。無理。
なら、立ち止まっちゃいけない。不自然に立ち止まったらいけない。このまま何事もないような歩き続けて、でも、まずは。そう、まずは。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け)

冷静、大事。ばくばくと早鐘を打ち続ける心臓を落ち着けるために、とにかく今は、このひと気のない場所から離れたかった。ぎゅっと胸の前で拳を作り息を長く吐く。ひとつゆっくり瞬いた私は町内地図を脳裏に広げて上から見下ろした。
確か、路地を三本入ったところにコンビニがある、普段は使わないコンビニだけれど、今はひたすら人と灯りがあるところへ身を滑り込ませることが大事だ。
自然と足早になる両脚にもっとゆっくりと脳から指令を出すけれど拒絶されてしまった。

早足になり、前を見据えて歩きながらふと思い出したのは、先日園子ちゃんから聞いた話。

《職務質問?ていうのされたんですよ》

あの時、チリチリと胸の奥が騒ついた。彩られた日常がモノクロに侵食されるような不安。事件なんて遠い世界の出来事だったのに急に身近に現れるようになって、それがこの世界の常であっても私にとっては非日常だ。
液晶画面で、紙面で、物語で見ていたひとつひとつの事件が、現実として目の前に落とし込まれていく、その感覚が私に言い知れない不安感を与えていたのかもしれない。あっけらかんと話す二人をよそに、どこか私は憂いていた。

物語の世界が、現実の世界として現れて。
普段通りの生活をなるべくしようとして。
でも、非現実がやってきた。

(こわ、い)

漫画のさまざまなキャラクターはきっとこんなに恐怖していたんだと思う。ただの読み飛ばすような話でも、キャラクターそのものは形容しがたいほどの恐怖を抱えていたはずだ。漫画の主要キャラはタフメンタル過ぎる。誰かにつけられてるとか、襲われたとか、そんなの普通に考えて普通の人間なら普通に怖いし逃げたい。

鼓動の音も、自分の歩く靴音も、呼吸音すら全部うるさくて、煩わしくて、時間が早くすぎて欲しいと願った。


「刀海さん?」


ぎゅっと、きつく唇を結んだ時、聞きなれた声が前方から聞こえた。

足早に歩いていた私の足は自然と止まって、大きく目を見開く。下へと落としていた視線をゆっくりと上へ移していく過程で見えたのは、彼の一見すると細い体で。上げた視線がその顔貌を捉えた時、目を丸くした彼がこちらを見ていた。

「あむろ…さん」

安室さんだ。ほそっこい体をしていても、実は強靭な肉体を有している、ベビーフェイスゴリラと界隈では言われている安室さんが目の前に登場した。彼に比肩できる人間なんてそうそういない。
名前を、紡いだ瞬間どっと疲れが出て、同時に自分自身がひどく安堵したことが分かった。
嗚呼、なんて安心感、なんて心強い。懐疑の目が向けられていたことなんてこの際どうだっていいほど、彼が目の前にいる事実が私の精神状態を落ち着けてくれた。
「どうされたんですか」と眉を顰める彼に、私はたどたどしく説明する。

「あの、私もわけが分からないんですけど、なんか、人がいて」

前言撤回、落ち着いてなんかいない。説明したいのに、上手く言葉が出てこない。はくはくと口だけが動いて、声に出したい情報は喉元で止まってしまう。後ろを指さしたりして、身振り手振りでなんとか状況を伝えようとする姿は、はたから見たら滑稽なんじゃないかと懸念しつつ、でも口は勝手に言葉を羅列して。

「怖くて、明るいところに行かなきゃ、てそれで、そしたら」
「分かりました」

後方を向いて、説明を続けようとした私の言葉を遮った安室さんは、低く一言、私に告げた。「え」と間抜けな声を出した私の肩が彼に抱かれる。何これ、どういう状況、といきなり転じた状況に目を白黒させる私をよそに、安室さんは私が行こうとしていたコンビニとは別方向に歩き出した。
なぜ、どうして。疑問符を頭に浮かべた私は安室さんを見上げたけど、彼は険しい表情のままずんずんと歩いていく。話しかけてはいけないのかと口に出そうとした問いを喉元で止めて呑み込んだ。
迷うことなく足を進める彼の姿を見て、私は考えることをやめて彼の歩みについて行った。きっと、何かしら考えがあるんだろう。一を話さなくても百くらい分かってくれる人だ。
時折、小走りになる私は、背後を歩いていたであろう男が彼の登場でどこかへと姿を消してくれることを切に願った。





