『お掛けになった電話は現在、電波の届かないところにあるか──』機械音声のガイダンスを二度ほど聞いたところで、降谷は苛立たしげにスマートフォンの終話ボタンをタップした。盛大な舌打ちをした後、須臾に車を走らせる。思いの外、アクセルを強く踏み込んだのか隣席の風見からひしゃげた声が上がった。腹の底から湧き上がるどうしようもなく御しきれない感情に、深い皺が眉間に寄る。
聞かされたこの世界の真実を飲み下したわけではなかった。作られたキャラクター、世界観、ただの本の世界。自分達の過去も現在も、はたまた未来さえ、決められた線路(レール)を走る列車のように立ち寄る駅も終着も決まっているなど、聞かされたところで理解はできても納得できるものではない。自分達は此処で、凡ゆる感情を内包して生きている。決められた生を生きるだけの存在じゃない。全知全能の神が定めた物語を歩くだけの人形などと、誰が認めることが出来ようか。
そもそも、仮にそんな高位の存在がいたところで、自分達の内部までを知り尽くすことが可能なわけがない。物語があり、キャラクターがいようと、感情のひとつひとつ、総てを理解することが出来るはずがなく、物語は語られた時には既に作者の手を離れるものだ。ならば、高位の世界を仮定したところで、今の降谷には何一つとして関わりのない。
しかしながら、それを、彼女から聞かされた。そしてまた、彼女はその高位の世界の人間と知らされたことは、降谷の心を深く抉った。自分を信じると、目元を緩め、ただ微笑んだ彼女の相貌に亀裂が入る。
君にとって、俺達は何なんだ。その尋ね方には語弊があった。
君にとって、俺は、何なんだ。
「彼女と、何かあったんですか」
風見の硬い声が耳朶を打ち、降谷は思惟に浸っていた思考を浮上させた。隣の風見は降谷を正視することなく、フロントガラスを見つめる。「何もないさ」と取り繕った口元に、「そうですか」と、無駄に追うことはしなかった風見だが、無言となりそうになったタイミングで、再び口を開いた。
「自分は、彼女のことを誤解していました」
「誤解…?」
唐突な部下の告白に眉根を寄せながら、降谷は彼の紡ぐ言葉に耳を傾けた。
「彼女は自罰的で、脆く、危なっかしい。しかし、芯が強く、ひたむきだと。これだけの事件に巻き込まれているにも関わらず、肝の座っている女性だと思っていました」
切り捨てられるべきだと己を軽視して、それでも、自分が傷つくことで誰かが傷つくと理解して。織り成してきた人との関係の末にある芯の強さは確かに彼女の本質かもしれない。降谷も風見と同じような感覚を彼女に抱いていた。
「けれど、違いました」と、風見は視線を僅かに下げる。
「彼女は……ただの、普通の女性です。自分達が守るべき、一般人です」
風見の言葉に、降谷の内の何かがぐらりと揺らいだ。一瞬、見開かれた瞳は真っ直ぐ前を見据えながら硬い色を灯すが、僅かに動揺が滲み出ていた。
「どれだけ芯が強くても、事件を追おうとしても、公安が監視対象としていても、彼女は守るべき一般人です。彼女が、【何者であっても】守るべきだと、そう強く感じます。我々は──警察官ですから」
警察官、その言葉に風見の決意とも取れる意思が込められていた。
滔々と紡がれる想いは彼と彼女が織り成した関係の証だ。何を彼と彼女が話してきたのか詳細は知らない。
しかし、彼は何があろうと揺らがないのだろう。警察官。胸のバッジを誇りとするのならば、尚更、意思は強固なものになる。
降谷は風見の言に何も答えなかった。重苦しい沈黙を湛えたまま、車は走り続けた。
*
規制線が至る所に伸び、周りを不安げな市民が取り囲んでいる。立哨する警察官達はしきりに「下がってください!」と呼び掛けていた。爆発物がまだ付近に残っているかもしれないとのことで、住民には避難指示が出ているものの、物見遊山で顔を出す危機意識のない人間が多いのは此処が日本だからか。ずっぷりと埋もれた平和という泥沼の中から、外界の危険は見ることができない。
