意味もなくシャワーを浴びる。とうに身体も頭も洗い終えているのに、無性に浴びたくなった。ザーザーと絶えることのない水音が鼓膜を揺らして、逆に意識を沈下させてくれる。ぼうっと、黙考に浸った。
不鮮明だった動機がだんだんと眼前に現れて、事件の全貌が暴かれていく。ひとつひとつ、真実を知り、事実を積み重ねていくにつれて、洸は焦燥感に駆られていた。
果たして、全てが明らかになった時、自分は彼に何と言葉を掛けるだろうか。否、掛けることができるだろうか。
生易しい言葉など通用しない。通用するはずもない。坑道での邂逅で、真実を知りたいと手を伸ばした自分を彼は跳ね除けた。それは、当然の帰結だったのだ。
無二の親友を奪われた人間に、生半可な倫理感も正義感も意味をなさない。それは、当たり前の生活を無意識下で享受して来た人間の戯言だ。
憎しみも恨みも、理性で消せるものじゃない。
「なんで…」
圧倒的な暴力と憎悪の前に立ち尽くす。何故、と疑問を呈したところで答えは見えてこない。どうしてこんなことになったと聞きたいのは、きっと亡くなった彼なのだ。
さめざめと流れ落ちる水が、ひどく物悲しく思えた。
「考え事か」
時間のかかった入浴に降谷がソファに沈みながら背中越しに問いかけた。手にはペーパーを持っている。事件の資料だろう。流しを横目で確認するとすべて綺麗に片付いていた。
「少し」と洸が口ごもる。心内を言葉にすることが何故か憚られた。まとまらない思考が唇を動かすことを拒んでいるような気がした。
人の悪意に押し潰されて、藻掻くこともできずに大切な人の元から去る苦しみが、自分に理解できるはずがない。
「どうして、てそればかり思って…憎しみに対して自分ができることなんて何もなくて。ただ知りたいと思っていた自分が、なんだか、虚しくて」
真実を知ったところで、いったい何になる。死んだ人間が生き返るわけでも、心の傷が癒されるわけでもない。圧倒的な部外者でしかない自分に、この事件はあまりにも巨大すぎた。
人の痛み、苦しみ、憎悪と哀哭、負の感情が行き交う中で、それでも、と強く心に誓い進む何かが自分にはあるのだろうか。
野次馬根性で、事件の表面だけを見て論じる人間にはなりたくなかった。
「なら、ここで大人しく待っているか」
降谷の鋭い声に身体が緊縮する。ゆったりと立ち上がり、洸を見据えた彼は、ひどく怜悧な瞳で洸を射抜いていた。深淵を見透かすような、心の奥底にしまい込んだ弱さを抉るような言葉と視線に洸は一瞬、息を詰まらせた。
降谷零は聡明な人だ。逃げ腰になっている自分に問いかけている。アイスブルーの瞳に、洸は気づかされた。
──逃げちゃだめだ。
冷や水を浴びせるような声音だったが、彼の声に洸は首を振った。
迷惑をかけたくないと言いながら、自分が傷つくのが怖かった。踏み込むことで、後悔を重ねたくなかった。世界を他人事のように──自分が傷つくのさえ他人事のように──見つめれば、自分自身の心は傷つかなくて済む。私と貴方、彼方と此方を明確に分けて、区別してしまえば、確かに穏やかに過ごせるかもしれない。むしろ、そのほうが双方にとって幸せなのかもしれない。
それでも──そうだ。
「待ちません。もう、逃げたくない」
背中を押してくれたたくさんの友人がいた。他人であるはずの自分を、突き放すことなく、同じ存在と認めてくれる暖かい関係を知った。
『運命共同体だ』
虚構にまみれた関係だったとしても、確かに感じた優しさがそこにはあった。
自分があの時、あの場所で、彼から与えられた感情は確かに本物だ。
進む理由なんて、それだけで十分なのだ。迷惑じゃないか、関係ないのではないか、そんな逃げる理由だけ並べ立てて、自分の心を守ろうとしていた己の悪癖を振り払う。
例え、どのような帰結を迎えようと、どのような現実が待ち構えていようと、知ることから逃げてはいけない。知ることすら放棄してはいけない。
「逃げちゃ、駄目なんです」
半ば自分に言い聞かせるように紡いだ言葉は、存外力がこもっていて。真っすぐ降谷を見つめ返した瞳に、彼は目元を緩めた。
「本当に変わったな、君は」
「そう…ですね」
変わらざるを得ない状況に追い込まれた故でもあるが、確かに己は変わった。それが、良いことが悪いことかと聞かれればきっと答えは出ないだろう。ただ、変わったことを、洸は厭いはしなかった。
「……変わったといえば、降谷さんもですよ」
マグカップのひとつにホットココアを、もうひとつにブラックコーヒーを注ぐ。両手に持ったマグカップのうち、コーヒーを降谷へと届けた際にそんなことを口走れば、降谷が怪訝な表情を浮かべた。「変わった?」とのおうむ返しに、洸は頷いた。
「自分にも他人にも厳しいのは変わらないですけど、でも、なんというか…あったかいです」
紙と液晶越しにみていた彼は、ただ無機質な存在だった。それを耳と目と、肌で感じて彼という存在を実感した時、降谷零は冷たい存在なのだと洸は気付いた。心を殺して、仮面を付けて、笑顔の裏にある彼はどんな顔をしているのか、とんと見当がつかなかった。
