昼下がりのオフィス街は腹の虫を抑えるために街へ繰り出す人で溢れる。喫茶、カフェ、ファミレス、凡ゆる食事処に人々が詰める時間帯。
洸は目の前で親子丼を頬張る彼を眺めながら胸中で呟いた。
(小動物みたい…)
昼飯に行きましょう、なんて言われたこともなかった。そもそも、それほどの仲だとも思っていなかった相手からの誘いに戸惑いながらも、ここで断っては後々の仕事で気まずい空気を味わうことになると判断し、今に至る。
ちらりと視線を寄越せば、きょとんと丸い目が洸を見返す。犬を飼ってる気分はこういうものかと彼の挙動に半ば呆れつつ、温かいうちに食べろと主張するサバの切り身に箸を入れた。
ガヤつく食堂も三十分も経てば人が引いていく。もともと、サラリーマンが立ち寄って、食べれば出ていくような大衆食堂だ。店の一番奥の二人席に座った二人の他には、もう客はいなかった。食事中の会話といえば、仕事やプライベートといった他愛もない話、というより、当たり障りのない話となったため、人がはけたところで洸は茶を一口飲み、切り出した。
「で、どうしたんですか、河村さん」
邪気のない外行きの笑みを潜めて、一転、真顔で彼に尋ねる。変わり身の早さに目を瞬いた河村は視線を一瞬彷徨わせた。
「仕事の愚痴とか、プライベートの話なんて記者室でもできます。ここまで来たのには理由があるんじゃないんですか」
「……刀海さん、事務員より記者の方が向いてるんじゃないですかね…」
「昼夜問わないお仕事なんて務まりませんよ。で、どうされたんです?」
河村は、口を開けたが直ぐに閉じた。言い澱むように唇が結ばれる。迷いの生じている瞳に、洸が「ここだけの話ってことは、わかってますから」と促せば、彼はひとつ、しっかりと瞬いて口を開いた。
「最近、烏丸さんの様子が変なんです。焦ってるような感じで誰かと電話してて、何かあったのか聞いても、ガキが五月蝿えとしか言わなくて」
「焦ってる…ですか」
「少し、怯えてるようにも見えて。会話を聞いてるわけじゃないんですけど…てか、そんなヘマは烏丸さんもしないし。でも、雰囲気が変で…」
普段は軽薄な河村の神妙な声は、より一層彼の心情を伝える。直属の上司の異変を肌で感じ取っているのだろう。
「烏丸さんが電話されている相手の検討はつかないんですか?」
「全然…そもそも、烏丸さんの交友関係なんてさっぱりなんです。けど、烏丸さんっていつもどっしり構えている人なんですよ。何事にも動じずに、でも何かあるとすぐに動いて記事を書いてて。相手がどんな立場の人間でも臆するところなんて見たことないんです」
敏腕記者として名を馳せる烏丸の不穏な行動に、部下である河村が不安に駆られるのは無理もないことだった。
じわりじわりと胸を侵食してくる不穏な影は、嫌な感覚を植え付けてくる。良くないことが起きる、その予兆は幾度もこの世界に来て経験していた。散りばめられた事件の切れ端がひとつにまとめられて、あと少しで全てが揃う時、果たして──彼はどちら側にいるか。
スゥ、と目を細めて、ひどく機械的に河村の言葉を捉えていた洸の耳朶を、河村の震えた声が打った。
「すみません。どうにもできないことは分かってるんです」
はにかんだ笑顔に悲壮感が滲んでいた。
「同じ記者に、あの人のカッコ悪い姿知られたくなくて。口悪いし怖いっスけど、けっこう面倒見良い人なんですよ。だから、あの人のこと知ってて、尚且つ、そこまで関わりない人に話聞いて欲しかったんです。すみません、本当に…ホントに……」
グッと堪えた様相に、かける言葉は見つからなかった。
純朴な想いだけがひしひしと伝わってくる。相手を想い、心配し、気遣う姿は機械的に情報を処理していた洸の胸に染み込み、人間としての感覚を呼び戻させた。
「烏丸さんは、幸せ者ですね。河村さんみたいな部下を持てて」
