溶け込んだ日常に身体が馴染んでいた。一年もいないのに、自然と身体は世界に馴染んで、まるで自分が昔から此処にいるような感覚にまで浸っていた。

私の世界は此処じゃない。

仮想現実とも現実とも言えない曖昧な世界で、しかし、確かに自分自身が現実と認識していたのは此処だ。脳の電気信号によって世界を知覚するなら、ともすれば此処は夢の中かもしれない。しかし、夢か現実かの区別など瑣末なことだ。
私は今此処にいて、話して聞いて、感じてる。
私の脳が見せている仮想世界だとしても、私は現実として認識している。
それでも、己がイレギュラーなことには変わりなく、自分が形作られた世界は此処ではない。
いつのまにか薄れていた自覚。人の温もりが、感触が、此方と彼方の違和感を取り除き始めていた矢先、それは──呆気なく終わりを迎えた。




慣れない帰路を辿り、玄関を開ける。ただいま、とはまだ言い難いため、「お邪魔します」と告げパンプスを脱ごうとすると、ひとつの革靴が視界に入った。彼が自分より先に着いていることは珍しい。激務に追われているはずだ。廊下を通り、リビングの扉を開けた先でソファに腰を下ろしている降谷と目が合ったため、「今日は早かったんですね」と、尋ねる。
が、降谷は生返事を寄越しただけで、洸から直ぐに視線を逸らした。

「降谷さん、どうかされました?」

挙動がおかしい彼を見つめる。歯切れの悪い答え、神妙な相貌に何かあったのかと彼へと一歩近づいた。

「マトリックス」

ぽつりと、しかし洸に届く声が彼女の耳朶を打った。やけに耳に残る声音に、ぴたりと歩みが止まる。「急にどうしたんです?」と、苦笑した洸は、しかし向けられた降谷の相貌と言葉に、硬直した。


「──君は、本当にネオだったんだな」


数秒、見つめ合う。二人の間に広がった無言の中で、洸はというと、彼の言葉を飲み下せずにいた。

(何が、起こったの?)

どうして、彼がそんなことを言うのか分からない。分からなくて、理解が追いつかなくて、故に、言下に否定することも叶わずに、ただ呆然と彼を見つめた。
ネオ。それは、彼との他愛のない会話の中に出てきた物語の主人公。マトリックスの中で、夢の世界から現実世界へと目覚めた男。
自分の見ている世界は果たして現実か。現実は夢で、覚めれば本当の世界に戻ることができる。そんな、夢物語の世界。

しかしそれは、洸がこの世界に来てから感じている世界だった。

「なに、言ってるんですか」と、抑揚のない声で呟く。視線を逸らすこともできず、降谷を凝視したままの洸に、降谷は淡々と紡いだ。

「初の違和感は、ホテルでの宿泊記録だった。チェックアウトの記録はあるのに、チェックインの記録が物理的にも人の記憶からもごっそり抜け落ちている。監視カメラにも写り込まず、人の記憶にも残らない。けれど、君はどうしてか『なんの疑問も持たれることなく』チェックアウトできた」

まるで、世界の理が捻じ曲がっているような感覚。あるはずの事象がなかったことになる矛盾に、首を傾げるのは当然で、しかし、証左するものが何ひとつないなら疑義を挟むことは無意味だった。故に、降谷達は洸の過去を暴くことも、何故組織の情報を知り得ているかも、彼女に問わなかった。

「違和感は残り続けた。それでも、それが枷にならないほど、君はこちらに溶け込んだ。それが出来たのは、君がいったい何者なのか決定づける証拠が何ひとつなかったからだ。だが、今思えば、当たり前だな。そもそも、君が俺に伝えた通り、君は『君が生きてきた全てを、人との繋がりすら証明する術がなかった』」

無意識に一歩後ずさる。その先を聞きたくないと身体が拒絶反応を示していた。

「証明する術がないというのは、今なら理解できる。君は、──此処とは違う世界から来た」


──嗚呼、逃げられない。


後ずさる己に、彼が一歩ずつ近づいてくるからではない。彼の、降谷零の物言いは『確信を持っていた。』
それでも、紡がれるのは悪足掻きで。視線を逸らし、必死に場を繋ぐ言葉を紡ぐ。

「そんな…突拍子も無い」
「そうだ。突拍子もない。だが、今まさに、俺は自分の推測を確定させた。君は、──嘘が吐けない」

「は…」と呼吸音が漏れる。心臓が早鐘を打っていた。

「武藤の動きを調べる一環で、奴のスケジュールに頻繁に書き込みのあった、米花、を頼りに、駅近くの監視カメラの映像を洗い出した。すると、四月のある日、映像に武藤が映り込んだ。スケジュールに記載してあった日の昼間だ。俺は、奴の行き先にある防犯カメラの映像も解析して、どこへ行ったのかを詳しく調べようとした。しかし、カメラを切り替える前に、奇妙な現象が起きた」

