現実にあるのに日常から乖離した廃工場は一部の人間にはたいそう人気だが地元の人間は近づかない。カンカンと靴音がコンクリート上を歩くたびに無機質な音が奏でられる。
五階建ての寂れたコンクリート造のビルは至る所にヒビ割れが散見された。立ち入り禁止の立て看板があったところを見ると私有地のようだったが、烏丸は無言で立て付けの悪いドアを開けた。ギィと鈍い音が木霊する。施設の周りでは開発が進んでいるのか、工事音が響き渡っていた。
一時的な隠れ場としては最適な場所だと、視線を左右に走らせながら洸は烏丸の背中を追う。一階、二階と足を進めていく中、ふと烏丸が振り向き、「スマホを出しな」と手を突き出したため、その掌にスマートフォンを置く。「連絡なんて取られたらたまったもんじゃないからな」と、踵を返した烏丸に口を開かず、洸はその背についていった。
結城はどうなっているのか。気掛かりなのはそればかりで、自分が連れて来られているという状況からしてまだ殺されてはいない、と信じたかったが、最悪の未来が脳裏をよぎり、首を振る。無為に思考を働かせても良い方向には転がらない。今はただ、祈るしかなかった。
五階部分には広々とした会議室が備え付けられていた。朽ちたビルに不釣り合いな楕円形のテーブルの一番奥、外光が僅かに漏れ入るその場所で、複数人の屈強な男達を従えた中年の男性が、ゆったりと相貌を上げた。
ぞくりと、洸の背筋が震える。狐面の男はひどく端麗で、そして、笑っていた。

「遅かったな」
「……すみません」
「いや、良いんだ。私より寧ろ彼の方が気に掛けていたようだからな」

男の目が三日月に細められ、視線が部屋の隅にある扉へと向く。刹那、ガタンと衝撃音が聞こえ、次いで扉が勢いよく開くと──

「ッ、結城!」

口の端に黒くこびり付いた血、腫れた頬に、ところどころ破けた服。何をされたかは一目瞭然な結城が男達に連れられていた。後ろ手に縛られた彼の躰を男達が虫ケラを扱うように地面へと投げつける。むせ返り、苦悶に顔を歪めた結城は膝立ちさせられ、無理矢理顔面を狐面へと向けさせられた。

「良かったな。大事な子が身を呈してやってきてくれたぞ。さぞ、心が躍るだろう」

心底この場の状況を楽しんでいる男、国松省吾は、射殺さんばかりの眼光を寄越す結城を尻目に、くっくと笑みを零すと「さて、お嬢さん」と洸を正視した。カツカツと革靴を態とらしく鳴らして、微動だにしない洸の前に立つ。

「来てくれてありがとう。お礼に、君が知りたいことを全部教えてあげよう」
「国松さん!そんなことッ」
「スマホは取り上げているなら何もできやしないさ。それに、全てを聞いた後は大切な彼と【ずっと一緒に居られるからね】」

言外の意味が理解できないわけではない。が、先立つのは恐怖ではなく、身体の芯から仄暗い感情が湧き上がるのを洸は感じた。「さぁ、なんでも聞いてくれ」と紳士的に促す男に、感情の色を灯さない瞳を向ける。

「二年前、港区の男性を東都不動の高橋勇を使って殺外し、その罪を、当時武藤管理官の部下であった幸村光輝巡査になすり付けようとした。その事件に関与していたのは、貴方ですか」
「そう…と言えば満足かね?」

戯けた調子の国松に憤懣を堪えつつ、続ける。

「区議会議員であった貴方は区の都市整備計画の策定に尽力した。生活道路のための道路拡張事業の必要性を議会で繰り返し行政に訴えかけていた功績は確かに、端から見たら素晴らしいものかもしれません。けれど、地上げのために人殺しまでしていたとなったら話は別です、許されることじゃない」
「本当にそう思うかい?」