「そんなことは…ないですよ。俺、ペーペーですし、抜かれるし、楽天的ですし」
「河村さん」
卑屈を凝縮したような口ぶりの彼の言を遮り、ふわりと笑みを浮かべ、目元を緩める。
「私には詳しいことは分かりません。けど、河村さんのそういうところ、すごく好きですよ」
「……え…、え?」
きょとんと目を丸くした後、わかりやすく慌てふためく河村を尻目に再び思考を沈下させる。
チリチリと、胸の奥で不穏な空気が燻り始めていた。
「──あ、洸さん」
「こっち、空いてますよ」
カランと久しく聞いていなかったドアベルの音が鳴る。ドアを開けた先、学校帰りの女子高生二人と小さな名探偵が洸を見て、手を振った。鬱屈としていた感情が胸を渦巻いていたため、清涼剤のような相貌に自然と笑みが溢れる。「ありがとう」と、テーブル席に座れば、梓も直ぐにカウンターから出てきた。「いつもので良いですか?」と華やかな笑顔で聞く梓に頷く。
胸の奥で萌芽しつつある不安の種を奥底に埋めたいと思いながら歩いていたら、洸の足は自然と此処に向いていた。緩やかに流れる日常に浸りたくて、学校の話をする蘭と園子に耳を傾ける。梓が運んできたホットコーヒーを舌で味わいながら、勉強、部活、恋、当たり前の日常の話を至極楽しげに交わす二人に相槌を打つだけでも、錆びついた心が少しだけ和らぐ心地がした。
「ねぇ、洸さん」
ふと、唐突に己の名を呼ばれて一瞬肩を揺らす。「ん?」と小首を傾げた彼女に、園子がニッと歯を見せ笑った。
「今度、東都水族館行きません?蘭とガキンチョ、梓さんや安室さんも、皆誘って」
「へ…え、うん…良いんじゃないかな?うん、行きたいね、水族館」
ぽかんと目を丸くしつつも、はにかんで同意を示す。「やった!じゃあ、近いお休みの日教えて下さい!」と、手帳を取り出した園子の少々、強引さのある誘いに気圧されながらも、洸は選挙後、一番近いであろう休日を指定した。
楽しみだとはしゃぎ合う二人の様子を微笑ましく思いながら、突然のことに思考がついていかずに、内心、首を傾げる。が、コナンが目配せをしたことにより、洸は一旦席を立った。スマートフォンを見遣り、電話が来たことを告げて外に出て店の裏口に回れば、直ぐにコナンもやって来る。
「色々と思うところがあるんだよ」
壁を背に、ぽつりと呟いた彼に洸は「え」と小首を傾げた。
「記憶喪失って嘘まで吐いて、一人で此処で生活してる洸さんにね。あの二人なりに、洸さんに何かしてあげたい、て思ってるんだよ」
「そんなの…気にしなくていいのに。私が勝手にやってることだから」
「洸さんはそうでもさ、周りはそうは思わない。良くも悪くも、普通の環境じゃないしね。それに……」
刹那、コナンの瞳が険しくなる。伏せられていた視線が洸に合わさって、心の奥底を見つめるような強い意志が込められた瞳が彼女に向けられた。
「また、危ないことするつもりじゃないの?」
「……ッ」
曖昧な笑みを浮かべるのが遅れる。絆されていた関係により、嘘を綺麗に吐くことが叶わない。
コナンの問いに詰まった洸は深く息を吐いた。探偵の中でも頭一つ抜きん出た才を持つ彼に、小細工は通用しない。
「危ない…かは分からない。でも、怖いことを知ろうとしているのは確かかな」
「それは、あの時出会ったお兄さんのこと?」
己に銃を向けた彼、結城のことを指しているのであろう。洸は頷くと、物言いたげな彼を遮った。
「大丈夫。ちゃんと、自分のことも大事だから、自己犠牲とかはないよ。……誰かを悲しませたくないから」
自分の身は自分だけのものではない。それは、彼から教えられた、当たり前で、しかし尊く大切な教えだ。自分が傷つくことを厭わないと、傲慢な思考を展開していたあの頃とは違う。
眉尻を下げて笑んだ洸に、コナンは硬い声で告げた。
「誰かが悲しむっていうのもそうだけどさ、俺は、……洸さん自身が自分のことを大切にしてほしい」
