どこから、勘違いしていたんだろう。どうして、引いた一線を消してしまっていたんだろう。心地良い関係が、信頼してくれる気持ちが、自分をひどく傲慢にしていたのかもしれない。
大事にしてくれる人がいるから、自分を軽んじてはいけないなんて──

「馬鹿みたい」

星ひとつ見えない暗雲を見上げて、洸は乾いた笑いを漏らした。
あの後、居ても立っても居られずにその場から逃げ出した。棒のように固まっていた身体は、降谷の一言に弾かれるように反応した。

──君にとって、俺達は何なんだ。

言葉に窮した自分に、涙が止まらなかった。
ごめんなさいと、いったい誰に言うのか。何のために、誰のために。
いつか暴かれるかもしれないとは覚悟していた。しかしながら、今、この時だとは思っていなかった。
ようやっと、世界に身体が馴染んできていた。違う世界から来たとしても、確かに大切な人がここにはいる。物語のキャラクターとしてではない、生身の人間として大切な人達がいる。
ただ、彼らは自分の真実を知りはしない。
「ごめんなさい」紡ぐ後悔は誰のため、何のため? 積もる悔恨の念が、幾重の層になって心を埋めていく。
曖昧な笑顔で避けていれば、変わったのか。きちんと彼らと自分の違いを意識して、踏み込まないようにしていれば、傷つけることはなかったのか。
己の気持ちを吐露する甘えた行為で、傷つかなくても良い相手を傷つけた。

「ごめんなさい……ッ」

私は、もう、昨日に戻ることは出来ない。
絶たれた繋がりに、慟哭が胸の内で響いていた。





──迷惑かけないで、て言ったじゃない。
ごめん、ごめんね、母さん。
──どうしてよ、なんで貴女が、なんで。
ごめん、ごめん。
顔が、見えない。声だけ聞こえる。瞼の裏から見えるのは光があることだけで、あとはなにも分からない。また、迷惑かけたんだ。謝らないと。手を伸ばして、ごめんなさい、て──


「………いやな夢」

見慣れた天井と手の甲が視界に映る。目尻を下る雫に、溜息が漏れた。
家を大して空けていなかったというのに懐かしさを覚えたのは、誰かと一緒に過ごしたせいか。人の温もりがない、殺風景な自室は、妙に寒かった。おやすみ、の一言だけでも、人に安らぎを与えるものだと今更ながらに実感する。
寝覚めの悪さに目頭を押さえながらも、時間は待ってくれない。支度をした洸は、陰鬱な面持ちのまま家を出た。

至る所で聞こえる選挙カーのスピーカーからの声が右から左へと抜けていく中、いつも通りの時間に出勤する。部屋に入れば、若手の記者達が談笑していた。「──これ、忘れるか、普通?」「一番大事なもん忘れてるよな」「張り付いていてもさ、スケジュール把握は必要だろ」東都新報の河村に投げ掛けられる苦笑に、彼は勃然とし、「忘れることだってあるだろ」と言い返していた。
彼らを横目に、消え入るような声で挨拶をした洸は事務席へ着く。暗雲立ち込める心内を察したのか、女性記者が「大丈夫ですか。顔色悪いですよ」と気遣ったが、外行の笑みを顔に貼り付けた。
駄目だ、しっかりしないと。そう思えば思うほど、昨晩の降谷との会話が思い起こされ、顔に影が落ちる。
結城を追って、事件を洗い、彼に辿り着かなければいけないというのに、私情が先んじて思考停止に陥っていた。リフレインする降谷の問いが、楔のように躰に穿たれて、じくじくと痛む。逃げていても駄目だ、きちんと向かわないと。冷静な思考はそう告げていても、感情は後ろ向きだった。今更、なにを。どうあがいても騙していた事実は変わらない。君にとって、俺達はなんだ。その問いにすら、今、答えることができないというのに。

(いけない)

ひとつ、深く息を吐く。
悩んでいる間にも、結城が次の犯行に及ぶ可能性は十二分にある。思考を停止させれば、彼に近づく術は断たれてしまう。
しかしながら、降谷との情報共有が絶望的になってしまった今、ひとりで何かをしようというのもまた無謀な話で。とにかく、今与えられている情報の整理だけでもしようと黙考しようとした矢先、記者の一人が部屋の真ん中に置いてあるテレビを点けた。

「まーた、特番だって」
「この時期嫌になるほど観るよな」
「大して視聴率取れないのに、ねぇ」

政経班には所属してないであろう記者達は、画面を観て肩を竦めた。
投開票日が迫ると、テレビを点ければワイドショーやニュース番組は政治色で染まる。世の中の関心は大して向きもしないが、それが報道というものなのか、やたらと取りざたされるものだ。
ひとつの区の候補者はすべからく報道される。選挙報道は公正を期さないといけないため、報道するとしたら、誰も映さないか、全員を映すかの二択だ。液晶画面に映る候補者は六人のため、これは国政の方か。洸は、クローズアップされていくひとりひとりのプロフィールを横目でうすぼんやりと眺めた。元アナウンサー、都議会議員、俳優、放送作家、並ぶ面々を一人ずつ紹介していく。