「なぜ、あんな道を歩いていたんですか」

ベビーフェイスには警察官の顔が滲んでいた。

安室さんがずんずんと進んだ先は大通りに面した場所だった。自宅からは少し離れたけれど、街灯が煌々と輝く街中に心が落ち着く。そこについてようやく、「なぜ、コンビニに入らなかったんですか」と疑問を呈せば、話がしたかったとのことだった。
深夜まで営業しているファミレスに二人で入店する。店内には、仕事帰りのようなサラリーマン、大学生とおぼしき6人組、女性客がいて、人の入りはまばらだった。
席についたと同時にやってきたウエイトレスに安室さんは「コーヒーをふたつ」とさっさと注文をした。

(なんか、怒ってる?)

いや、イライラしているような、そんな感じ。
理解の出来ない安室さんの変化に首を捻らせる。
私の肩を抱いてその場から離れた安室さん。その時から安室さんの表情はずっと変わらない。険しく、気難しい表情。イライラしているような声音。安室透にしては似合わないその表情が少し不可解で、目の前に座る男性がまるで別の人間、そう、いうなれば─

(降谷さん)

公安警察の彼の影が背後に見えた気がした。

「刀海さん」
「へ…あ、はい!」

尖った声音にびくりと肩が揺れる。視線をおずおずと合わせれば、目尻が吊り上り、口を一に結んだ相貌がこちらを見据えていた。こわ、こっわ!ベビーフェイスどこに消えたよ!
安室さんの表情に蛇に睨まれた蛙よろしくひくひくと頬をひくつかせる私に、安室さんは低く溜息を吐くと徐に問うたのだ。

≪なぜ、あの道を歩いていたのか≫

問われた時、思わず「はい?」と間抜けた声を出してしまい、彼の目色が途端に険しくなったため、慌てて言い直す。

「ご、ごめんなさい。あの、なんでと言われましても…自宅からあそこまでは最短距離なので」
「街灯も人通りも少なく、背後を取られたら危険な道です。住宅街とはいえ、つけられていることに気付かずに自宅まで戻ったらそのまま侵入される恐れだってあるんですよ?危機感がないんじゃありませんか」
「危機感って…」
「例の事件の話をしたばかりでしょう」

被せられた安室さんの言葉に私は「あ」と声を上げた。
一千万円の強盗事件。犯人は未だ捕まっていない中、ここ最近はこの近辺で警察は聞き込み調査を行っている。
犯罪者がまだ捕まっておらず、潜伏している危険性がある中で、私の行動は世間知らずの迂闊な行動だと安室さんは指摘したのだ。

「……すみません」

確かにその通りだった。申し訳なさにまともに視線を合わすことができず、ウエイトレスが持ってきたコーヒーの湯気をぼうと見つめる。ゆらゆら揺れる湯気を見つめながら思い返すのは地元のことだった。
元いた世界では、犯罪なんて無縁だった。不審者情報なんて数カ月に一度程度、顔見知りばかりの地域で、深夜に女一人で出歩くなんてザラにあった。飲みに出て、ほろ酔い気分で帰宅なんてことは当たり前で、そこに対して危機感を持ったことなんてない。
でも、いい年した大人が、危機管理もできていないなんて本来恥ずべきことなのだ。出来る限りの自衛をして犯罪にあう危険性を回避する。
そんな当たり前のことすらできていない自分の甘さが恥ずかしくなって、申し訳なさに膝上に丸めた拳をぎゅっと握った。

「……いえ、こちらこそすみません。説教をしてしまいましたね」

ふと険しい顔から一転、目尻を下げた安室さんはひとくちコーヒーに口をつけるとカップを置いてもう一度私に注意を促した。

「けれど、本当に気を付けた方がいいです。女性にとって都会の一人歩きは危険が伴いますから」

柔和な安室透が戻ってきて、ふわりと笑いながらも身を案じてくれる彼に思わずときめいたのは許してほしい。イケメン、カッコイイ。締める時は締めて、弛める時は弛める安室透、恐ろしい男である。
自分の軽量さはさておき、この頼れる私立探偵から貰った注意喚起は後生大事に胸にとどめておこう。頬に集まる熱をコーヒーの熱さで麻痺させるように、苦みを飲みこんだ。


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