とくんと、心の臓が大きく跳ねた。
哀切が秘められた瞳が揺れる。半ば懇願するような視線に、洸は、えもいわれぬ感情が湧き上がるのを感じ、しゃがんで彼と視線を合わせると、その小さく華奢な身体を包み込んだ。一瞬、彼は身体を揺らしたが、彼女の温もりを受け入れる。
「水族館もだけどさ、また、ポアロで皆でお茶しようよ。蘭や園子、灰原達も誘って、また、さ」
「……うん、ありがとう、コナン君」
「ありがとう」と、何度も伝える彼女の震える声は、深く彼の耳朶を打った。
*
──降谷はなんで警察官になったんだ。
丸い瞳が問いかける。人懐っこいタレ目の奥に好奇心を見せる友人に、降谷は溜息を吐く。どうでもいいだろう。視線を法律書へ落としながらそう返せば、「つれないなー」とケラケラ笑う。なんてことはない、他愛のない話だ。意味なんてものはない。けれど、ちょっとだけ興味がある。そんな、年相応の好奇心を刺激された子どもの会話。
──萩はどうなんだよ。
好奇心は伝染する。答えなかったというのに、自分は聞くのかと呆れ果てる己の内心を無視して見遣れば、彼は目を丸くした後、そうだなぁ、と宙を見つめた。
──なんとなく、だな。
肩透かしを食らった気分だった。何だよそれ。他人に聞くくらいだから、崇高な想いの一つや二つがあるかと思えば、この反応だ。
じとりとした降谷の視線に、萩原がまたケラケラと笑う。その横顔が茜色に染め上げられていく。窓越しに外を見れば、もうすぐ日没を迎えようとしていた。
二人談笑している部屋に、数人が参加する。何やってるんだよ。何でもないさ。なんで、警察官になったか談義。なんだそれ、下らねぇ。違いない。そうか、俺は気になるけどな。一気に賑やかさが増した室内で、降谷は法律書をパタンと閉じた。
いずれ、各々が違う道を歩むであろう未来が待ち受けていても、今確かに、此処で笑い合っている現実は変わらない。萩原が軽薄な笑みを浮かべ、松田が眉を顰める。伊達は豪快に口を大きく開けて全員を笑い飛ばし、彼が、ーー景光が幸せそうにその光景を眺めた後、緩んだ目元を此方に向けるのだ──ゼロ、と。
こみ上げた情動に脳が刺激される。違う、これは──
現実じゃない。
寝覚めの悪さと、己が犯した失態に降谷は目頭を押さえた。掛け時計を見遣れば、時刻は午後九時を回っている。本庁から帰宅した後、頭を冷やしたいがために無為にシャワーを浴び、頭を乾かした後、ソファで眠りこけたらしい。自宅とはいえ、恐ろしいほど警戒心が薄れている己に舌打ちしたくなった。
腑抜けている。腑抜けているからこそ、あのような夢を見たのだ。
なんで、警察官になったのか。
「──忘れたよ、もう」
彼方に追いやった記憶に自嘲する。
過ぎ去った日常を思い起こしてどうするというのだ。陽だまりの中で、ただ明日を見て、未来を夢見ていた子ども達は、もういない。
沈下させた筈の記憶だ。奥底にしまい込んだ過去だ。自分にとって光だった彼らを、彼を思い起こすなど、いかに自分が油断しているかの表れで、苦い思いが降谷の胸中に滲んだ。
彼らのことを片時も忘れたことはない。記憶を追いやろうと、彼らの存在は降谷の胸の奥底にある。降谷零を認め、見つめ、形作った彼らは降谷にとって一等大切な存在だった。
何故、今更、と右手で顔を覆った降谷は、指間から見えた薄紅色のカップに目を細めた。脳裏に浮かんだ仄かな笑みに、くしゃりと前髪を掴んだ。
絆されていたというのか。己が何者であっても信じると、真っ直ぐ降谷を見つめた瞳を、自分を受け入れ、信じた友と重ねているとでもいうのか。
「……下らない」
否、そうである『筈がない』
感傷を一蹴した矢先、ガチャリと玄関のドアノブが回された。
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