しかし、少しずつ見えてきた降谷零という人間のありのままの顔は、年相応の人間らしさを含んでいた。仕事に殉ずる気概を持ちながら、しかし、個人としての顔を見せる彼に、洸は図らずも胸の内にしっとりと暖かな気持ちが広がっていくのを感じた。
「降谷さんのいろんな顔が見れて、楽しいです……降谷さん?」
決して、画面越しには分からない生身の人としての彼を暖かく想う己の心が、疎ましくない。
心の赴くままに想いを綴れば、洸を見つめていた瞳が伏せられ、ふい、と顔が逸らされた。
気に触るようなことを言ったかと、マグカップをテーブルに置き、膝を降って彼と視線を合わせようとすれば、視界を手で塞がれる。
「……君は本当に」
「降谷さん?」
「……何でもない」
ため息を吐いた降谷は、コーヒーカップを片手に作業部屋へと戻ってしまった。ドアを閉める間際、「おやすみ」と顔も見ずに告げられ、洸はますます首をひねる。
「おやすみなさい」
ぽつり、ひとりごちた。
*
警視庁公安部のフロアでも、統計、資料を管理する第四課は他の課とは大きな仕切りがある。一、二、三課から外事課まで、多岐に渡る要観察組織の情報を纏めているため、ペーパー資料だけでも相当数あり、それを保管するための棚が幾つも設けられていた。
一見すると、鬱蒼とした森のような雰囲気さえ漂う一角で、降谷零は年季の入ったラップトップを操作していた。
武藤管理官、東都不動、黒幕と思われる人間。
繋がりは個々の口座記録で見つけたが、降谷には確信があった。
必ず、接触している。
定期的に依頼を繰り返し、金銭のやり取りをしている人間が顔を見ずにことを運ぶことは少ない。相手の状況を、直接会い、見て、互いの現況と今後の方針を確認し合う。特に、事が起きる前後、互いが共有したい情報が出現した時、出会う確率は上がる。
件の事件が起きる前後、加えて、高橋勇と相澤智則達が起こした強盗事件と、彼らが殺された後の武藤管理官の足取りは、風見の班員が入手していた武藤のスケジュール帳に記載してあった。遺留品となっていた武藤のスケジュール帳には『米花』との文字が散見されたため、降谷は早速防犯カメラの映像の解析を進めた。
「降谷さん、お疲れ様です」
「あぁ、ご苦労」
風見の班員の一人が資料を片手に一角へと入ってきた。画面から目を離して相貌を確認すれば、幾分か、顔に疲労感が滲み出ているのが確認できた。
「疲れているな。ちゃんと寝ているか」
「降谷さんほど無茶はしていないですよ」
苦笑交じりの答えに思わず口角が上がる。
「ただ、時期が悪いですね」
「君は、国政だったな」
「はい。選挙前だから仕方ないですけど、この時期、気を張らなきゃいけないのが大変です」
うんと伸びをした部下は心底うんざりした面持ちだった。
国政と都政のダブル選挙が週末に控えている。現在、各候補者はそれぞれの選挙区での遊説に奔走しているだろう。その候補者、特に国政の党公認の候補者、さらに言えば、特定の党派の候補者の身辺を警察は警戒する。要人の暗殺なんて事件はここ最近聞かないものの、つい数十年前までは当たり前のようにあった事案だ。公安警察も遊説する候補者について回り、監視を怠っていない。不審な動きがあれば、選挙対策のチーム長へと連絡がいく手筈となっている。
降谷からの依頼は、云わばオマケのようなもので、直轄で動く風見以外のメンバーは今、選挙対応にも追われている。故に、カメラの解析作業に当たると申し出た部下達の好意はありがたく頂戴したものの、本来の業務にも集中するよう頼んだ。国政まで一週間を切った今、何が起こるか分からない。ラップトップぐらい警察庁の方まで持っていくと強く主張した部下からの電話を切り、作業区画に顔を出した降谷に部下達は目を丸くしていた。
「気軽に来ないでくださいよ…」と、潜入捜査のため素性を表立って公表していない降谷の仰天行動に呆れつつ、周りの目を気にしながら彼を招き入れた部下達に、降谷は内心満足気に頷いた。
「──じゃあ、自分は出てきますね」
「あぁ、気をつけてな」
小一時間、休憩がてら、ほかのパソコンで映像解析を共にしていた部下は、遊説の時間のため室内を後にした。一人残された降谷は、画面とにらめっこをする。行き交う人々、車、延々と同じ場所の映像を見ていると些か気がふれそうではあるが、降谷は黙然と映像を見続けた。
(……居た)
ピタッと降谷の目に留まった男がいた──武藤だ。米花駅を出た武藤は、真っすぐ東へと姿を消した。
米花駅近辺には他にも警察用の防犯カメラが設置してある。表向きは一週間程度でデータが上書きされ自動的に削除されるようになっているが、実際は、二年分は四課が保管している。
武藤の行く先の防犯カメラの番号を確認し、キーボードを叩こうとした降谷は、しかし、その手を止めた。
「……なんだ、これは」
武藤が過ぎ去った後、わずか数秒程度。その間に、画面上で起きた『ありえない』現象に、降谷の指は宙に留まった。
ありえない。そんな、馬鹿な。なんだこれは。
驚愕に染まった降谷の相貌を、ラップトップの光が妖しく照らしていた。
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