その挙動を視認した瞬間、身体が動いていたなんて漫画みたいなことが、実際に自分の身に起きるとは、洸も思っていなかった。鈍色の凶器、向けられる狂気に気付いた刹那、それが向く先に捻じ込まれた体躯から華が散る。乾いた音が耳朶を打ち、散った紅い花が宙を舞うのが彼女の目にはスローモーションのように見えた。
横目に捉えたのは、血走ったまなこで嘲笑を浮かべている国松と、珍しく大きく目を見開き動揺を見せた、結城だった。
──珍しいもの、見れたなぁ。
意外性に微笑を浮かべた洸の意識は、しかし、急速に薄れていった。床に崩れ落ちる寸前で抱えられた身体に力は入らない。発砲音はもう一度聞こえたが、自身を撃った彼ではなく、鬼の形相で負傷していない片腕を突き出した降谷零が放ったものだった。
「ふざけんなよ、なんでッ」と、声を震わせる友人に洸は精一杯の虚勢を張った。「ひっどい顔」と、ニヒル笑んだ洸に、彼の顔は歪み、指先に力が込められる。
響く怒号、けたたましい足音に視線だけを遣れば、胸の赤を抑えた国松が捜査員に取り押さえられていた。仄暗い瞳と洸の視線が合う。
「最後に良いものが、見れたなァ」
ニタリと下卑た笑みを浮かべる国松の心境を察するに、最後の足掻きというところか。嬲られるのを見るか、見られるか。最後の最後で男の目的が達成されたということは痛恨の極みだが、一先ずは、男の未来が閉ざされたことに安堵する。
「…ッ、ぁ」
「洸ッ」
苦悶に歪んだ相貌が洸を見つめる。名前を呼ばれたのは久しぶりだと遠い意識の中で苦笑する。
ごぷりと口から溢れ出た鉄の味を気持ち悪いと思う感覚も薄れていって、多くの人が周りにいる筈だというのにその声は遠く、遠くなっていく。歪んだ結城の相貌と、もうひとつ、苦悶を見せる顔が見えた。
そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「だ、いじょ…ぶ」
声は届いているだろうか。霞んだ視界で彼の声だけを耳で拾う。「──ぬな、死ぬな!」哀切が込められた声音に、洸は微笑んだ。
大丈夫、大丈夫だ。
これが、きっと、終着点だったんだ。
なら、夢はここまで。
「……覚め、るだけ…だから」
物語の終わりが訪れて、あとは、帰るだけだ。
形は最善とは言えなくても、きっと、これが作者の考えた結末だ。
なら、ここで──
「……さよ…なら」
触れた掌の温かさを最後に感じて、彼女の意識は、世界と離れた。
*
大学の講義で先生が言った言葉をよく覚えている。
『自分という存在は他人なんですよ』
他人は写し鏡のように私を映す。自分自身からの信号を受信した他人が私を認識して、更に他人が発信する私の情報を私が認識する。そうやって、他人から渡される私の情報を基に、私は日々私を更新する。赤子は親を見て、親から与えられて自分を構築していく。
だから、他人を大切にしましょうという道義的な話ではない。ただ、妙にその事実がストンと腑に落ちた。
人は一人では生きていけなくて、でも時折、関係性が煩わしくなる。矛盾した感情を内包しながら、それでも結局他人を求めてしまう。
歪で、非合理的で、だからこそ、その感情の幅が人を人足らしめる。
嗚呼、だから私──
『嫌いだった』
ぽつねんと呟いた言の葉は世界の誰にも観測されていない。
一面の白、純白の室内の窓は開け放たれている。無風のそこで、彼女が、部屋の真ん中に置かれたベッドの傍で落涙していた。
夢に見た光景が、そんなものだと誰が分かったろうか。
誰が、自分が横たわるベットの側で、母親が泣いていると思おうか。
『驚いたでしょう』
部屋の隅で立ち尽くす洸に掛けられた声に、洸は躰が芯から震える心地を覚えた。嘘。どうして。だって、そんなの──そんな【都合の良い夢なんて】
『お、ばあ…ちゃん?』
言葉を紡いだ途端、隣に現れた祖母の姿に、洸は佇立した。見開かれた目が祖母を見つめ、須臾に、くしゃりと歪む。
これは夢が、現実か、何か。撃たれて、死んで、都合の良い展開を夢想した結果の妄想か。