五月蝿い、五月蝿い。木霊する声は心臓の音へなのか。

「誰もいなかった歩道に、唐突に、──人間が現れたんだ」

やめて、黙って、言わないで、来ないで。
暴かれる恐怖、ひた隠しにしていた奥底の秘密。覆い隠しているヴェールが一枚、一枚剥がされていく。

「その人間は、辺りを見渡して首を傾げた。何か違和感を感じている様子だったが、その後すぐに歩き出す」

記憶の蓋が開く。脳裏に蘇った数ヶ月前の自分の行動が、リンクする。

「その人物は、二時間ほどするとまたそこに現れた。スマートフォンを握りしめて早足で駅のホームに向かった」

──リアル聖地巡礼かよ。

公園のベンチで現実を認識した瞬間、全てを理解したあの日。
覚えてる、分かっている。彼が紡ぐ先の未来が手に取るように分かる故に、逃げたい。けれど、逃げ場はない。
トン、と壁に背がついた。

「映像が記録されたその日、俺は、ある女性と出会った。偶然にも、その女性は、防犯カメラに突然現れた彼女と酷似していた」

ピタリと洸の目の前で降谷が止まる。下げていた視線を無意識に上げ、己を見下ろす彼の相貌を間近で確認した洸は、もう、彼から視線を逸らすことはできなかった。

「改めて、俺は君に問う」

アイスブルーの瞳が、洸を捉えた。


「君は、どこから来たんだ」





理解できない事実だった。しかし、確かに目の前にある現実だった。
カメラ映像に突如現れた人間。記載された時間は寸分狂っていないというのに、画面上の他の歩行者は何事もなく動いている。そこで起こった事象が、まるで初めからなかったかのように。その画の中で違和感を感じていたのは、突如現れたその人だけだった。
以前、彼女を探す一環でしらみつぶしにカメラ映像を解析した際には見ることができなかった。あるいは見落としていたのか。ありえない現象と位置付けた理由はそこにもあった。
ポアロの窓ガラスに触れ、驚愕に目を見開いていた女。不審に思い声をかければ、刹那、此方を見て息を飲んだ。まるで、自分を知っているかのように。
事実、彼女は自分を『知っていた。』どこで、どう知ったかは知ることはできなかったが、その時点で理解していた。しかしそれならば、もう一つの疑問が生まれる。

何故、知っていたのなら、自分の姿に驚愕したのか。

組織への潜入も、喫茶ポアロでの仮の姿も、全て理解していたのなら、あの瞬間、己の姿に驚愕する筈はない。知っていて、且つ、自身が知悉している事実を知られたくないのなら、そもそもあの場に近づくこと自体が不自然なのだ。
まるで、自分の意思とは関係なく其処に来て、その事実に畏れを抱いたと言わんばかりの状況だった。
胸に抱いていた疑問が、映像を見たことにより再び噴出した。そして、確信へと変化した。

あの場に来たのが、彼女にとってもイレギュラーな事態だった。
彼女は、知っていた。しかし、あの場に来るような立場にいなかった。
自らを証明する術がない、即ち、その事実がない──この世界には。
此処が、夢のような世界だと宣い、己は切り捨てられるべき人間だと断言した、否、できた理由は?

組み合わせた事実と言葉が導き出すのは、おそらく真実だ。

降谷の問いに、洸は微動だにせず彼を見つめた。逡巡も、口籠ることもなく静かに彼を見つめ、そして、ひとつ瞬き、口を開いた。

「──焦りこそ最大のトラップ。これは、松田陣平さんからの助言ですね」

あり得ない言葉が、降谷の耳朶を打つ。
それは、己しか知り得ない言葉だった。

「警察学校時代の同期は松田さん、萩原さん、伊達さん、諸伏さん。諸伏さんは幼馴染で、親友だった。ゼロというあだ名は彼が付けたもの。ギターは恐らく、諸伏さんのものですね。初恋の人は宮野エレーナさん。FBIの赤井秀一さんは…天敵、でしょうか」
「……君は、」
「未来から来た、とかの方がまだマシだったかもしれません」

片手で顔を覆った彼女が俯く。

「この世界は私にとって、マトリックスなんです」
「現実では無い、と?」
「……いえ、そうじゃないんです。ここは確かに今、私にとって現実です。でも、私が過ごしたのはここじゃない」

くしゃりと前髪を乱雑に掴み、溜息が吐かれる。焦燥感に駆られているような彼女は、ひとつ息を吸って、絞り出すように答えた。

「私にとってここは、物語の世界なんです」

吐き出された言葉に、理解が追いつかず、降谷は言下に返した。

「どういうことだ」

図らずも詰問する物言いになったが、取り繕う余裕すらない。話している言語は同じだというのに、言葉の意味を飲み下せない。
圧を強める降谷に、彼女はぽつりと問い掛けた。