故に、洸が現着した時には、人集りで規制線内部の様子が確認できない状況になっていた。何が起こったのかをただ見たいだけ、知りたいだけの欲求に突き動かされた市民達が我先へと集まり、片手にスマートフォンを持つ輩も多く見られる。現代病の極みに辟易しつつ、洸は離れた場所から辺りを見渡した。
警察の初動部隊は現着しているが、所轄の刑事などはまだ到着してないようだった。混沌とした空気が場を支配していて、現地の警察も、支援者も混乱の最中といった様子だ。怒号が飛び交う中で何処かに彼の手掛かりは落ちていないかと視線を右へ左へ動かしていた洸は、群衆のひとりにそれを奪われた。
定まった視線は真っ直ぐ彼を見た。何故ならば、彼もまた洸を正視したからだ。一瞬のその邂逅はしかし、二人の間に暗黙の了解を結ばせた。ふいと逸らされた瞳が伝える指示に、洸の足は自然と彼を追っていた。
「──今日は、仕事だと思っていましたがね」
規制線を潜り、立証警官の目を抜けて歩いていた二人。そのうちに口を先に開いたのは、彼だった。じとりとした眼光が洸を睨め付けるが、彼女は戯けた調子で首を傾げた。
「烏丸さんは、随分と【忙しそうですね】」
牽制球を投げあったところでさして意味はない。酷薄の笑みを向けた洸に烏丸は視線を一度落とすと彼女に身体を向けた。
「忙しいですよ。担当している候補の命が狙われたんです。さっさと記事書いて本社に送らないといけない」
「へぇ。誰に狙われたのか分かってるんですか」
「さァ?でも、一報は書けますからね」
「杜撰な内容でもですか?」
ピクリと烏丸の片眉が上がる。怒気が空気を伝播して肌を刺激したが、洸は臆さなかった。
「人の命が狙われたんですよ。少なくとも、その事実だけは報じられるでしょう」
「爆発物が遊説中に爆発した、というだけが報じることができる事実であって、狙われた、というのは恣意的ではないですか。そんなの──自作自演ということも考えられますし」
「……演技でもねェことを言うんじゃねえよ、嬢ちゃん」
仮面を取り去った烏丸の口調は荒々しく、河村に対するそれと同じだった。眼光が鋭さを増し、敵意を孕んだそれを洸は全身で受け止める。
「国松さんを狙ってる奴の犯行以外の何があり得る」
「……それは、烏丸さんがよくご存知じゃないんですか」
平坦な声音で詰める洸に烏丸は動かない。敏腕記者として名を馳せる烏丸の矜持が垣間見える隙のなさに、しかし洸も引きはしなかった。
「国松候補が狙われる理由なんてご自身が一番良く分かっているはずです」
「根拠も何もない戯言だ。証拠はあんのか」
「国松候補とその怖いお友達は、いずれ逮捕される。その程度の情報は持っていますし、証拠も揃います」
「ホラを吹くなら、もう少しマシな内容にしな」
「幸村巡査の生家に行く可能性を怖いお友達に漏らしたのは烏丸さんですね……いえ、正確には国松候補からでしょうか」
烏丸の顔が歪んだ。凄む瞳は図星の現れだ。動揺までは誘えていないが、確実に焦りは生み出している。
「私があの場所へ行くことを話したのは数人です。初めはその中に内通者がいるかと思いましたが、誰もあの事件に通じる点がなかった。一番疑わしかったのは、やたら事件を蒸し返すなど釘を刺してきた貴方です。ただ、貴方は奥多摩へ行く話を聞いていなかった。だから、河村さんに聞いたんです」
自分が奥多摩に行ったことを他の誰かに話したか。その問いに対して河村は思案した後、烏丸だけには聞かれたと答えた。
「私の行き先を聞いた烏丸さん、やたら驚いた感じだったそうですね。ふと考え込んだあとにすぐに部屋を後にしたとか。……ねぇ、知ってます?あのあと私、本当に怖い目にあったんですよ。妙な輩にナイフで刺されかけて、執拗に追い回されて、本当に─」
「御託はいい」
低く唸るような声が洸の耳朶を打った。からりと笑みを湛えながら、しかし内実は感情を削ぎ落とした洸の相貌が固まる。スゥ、と目を細め、烏丸を見据えた。冷然とした姿に対して、烏丸は僅かに激情を見せる。
