乾いた音がコンクリートの壁に反射して、鼓膜を震わせる。その場にいた誰もが耳朶を打った音に固まった。音の出所は、室内ではない。
国松の愉悦に染まっていた相貌に亀裂が入る。般若の形相で「何が起きたッ!」と叫ぶと同時に、複数人の足音が階下から上がってきた。怒号が飛び交い、状況把握に誰もが時間を食っている中で、全員の視界に飛び込んできたのはスーツ姿の男達だった。
何故、どうして。混乱しているのは洸だけではなく室内にいた全員だった。そして一瞬の静寂の後、最前列の男の、風見の指示が玲瓏な声で飛ばされた。
「全員、確保しろ」
刹那、蜘蛛の子を散らすごとく洸や結城を抑えていた男達が出口へと走り出す。怒声が建物中を支配する中、洸の目の前で国松が盛大な舌打ちをした後に、迫り来る捜査員に──口角を上げた。横顔に見える老獪さに背筋に悪寒が走る。
スーツのポケットに手が入れられ、国松が何かを操作したことが視認できたと同時に、轟音が激しく鳴り響いた。床が震え、誰もが足を踏ん張り、身体を支える中、立て続けに轟音が続く。遂には、捜査員が突入したドア付近で激しい爆音と共に、粉塵が舞った。
爆発を起こして結城を誘き出すような人間だ。建物内に設置していてもおかしくはなかった。
怒号と呻き声があちらこちらで聞こえる中、視界不良に陥った室内で、目の前にいた国松が横をすり抜けたことに気づいた洸は、振り返ってその背を追おうと立ち上がる。が、直ぐに手首を力強く引かれた。
「いけません!」
「ッ、風見さん…」
「あとはこちらで引き受けます。貴女は直ぐに避難を」
警察官としての彼の指示に、でも、と紡ごうとした口はしかし噤まれる。当然だ、一般人の自分が追ったところで足手まとい以外の何ものでもない。視界から消えていった国松を追おうとした足は自然と止まった。
「分かりました……でも、どうして此処が?」
「烏丸記者は道を踏み外したかもしれませんが、彼は良い部下を持ったようです」
「部下って……河村さん?」
首を傾げた洸に風見が口元を緩める。
「庁内の課員から事情を聞いて、直ぐに烏丸記者の私用携帯の番号を教えてもらえました。おかげで、GPSを追跡することができた」
事情を聞き、敬愛する上司が犯罪に加担していたと知った時の彼の心中を推し量ると胸が痛むものはあった。それでも、情報を直ぐに提供したおかげで、風見達が間に合った。「ちゃんと、お礼を言わなきゃですね」と苦笑した洸は、視界が良好になった室内を見渡す。
しかし、そこにいる筈の彼が瞳に映らなかったことで、洸から笑みが消えた。
「……風見さん、結城は何処ですか」
ぽつりと問いかけた声音は森閑さを孕んでいて。凪いだ心中は状況を冷静に捉えていた。
風見が言い淀む。逸らされた視線に、彼が捜査員に確保されていないことを洸は悟った。悟ってしまったら、もう彼女は、止まることはできない。
数発の銃声が聞こえる。刹那、弾かれたように駆け出した洸に風見の腕が伸びる。しかしその手は、空を掴んだ。瓦礫を飛び越え、室外へと飛び出した洸の背を追いかけた風見の声は、届かなかった。
一体幾つの爆発物を仕込んでいたのかというほど、ビル内は破壊されていた。大小さまざまな瓦礫を踏みしめ、時折階下から響く銃声に背筋をピンと張りながら洸は走りを止めない。
警察による確保の言葉で、国松は自身の置かれた状況を理解したはずだ。それでも逃走を図るということは、組織のバックアップが強固ということか。何れにせよ、そんな国松を結城が逃すはずがない。
捜査員の目を掻い潜り、逃げ道を用意していたとしたら何処か。早く行かなければ、怪我を負っている結城がもしかしたら。
暗い未来に首を振り、ピシリと瓦礫を踏んだ刹那、廊下の突き当たりから人影が飛び出した。金糸のような髪がさらりと揺れる。
「ッ、降谷さん?」
「君は、何故こんなところにいる!」
瞠目した降谷はしかし直ぐに鋭い視線を洸に向けた。洸が口を開く前に、その手首を掴む。
「いッ、降谷さん?!」