「エンデの、はてしない物語をご存知ですか」
「……昔、読んだことがある」

はてしない物語。ドイツの作家、ミヒャエル・エンデが手掛けた児童文学。
現代に生きる少年、バスチアンはいじめられっ子だった。バスチアンはある日、いじめっ子から逃げて、とある古本屋に逃げ込み、ひとつの本と出会う。本の中ではファンタジーエンという国が崩壊の危機を迎えていた。本の中の住人の一人が言う、世界を救うためには人間界から救世主を連れて来る必要がある、と。本を読み進めていくうちに、バスチアンはその本の中へと──

「私は今、バスチアンの立場に近い位置にいます」

はっきりと告げられた言葉に、しかし思考は追いつかなかった。

「この世界はファンタジーエンで、君は救世主となるべく現れたと?」
「救世主という下りは違います。私は、特別な力もない、ただの人間です」
「なら、君は…偶然、本の世界に迷い込んだというのか」

にわかには信じ難い話だった。紡がれる言葉は降谷の耳に届きはしたが、情報を脳で処理するのには時間を要した。
それでも、紡がれる彼女の言葉は変わらない。

「馬鹿げているとは思います。私も何度も思いました。これは夢だと、現実じゃないと。でも、現実として私はここで息をして、人と話してきた。撃たれたら痛みも感じました」

洸の語気が強められる。瓦解しそうな精神を、精一杯保っているような声だった。
理解できない、思考が追いつかない。
しかし、降谷は【分かっていたはずだった。】
こちらのことを知悉しすぎている、しかし、己との邂逅に驚愕した事実。それは、彼女の言葉を聞けば合点が行く話だった。

「あちらに帰ろうともしました。でも、帰れなかった…帰り方も分からない。なら、いっそこの世界からいなくなれば、全部、終わらせてしまえば良いって…私は、居なくなっても問題がない。私は、初めからここにいるべきじゃないって、そう思ったから…だからッ…」

切り捨てられるべき人間だと、寄る辺のない人間だと、そう哀切に顔を歪ませた彼女の真意が語られる。曖昧な笑みで隠してきた秘密が、暴かれた。
それでも、その事実は降谷の脳髄を揺さぶる程度には衝撃的で。何度も彼女の言葉に反駁しそうになる己が居たが、泣きそうな顔で身の内を語る彼女にそれは出来なかった。

「……ごめん、な、さい」

震える声に、肩に、身体に、彼女が背負ってきた重圧の大きさが現れている。
読んでいた本の世界に来て、物語の登場人物達と出会って、相手は何も知らず、己だけは知悉している異質性。神の立ち位置から、地上に落ちた一般人ということを、彼女は嫌という程理解している。
どうしようもないことだ、彼女の意思でここにきたわけではない。頭では降谷とて理解している。

しかしながら、──その異質性を知ってしまった降谷の目に、もう、彼女は正常には映らなかった。

「……全て知った上で、ずっと…俺達と過ごしていたんだな」

自分の過去も、他人に触れられたくない痛みも、言葉も知られている事実に降谷は、彼女に伸ばそうとした手を、下ろした。

「俺達は、本の中のキャラクターで、君にとって、紙の上の人間なのか」
「ッ、ちがっ、違いますッ!そんな」
「過去も性格も、……本当の人間性なんてものは、そもそも、分かっていたことか」

歪んだ口元に彼女が絶句した。「違う、違う」とうわ言のように呟く彼女の瞳から、光が薄れていく。しかし、降谷の胸の奥から湧出する想いは止まらない。
そうだ、どうでもいいことだ。己の正体が知られていたことも、人間性が暴かれていようと、至極、そんなことは瑣末な問題だ。
それ以上に、どうして──

「教えてくれ」

知っているのなら、見てきたのなら、教えてくれ。
この、こんな世界で、何故──

「アイツらが死なない世界は、あったのか」

──自分の無二の友人は、命を落としたのだ。

「どうすれば、誰も死なずに済んだ?アイツは、どうしてあの時、死んだんだ」

爆弾魔の凶行に倒れた萩原、敵討ちに奔走して毒牙にかかった松田、不慮の事故により死神に連れていかれた伊達、自分が辿り着いた時には、間に合わなかった、景光。

彼らが、死なない道は、なかったのか。

「分かるんだろう? 俺達を外から見続けて、……物語として、見てきたのならッ」

乾いた笑いさえ、枯れ果てる。「教えてくれ……」と、歪んだ笑みを見せても、彼女は何も答えなかった。呆然と降谷の相貌を見つめるふたつの瞳が、揺れて、濡れて。行き場のなくなった雫は、重力に従って流れ落ちた。

「なァ、【刀海】さん」

目の前にいる人間の名前を呼ぶ。確かにそこにいる彼女が、しかし、ひどく遠い。



「──君にとって、俺達は何なんだ」



それは、彼女との全てを、虚構とするには十分な問いだった。


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