須臾に言葉の意味を理解できず、洸は言葉に詰まった。「……は?」と眉を顰めた洸に国松は狐面を崩すことなく「本当にそう思うかと尋ねたんだよ」と、狂気的な笑みを湛えた。
人殺しが許されることではない。それに対して、本当にそうか、と聞き返される。唖然とする洸に国松は洸から視線を外してひび割れた窓ガラスへと近づき、ツゥとなぞった。

「知っているかい。二年前に道路拡張したあの区画、整備前はどれほどの交通事故が起こっていたか。マンション需要が増えた影響で人口が増えた地区特有の悩みでね。歩道に人も増えるし、何よりあの地区は高齢者ではなく子育て世帯が多い。その上、道路幅が狭く、渋滞も起きやすいとなると、必然的に事故は起こりやすくなる」

割れ目が十字になっている場所を強く押せば、ヒビが更に四方に伸びる。パキリと乾いた音が鳴った。

「整備により、問題が解消されたことで交通事故数は前年の六割まで減少した。十件近くあった死亡事故はいくつになったと思う?ゼロだよ。あの工事は区民の願いだ。私は、それを叶えたに過ぎない」
「それが、あの事件を起こした免罪符になるとでも?関係のない人間を……幸村巡査を巻き込んでおいて」

憤りを殺した洸の言葉に国松は肩を竦めた。

「まぁ、善良な警察官も犠牲になったが、区民のためだ。彼も本望だろう」

ガタリと結城が身じろぎをして、男達に押さえつけられる。自らに向けられる憎悪、殺意を心地よさげに目を細めて受け流す国松に、洸は拳を握りしめた。

「身寄りのない、老い先も短い人間と前途ある人間達を天秤にかけて誰が前者を取る?障害があるなら取り除くのは当然だろう。ごねる老害は、君達若者も嫌いだろうに」
「半年前の事件の時も、そんな理屈で殺したんですか」
「あの資産家夫婦も評判は悪かったし、立ち退きに再三応じない上に、立ち退き料を法外な額で請求してきた。社会にとって害悪にしかならなかったからね、いなくなっても問題がない。現に、彼らを手に掛けたのは、彼らに恨みを持っていた息子だ。そんな人間達が、どうなろうと世間は知ったこっちゃない」

外光を背にした国松が洸へと歩み寄る。影が落ちた相貌はひどく不気味で、国松という人間を象徴しているようだった。

「私が武藤を通じて東都不動に汚れ仕事を依頼したことも、金銭の授与があったことも至極瑣末なことなんだよ、お嬢さん。大局を見ればどちらがより社会のためになるかは明白だ。真実を知るより、都合の良い事実を享受する方が皆幸せになれるのだよ」

細められた瞳は、獲物を捕らえた肉食獣と見紛うほどに獰猛だった。
知らない方が幸せかもしれない。だから、不都合な現実から目を背けて、享受しやすい事実だけを顕現させる。情報の正確さより心地良さを取る現代人ならば、確かに国松の言葉は痛いものがある。
見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じて、都合の良い事実を切り取り、それを現実とすり替える。人の死さえ風化されるのは、それが自分達に影響がないからだ。

「多くの人間がそれで幸せになった。私は実績を、人々は安全を、高橋達は金を、武藤は私とのパイプを強固に、全ての人間が欲しいものを手に入れた」

全員に利益があったことで埋もれた事件。当事者から話を聞けば全ての辻褄が合う。
しかし、洸には疑問があった。

「二年前の事件は確かに利益を得た人間が多かったかもしれません。けれど、半年前の資産家夫婦の事件で、何故、東都不動に金が支払われたんですか」

二年前の事件では、東都不動、秋林組の高橋含め、結城に殺害された配下達が実行犯だったため、報酬が国松から武藤を経由して支払われた。
しかしながら、半年前の事件の実行犯は資産家夫婦の息子だ。秋林組に絡みはなかったはずだった。
「あの事件に、秋林組は関与していませんよね」と詰める洸にピクリと国松の片眉が上がる。冷眼を眇めた国松は仰々しく肩を竦めた。