「迷惑だと言った筈だ!まだ組の残党がいる。大人しくどこかの部屋で待っていろ!」
「……ッ、嫌です!結城が、怪我してるんですだから!」
「君に何ができる!」
「今アイツを、一人にしたら駄目なんです!」
互いが互いの主張をぶつけ合う。譲らない、譲れない想いがただ叫ばれている中、降谷が一瞬息を呑んだ。
咄嗟に洸の手首を掴んでいた手が腰に伸びる。それだけで、動作に遅れが出てしまっていた。
降谷の視線が廊下の角へと向けられる。視線の先へと誘われた洸の瞳が、彼を捉えた。
二発の乾いた音が響く。室内に反響した音と目の前の光景がまるでスローモーションのように洸の網膜に投影された。
彼の、結城の手からバレッタが弾かれる。カランカランとそれは洸の目の前へと転がってきて、同時に飛び散った鮮血は彼が負傷したことを示していた。
しかし、傍らでトリガーを引いた降谷の身体はゆっくりとその場に崩れ落ちた。
須臾に、洸は結城の手から弾かれたバレッタを手に取り、崩れ落ちた彼を庇う。
「ッ、降谷さん」
「もん、だいない……」
「そんなこと…ッ」
前方を警戒しつつ、うずくまる彼を視界の端で見れば、歯を食いしばりながら肩口を開いている手で押さえている姿を確認できた。軽傷とは言い難い。額には脂汗が滲み、事の重大さを如実に伝えていた。
一瞬の遅れが、自分と言い争っていた遅れが、彼を負傷させた。降谷零を傷付けた。危うい状況に置いてしまった。
彼の服を染めていく赤に焦りは募るが、洸は真っ直ぐ結城を見据えた。
血に染まった両の手でしっかりとグリップを握る。リアサイトから覗き見て、照準を胸部に定める。心はずっと震えて泣き出しそうなはずというのに、洸は平静を保った。
「お前に撃てるのか」
ひどく淡白な声音で結城は問いかけた。嘲笑も油断も含まれていない、ただの問い。その問いに、洸も同じように平坦な声で応じた。
「撃つよ」
背後で降谷が身動ぎする気配を感じながら、洸はしかし目の前の彼から視線を逸らさなかった。
彼を死なせるわけにはいかない。物語の構成上、必要不可欠な降谷零というキーパーソンをここで死なせるわけにはいかない。
──君にとって、俺達は何なんだ。
脳裏によぎった言葉に、洸はかぶりを振った。
──嗚呼、そうだ。そうだった。
違う、のだ。そんな単純な、無味乾燥な理由ではなかった。
もう、彼はキャラクターではない。作者に動かされ、読み物として消費されるキャラクターではない。ただ一人の人間。感情がある、自分と同じ人間でそして──
「近づいたら、撃つ」
死んでほしくない。ただそれだけの感情が洸を突き動かす。この数ヶ月、共に過ごした月日の中で芽生えた感情が洸を駆り立てた。
今、洸がやるべきなのは泣き出しそうな心のままに喚くことでも、尻尾を巻いて逃げ出すことでもない。
トリガーにかかった右手の人差し指に力が込められる。浅く息を吐いて、己が意思を見せつけるようにただ彼を見据えた。
「………それを寄越せ。そうしたら、お前も其処の捜査員にも危害は加えない」
息を詰める洸に結城は負傷していない手を差し出す。妥協点を提示した形だった。
言葉に嘘がないことは、理解していた。編み続けた関係から、彼は自分を傷つけないことは分かっていた。負傷した人間を追撃しないという判断も妥当だ。
しかし、洸は首を振る。
「嫌だよ。これを渡したら、結城は国松を殺しに行く」
「そのために此処まで来た。お前も分かっている筈だ。渡さないなら、奪ってそいつも殺すぞ」
「……なら、撃つよ」
空気が一気に張り詰めた。ひどく落ち着き払った声音で洸は問う。
「幸村巡査を殺されたから、だから此処であの男を殺そうとしているんだよね? なら、余計、私は結城を」
「これは、俺の復讐だ!」
洸の言葉を遮った怒声が空気を震わせる。憎悪の炎を瞳に灯す結城は洸に吐き捨てた。