『夢でもなんでも好きなように解釈しなさい。さして、重要じゃあないからね』
ふわりと笑うと頬に皺が寄る。緩む目元、下がる眉尻、どれを取ってもそれは、洸の知る祖母だった。
洸に微笑んでいた祖母は、ふと視線をベッドへと向けた。
『洸ちゃんはね、眠ってるの。もう随分と、ずっと眠り続けてるの』
眠っている。言葉に眉根を寄せた洸に、祖母は侘しげに『事故にあってね、ずっと眠っているのよ。もう、何ヶ月も』と答える。何ヶ月、ということは、あの日からなのか。
今一度、ベッドで眠る自分に寄り添う母を見る。すると、表層を崩さずに、祖母がぽつりと呟いた。
『悲しいね』
『……え』
『悲しいことを、悲しいと言えないのは辛いんだよ。でも、貴女達は、そこは似てた』
深い慈愛の瞳が向けられる先、それは彼女にとっての母で、祖母にとっての子だった。
『あの子ね、ずうっと我慢してたの。人前では泣かずに、こうやって一人になったら、ポロポロね』
──迷惑かけないで。
──どうして、どうして貴女が。
沈下させていた記憶が浮上する。言葉の意味を、景色の真実を知った洸は、それでも、否定を紡いだ。
『でも、あの人は、おばあちゃんのお願いを断ったッ!だから、だから私は──あの人のことなんてッ』
一丁前に家族ヅラをするなと、吐き捨てる洸に祖母はしかし、微笑みを崩さなかった。故に、洸も何も連ねることはできなかった。
「……ねぇ、なんでよ」
口を噤んだ洸に、母の声が届く。
聞いたことない、声音だった。
「起きてよ…迷惑かけないでって、言ってたのになんで……なんで、貴女は…」
今更、なんだというのだ。今更、こんな声、表情を見聞きしたところで時間は戻らない。
──自分は他人なんですよ。
『……だから、嫌い。大嫌い…』
感情が錯綜して、瞳に膜が張って溢れる。
愛情がないわけではないと、理解はしていた。それでも、自分の目に映っていた母の姿に自分を重ね合わせたくなくて、無意識に拒絶していた。
迷惑をかけるな。それはきっと、彼女にとっても、不文律だった。
『……お願いだから、後悔なんて、しないでよ……』
合わせ鏡のような母の姿は、まるでかつての自分だった。
母の背を見つめる祖母の瞳は慈愛と哀切が入り混じっている。
『あの子は、分かりづらい子だったわ。体裁を気にして、人の顔ばかり見て、そのせいで誤解を与えることも沢山あった』
滔々と紡ぐ祖母は、一呼吸おくと『でもね』と、洸を正視した。
『あの子は、洸ちゃんが産まれた時に誰よりも喜んだの。人前で、誰よりも。それは、覚えておいて』
予期せぬ告白に、洸の思考が固まる。
やめて、そんなの。そんなこと聞いたら、私は──
『……どうしていいか、分かんないよ…』
視線の先の母親に手を伸ばす。肩を震わせ、涙する小さな背中に、かける言葉も伝える熱も、今の洸は持たない。
母親の涙が、何から来るものなのか。起きない娘への悲しみか、過去の自分との関係性からか。
後悔の海にあるものは、見えはしない。
それは、自分へ返ってくるもののようで。
『……ねぇ、洸ちゃんは、後悔してる?』
母の背を見つめていた洸に、ふわりと、しかし重みのある言葉が掛けられる。見開いた目を祖母に向ければ、彼女は困ったように眉尻を下げた。
『言葉を、態度を、間違えたって。洸ちゃんは、そう思ってる?』
そうだ。その通りだ。あの時自分が掛けた心無い一言が、問いが傷つけた最愛の人。それを放置して、見ないふりをして伝える術をなくした日から、洸はずっと後悔していた。泣いて、泣いて、意味はない涙を幾粒も流した。
肯定が故に閉口した洸の頭部に、柔らかな感触が添えられる。『あ…』と、か細い声を出した洸に、柔らかな声は紡いだ。
『大丈夫よ、大丈夫』
『おばあ、ちゃん?』
『間違えたと洸ちゃんが思ったのなら、間違えだったのかもしれない。けどね、大丈夫』
それは、まるで魔法の言葉のように洸を包み、そして──
『おばあちゃんは大丈夫。だから、もういいんだよ──もう、自分を傷つけるのはやめなさい』