「俺が悪い奴だとしたらナンだ。嬢ちゃんはここで答え合わせでもしたいのか?それとも……復讐でもするか?」
ぐしゃりと前髪を掴み、俯いた烏丸が自棄になった瞳を向ける。
嗚呼、やはりこの人は──悪人ではない。
「どちらでもないです。答え合わせに意味はないですし、復讐も……今の私にはどうでもいいことです。ただ、なんでこんなことをされているのかは、聞きたいです」
河村の沈痛な面持ちが脳裏に蘇る。彼は烏丸を案じていた、面倒見の良い人だと信頼している。彼が敬愛しているからこそ、洸は目の前の男に問いたかった。
「仕方がない。俺にはどうしようもないことだ」
にべもなく吐き捨てた烏丸は彼女から視線をあからさまに逸らす。声音に滲むのは遣る瀬無さと歯痒さで、懊悩が垣間見える。
だからこそ、洸は語気を強めた。
「分かってるんでしょう、烏丸さん…あの候補が何をしてきたのか、全て分かってるんでしょう?」
「嬢ちゃんは…あの男の……組織の恐ろしさを知らない」
「……組織?」
組織。その単語が意味するものは何かを思案する前に、烏丸が鬱屈とした感情を吐き出した。
「敵いっこねぇんだよ。敏腕記者だなんだの祭り上げられたところで、あの組織の息のかかった奴に目をつけられたら終わりだ。上からも外からも圧力がかかる。命も危ねえ。身の保障をする上に、情報も提供される。不服に思うことすら馬鹿馬鹿しいほどの待遇だ」
「だから……飼い殺されることを選んだんですね」
凡ゆるネタを融通する代わりに、全てに目を瞑る。その甘い汁を啜ってここまで来た。汚泥の中で這い蹲るより、小綺麗な家の中で首輪を付けられた生活を選んだ。生きるため、殺されないため仕方ないと思いながら、それでも自分はその状況を享受してしまった。身の内にある罪悪感を見ないふりをして、痛みを感じないように振舞って。
悲痛な声音だった烏丸は、口元を歪めて自嘲した。「そうだよ。俺は、記者である前に人間だ。ただの人間なんだよ」と、コートの内側に手を入れる。
「なら、こうするしかねえだろ?」
掌にすっぽり収まる程度の小型の銃は彼が持つには不釣合いで、歪さを感じながらも洸は彼を真正面から見つめた。
「俺の本性を暴いて追い詰めるつもりだったかもしれねぇが、逆だよ、嬢ちゃん」
「逆…?」
「遊説スケジュール」
底冷えのする声が烏丸から漏れる。心臓がひとつ大きく脈打った。
「きちんと見て、此処に来たんだろう?」
獲物を捉える瞳が向けられる。多くの記者がこんなものを忘れるなんてと口を揃えていた。忘れ去られたそれを好機と見た自分の次の行動を予想した上での【忘れ物】だったということか。
狩る側はこちらだ。視線に含まれた狂気の色に、洸は小さく息を吐く。
「私を此処におびきよせて、それでどうしますか。今此処で撃ったら、流石に音に気づいて警察官がくると思いますけど」
「この距離ならそうだな。だが、もう少し嬢ちゃんには歩いてもらう」
「お断りします」
「大事な坊主がいるとしても?」
ざわりと空気が軋む。ざぁと風が吹いた。
「……何を言ってるんですか」
「奥多摩で嬢ちゃんを助けた坊主、組織の一員だったらしいな。あの人がおかんむりだったよ。可哀想に、裏切りに完全に気づかれたのは嬢ちゃんの失態だ」
早鐘を打つ心臓は落ち着く様子が見られない。動揺が全身を支配している。
件の議員の謀略に彼が絡め取られたというのか。遊説先にこの場所を選んだのも、そこに彼が来ることを予想していたから。爆発を起こして、逃げた先へと彼を誘い込んで。
だとしたら、烏丸の言葉通り、これは自分の失態だ。
「来るだろう?」
悪魔の囁きだと理解していても、行かないという選択肢は洸に残されていない。
終着点が此処なのだとしたら、辿り着くだけだ。
隠微な色を漂わせる烏丸の背中を見据えて、洸は踏み出した。
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