「誰のためでもない、俺が俺のためにやる復讐だ!俺はアイツに何もしてやらなかった!できなかった!……だから、俺はもう二度と後悔はしない。障害があるなら取り除く。使えるものは使う。何をしてでも俺は、あの男を殺す。あの男に最高の地獄を見せて、殺してやる。二度と…もう……」
歪んだ相貌はひどく痛々しかった。洸の瞳に薄い膜が張られる。
彼の哀哭が聞こえてくるような叫びに、じくじくと胸が痛む。哀哭の中に含まれるのは、憎悪や怒り、そして──後悔だった。
救えなかった、たったひとりの親友。その死は彼を孤独へと突き動かし、深い後悔の念は確固たる決意を彼に抱かせた。
二度と後悔などしない、と。それを達することができるのは、復讐しかないと。
「……復讐したい気持ちが分からないわけじゃない…」
それでも、否、だからこそ洸は伝えなければいけなかった。
「大切な人に、大切な時に掛けられなかった言葉の後悔はずっと残るものだってことは私も知ってる」
違えてしまった言葉、傷つけた言葉。届かなかった想いは、心に深い楔として打ち込まれた。後悔を抱え、もう二度と、と願う。そのために、自分を傷つけることを厭わなくなる。
しかしそれでは駄目だということを洸は知っている。
「だから、私は結城を撃つよ」
「……お前」
「結城が止まらないなら……止まれないなら、私は貴方を撃つ」
止まれなくなった彼を、止まり方を知らない彼を、止めるために。
撃って止められるような技量が自分にないことは理解している。
それでも、トリガーを引かなければならなかった。
「後悔なんてしたくない。私も、もう二度としたくない。だから、結城がこれ以上、傷ついていくのを見るのは嫌だ」
復讐に取り憑かれて、傷つき続ける友を見るのは。破滅に向かう友を見ないふりをするのは、嫌だ。
「貴方は、生きてるの。だから、結城、私は貴方を、止めなきゃいけないんだ」
頬を伝う雫が重力に従って床に落ちる。水晶体が揺らめいて、視界がはっきりとしない。照準を合わせて、震える掌を叱咤して、なけなしの勇気が彼を止めてくれと請願した。
お願いだから、撃たせないで。
怖いの、本当は。
震えてるの、怖くて怖くて。
泣きそうなの、だって私は神様じゃない。
怖くて泣きたくて、でもせめて──
自分で止まれないのなら、私は……
「……馬鹿だな……お前は」
ぽつりと、静かに、彼の唇から溢れた言の葉が波紋を作る。伝播するそれはひどく暖かく、哀切に苛まれていた洸の心に染み渡った。
一歩、二歩、近づいた彼の相貌にはもう、怨嗟の色はない。
「……撃たなくていい、撃つな」
「ッ、──あ…」
そっと、無骨な掌が洸の持つ銃を覆って、そのまま、銃口は下へと向いた。耳朶を打つひどく柔らかな声に、涙が溢れる。
震える掌から銃を抜き取ったのは結城で、緩慢な動作でそれを降谷の側へと置いた。
「もう、使わないのか」
「……使えない。使えるわけ…ないだろ」
吐露された結城の言の葉に、嗚咽が漏れる。
伝えたい言葉が溢れている筈なのに、何を口にすれば良いか。感情が錯綜して纏まらない。
緊張の糸が切れ、堰を切ったように止めどなく零れる泪を、汚れた親指で結城が掬った。「泣くなよ」と、どの口が言うのかという台詞を吐かれ、憎まれ口の一つでも叩こうとした洸は、しかしそれすら紡げずに俯いた。
止まったんだと。それだけを感じて、安堵に全身が弛緩した。
落涙の止まらない洸の目元を、結城が何度も拭う。誰のせいだ、馬鹿。悔し涙に変わりはしないかと、そんな悠長な考えさえ出始める。
「あぁ、結城亮は確保した。場所は、四階の西側廊下付近だ」と、止血を終えた降谷が風見へ連絡を入れたのを尻目に、洸は改めて息を吐いた。
状況は終了した。あとは、国松省吾の身柄を公安が確保すれば終わりだ。
細やかな安堵に目尻を緩ませた洸は、結城を見上げた。
「──ッ、結城!」
気付いたことは、幸いだったのか不幸だったのか。
乾いた破裂音は、微睡みにいた誰をも切り裂いた。
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