『──は、元港区の区議会議員ですね。都市整備計画の策定に尽力されましたが、都政ではなく国政への出馬は意外でしたね』

司会者が、パネラーに話題を振った刹那、洸の目が見開かれる。ぴくりと、身体が緊縮したのは、耳朶を打った言葉があったからだった。
聞き流していた音が、つぶさに拾われていく。

『与党の最大会派の後押しを強く受けての出馬です。有馬議員の後任として都議会の佐藤議員を充てたかったようですが、収賄疑惑の件で向かい風になってますからね。実績のある人が望ましいという判断だったんでしょう』
『生活道路のための道路拡張事業には以前から積極的でしたね』
『そうですね。働きかけにより、行政側も本腰を入れた節があります。有力議員の地盤を継いだわけではないですが、もともと、建設関係の仕事もされていたようなので、今回の会派の後押しに加えて、そちらの票が多く流れるでしょうね』

洸は無意識に立ち上がり、テレビの前へと進み出ていた。司会者とパネラーの説明に加えて出てきたVTR、そこに載っているテロップで伝えられる候補者の情報が、頭の中で蠢く情報のひとつとして共有される。
ふと、気付きを覚え、視線を外した洸は記者室の一番奥の席へと向かった。ぽかん、と目を丸くする河村を尻目に、彼の隣の席に視線を落とす。ペラリ、と一枚、無防備に置かれた重要事項が記載されたペーパーを上から下まで読んだ。読み進めるにつれて、その瞳が鋭さを帯びていく。

「どうかしました?」

首を傾げる河村に、洸は「お借りします」と告げると、部屋を飛び出した。後ろで聞こえた困惑の声は聞かないふりをした。

「──風見さん、すみません。お聞きしたいことがあるんです」

全速力で階段を駆け下り、ひと気のない裏口付近でスマートフォンを取り出した洸は、電話帳から風見の番号を選んでタップした。コール音は数度鳴ったが、風見は存外、早くに電話に出た。しかしながら、急を要しているのか、声が通常より焦りを含んでいる。

『すみません、今、話ができる状況では』
「米花駅の監視カメラの映像の解析は終わられましたか?」
『は……?』
「武藤と会っていた人物は特定されたんですか!」

誤記を強めれば、風見が戸惑いながらも『えぇ…はい』と答える。生唾を飲み込んだ洸は風見に問いかけた。

「解析されたカメラの映像の中に、【国政に出馬している候補者がいませんでしたか】」

問いに対して、風見が電話越しにも絶句したことが伝わった。『何故、貴女が』と焦慮に駆られた声で問い返す風見に、洸は硬い声音で告げる。

「その候補者を警護している人がいるなら、今すぐ伝えて下さい」

持ち出したペーパーに視線を落とし、羅列された【都内各所の土地名と時間】に眉を顰めた。


「その人の命が危ないかもしれないんです」


『遊説スケジュール』と記された紙が、くしゃりと握られた。





ひどく疲労の色が見える降谷に風見が呼ばれたのは、明け方のことだった。警視庁内に設置されたSSBC、捜査支援分析センターを訪れた風見は、分析官数人と会話をする降谷にぎょっとした。「俺の部下だ」と紹介されれば、胸を撫で下ろす。同時に、どこまで彼の作業班がいるのかと畏れも抱いた。
捜査支援分析センターは、DAISと呼ばれる画像分析システムを駆使して、防犯カメラの画像解析、犯人の顔の割り出しや、車のナンバープレートの鮮明化などを行う。

「武藤と密会していた連中の顔が割れた」

大型ディスプレイに複数台のカメラ映像が映る。米花駅付近の映像の中に、武藤と思しき男が映り込んだ。

「防犯カメラの映像検索の結果、武藤は米花駅近くの高級クラブに入ったことが確認されたため、捜査協力の名目でそこのカメラ映像を提供してもらった。古いタイプなのか、画像が不鮮明だったが、ここでの解析の結果、武藤が訪れた時間と同時刻に店に来た人物を特定できた」

タン、とキーが叩かれる。狭い通路を歩く武藤、次いで──

「……高橋」

東都不動営業課長、兼秋林組幹部、高橋勇。

「重要なのは、この後だ」

もう一度、キーが叩かれる。数分後、映像に映し出された人物に、風見の目が見開かれた。

「この男は……」
「出資記録の割り出しが終われば、全てが白日の下に晒される。早急に調べてくれ。この男が


──国松省吾が、一連の事件の黒幕だ」


国松省吾。元港区区議会議員にして、与党最大会派からの後押し受けて、東京選挙区に出馬している、候補者。
容疑者として浮上したのは、あまりにも影響力のある男、そして彼は──東都新報、烏丸が記事を担当している議員だった。


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