心を、溶かした。
これは自分への罰なのかと。飛ばされた世界での苦渋を受け入れた。
誰かが悲しむのなら傷つかない。そこに自分の意思はなく、自罰的な思考に縛られていた。
誰かの愛を、誰かの手を受け取ることを是とするには、あの時間違った己を許すしかなかった。
無意識に、瞳から、雫が溢れる。
『ッ、わ、たし…私は…ッ』
許されたかった。
『ずっとッ、ずっと、後悔してッ……でも』
許されて、そして──
『自分のことを…ずっとッ』
あの陽だまりのような、自分の心を溶かす存在に出会って。
何より自分自身がそれを享受することを、自分自身が自分を──
──許したかった。
言葉にすれば、ひどく簡素で、陳腐な感情で。
しかし、それを口にして、受け入れることは容易くなかった。
暖かな掌の感触が、想いを告げる。幼子のように洸は祖母の胸でわんわんと泣いた。
穿たれた楔を引き抜き、痛む心の傷跡に、陽だまりのような声が薬となり、洸はようやっと、自分を──受け入れた。
『──ところで、聖地巡礼、だったかしら?』
ひとしきり泣いた後の耳朶を打った言葉に、洸は目を丸くした。『え、なんで…え?』と、狼狽する彼女に祖母は『さぁ、どうしてかしらね?』と朗らかに笑む。自らのオタク的な姿を知られているのかと羞恥が先立つ洸は、しかし祖母の言葉に息を呑んだ。
『旅を終わらせるか、永遠に続けるかは洸ちゃん、貴女が決めなさい』
『……どういう、意味?』
『そのままの意味よ。終着点にするのなら、此処で終わり。夢の旅は終わって、現実へと帰るだけ。でも、ずっと続ける道もある』
終わらせるか続けるか。その選択が残されていることに驚きを覚えつつ、洸は形容しがたい感情を抱いた。
──帰りたいと願ってた。帰りたかった。此処は自分の居場所じゃないとずっと思っていて、何で私が、と泣いた日々もあった。
しかし、いざ選択を迫られると、なんと我儘なことか。選択すべき世界は自分を形作った場所で、泣き伏す母の手を掴むことが出来るというのに、なのに。
彼との会話が、生活が、こんなにも鮮やかに脳裏に蘇る。
『おばあちゃん…私、』
帰りたい場所が、ある。
そこにはもう、沢山の大切なものが、人ができてしまった。
苦悶に歪んだ相貌が、死ぬなと叫んだ声音が、忘れられない。伝えたい言葉もあった。
彼との編み続けた関係が、あの世界から離れようとする洸を繋ぎ止めた。
もう一度、もう一度──
『会いたい人が、いるの』
凛とした声で綴った想いに、祖母は朗らかに彼女を見つめる。緩慢に頷いた彼女は、豆だらけの手で洸の頬を撫でた。愛おしげに、目元を緩めて。
『おばあちゃんはね、洸ちゃんのことが大好きよ。ずっとずうっと。いろんなことがあったけど一度だって洸ちゃんを恨んだことなんてないわ。だから、思うように生きなさい』
『……ッ、おばあ…ちゃん…』
『自分を、愛してあげなさい』
優しく言い聞かせる声音が、心に染み渡り、目頭を熱くする。
自分を愛することから逃げて、自分を罰することで安息を得ていた偽りの平穏が崩れる音が聞こえた。
『おばあちゃん……ありがとう』
夢か現か分からない邂逅。
それでも、彼女にとっては最初で最後の邂逅となった。
くるりと振り返る。ベッドの縁で涙を流し続ける母の背後に立つと、そっと、その背中に手を当てた。
培ってきた彼女への感情を簡単には覆すことはできない。胸中に置かれた鬱屈とした想いは全てプラスの感情に昇華されることはないのだろう。
それでも、自分は確かにこの人の子どもで、この人は確かに自分の母親だった。
『……さようなら、お母さん』
──今まで、ありがとう。
*
一迅の風が病室に流れ込む。
ベッドに横たわる子の母が、聞こえるはずのない声に反応し、背後を振り向いたが、そこには誰もいなくて。
刹那、ピーと、電子音が室内に響いた。
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