「君のボーイフレンドのおかげでね。無駄な出費をしたというところかな」
「出費…?」
「詫び料といったところだよ」

国松の視線が己を憎悪の瞳で睨め付ける結城へと向けられる。その瞳には、一片の感情の色も灯ってはいない。

「こちらとしては切り捨て可能な構成員だったが、組にとっては幹部だったからね。あちらとの協議をして処遇を決めるはずだったが、彼はどうしても奴を殺したかったようだ」

洸の脳裏に蘇る言葉。人生に絶望したと綴られた間際の心情に、はっと息を飲んだ。

「彼らの運用はメスカルに任せていたが、当の本人の目的が彼らへの復讐だったとはね。隅々まで調べないと厄介なことになると学んだよ」
「……高橋が自殺したことに対する手打ちということですか」
「殺したと言い換えた方が適当だ。組織の名を出して追い込んだんだろうが、まったく……誰もそんな許可を出していないというのに、ね!」

大股で結城に近づいた国松の靴先が結城の頬を打つ。飛び散った赤い雫に洸から短い悲鳴が上がった。

「公安の内部情報を流すと此処まで引き上げたと言うのに、本当に駄犬だったよ、お前は。近づいた理由が、この私を手にかけるためにとは」

鈍い音が連続する。血が舞い、呻き声が断続的に聞こえる状況に洸の躰が動いたが、刹那に後ろ手に捻り上げられる。殴られ続ける結城の姿を焼き付ける瞳に薄い膜が張った。
許されることではない。人殺しは誰であっても、どんな理由があっても許されることではない。それでも、何故彼が組織に入ったのか、凶行に及ぶに至ったのかの理由がひとつずつ見えてきたことで、遣る瀬無い感情に胸が締め付けられた。
どんな気持ちで此処まできたのか。誰をも騙し、誰にも口を閉ざし、確かにこの世界にいるのに、ただ一人で。
無力さを心身共に痛感させられ、奥歯を噛みしめる洸に、国松の軽やかな声音が耳についた。

「そんなに慌てなくても良い。君も、同じようにしてあげよう……嗚呼、これはお前にも効果があるのか」

絡みつくような視線の先で、結城が身動ぎした。交錯した視線に舌舐めずりした国松が、カツンカツンと音を鳴らして洸へと近づく。緩慢な動きで彼女の前に立つと、値踏みするようにじっくりと肢体を見つめた。
己に向けられる視線を跳ね除け、洸は口を開く。

「貴方の言葉は全部欺瞞だ」

拘束された身でありながら、視線には強い意志を込めて彼を駁した。

「それらしい理由を並べたところで、誰かを犠牲にしていい理由にならない。殺された人達が例えひどい人間であっても殺されていい理由にならない。人が生きる意味を、その価値を貴方が決めるな」

己の価値を決めるのは自分だ。生きる意味を他人を通して見出しても、それを決めるのは自分しかいない。他人に値踏みされて、与えられる価値など無価値に等しい。
社会的な価値を決めるのは他人であっても、人間としての価値を保証するのは、自分だ。
自分自身に言い聞かせるように洸は吐き捨てた。

「自分の矛盾を理解しているから、隠れてコソコソしているだけ。貴方は、臆病者だ」

刹那、頬に鋭い痛みが走る。俯いた相貌は、前髪を掴まれ、引き上げられたことで無理矢理仰向かされた。

「威勢だけは一丁前なお嬢さんだ。何も怖くないという目は嫌いじゃないが、絶望への落差が欲しい」
「ッ、誰が」
「彼が嬲られるのを見るか、自分が嬲られているのを見られるか。君はどちらの方が嫌かなぁ」

仄暗い瞳の奥は深い闇で、状況を腹の底から愉しんでいることは想像に難くなかった。圧倒的愉悦に耽溺する様にぞわりと怖気が立ったものの、洸は彼を睨め付けた。「……嗚呼、なら君からにしようか」と、蠱惑的な囁きの後にもう一度、頬に痛みが走る。

「君がいつ私の下に這い蹲るか、楽しみだ」

傍らに控えていた烏丸の掌が国松のそれと重なる。離れた手に握られていた小型の銃の先が、洸に向けられた。


85


言葉の遊び リンク文字