ガラス張りの会議室に整えられた執務席に、七三頭の男が座っている。外光が横顔を照らし、俯いた顔に影を作っていた。
ゆったりとソファに腰かけた男は、机上にA4の紙を置く。同時に、踵を揃えて机の前に立つ降谷が言葉を発した。

「以上が、港区での殺人事件、及び国松省吾元区議会議員の贈収賄事件の最終概要となります」

分厚い紙束に視線をやった男は、能面をわずかに崩すと「ご苦労」と言葉少なに降谷を労った。
元区議会議員、それも国政出馬していた有力候補の逮捕劇は世間を賑わせた。汚職に始まり、殺人教唆、暴力団との癒着、警察組織の腐敗、ありとあらゆる膿が噴出した形の事件となり、結果、国政選挙どころの話ではなかった。そのためか、投票率は前回選挙を遥かに下回ったという。
事件の流れを降谷はまとめ上げた。報告することになった理由は、一連の事件に組織が関わっていたためだった。厳密には、組織の幹部であった国松省吾元港区議会議員が、だが、その後の調べで警察内部の管理官クラスから部長クラスまで、組織の息のかかった人間までも釣れる結果となった。
「よくもまぁ、此処まで入り込まれたものだな」と、公安総務課長、有崎は机に置いた紙に視線だけ置いて嘆息する。名前の記されたそれを上から下まで眺めて自嘲気味に口元を歪めた。

「世界中の政財界に幅広く構成員を持つ組織でしたから、ある程度は仕方がないかと。寧ろ、入り込まれていながらよく組織として耐えた方だと感じます。情報漏洩は最小限に止めることが出来ていました」
「だが、失った命があることは【君がよく理解しているはずだ】」

降谷の肩がピクリと震え、しかしそれ以上の動揺は見せない。「……不必要なことを聞いた、忘れてくれ」と、有崎は小さく謝罪したが、降谷は確かに、そのことを考えたことがないとは言い難かった。
内通者により、無二の親友が密告されて命を落としていたのだとしたら。同じ警察官に売られて命を落としていたのなら。
修羅の道を進んだ男と自分を重ね合わせる。感情が理解できないほど降谷は冷徹ではない。
しかし、彼はかぶりを振った。

「もう、【すべて終わりましたから】」

憑き物が落ちたような降谷の相貌に、有崎はガラス越しに広がる街並みに視線を転じると「そうだな」と、同意した。


組織は、ひと月ほど前に壊滅した。


残党グループは各所に点在しているものの、地下組織として暗躍し、世界を裏で支配していた巨悪は地の底に沈んだ。皮肉にも、事件を追っていく過程で、組織へのメスも入れやすくなっていき、結果として、事件は組織壊滅への糸口にもなった。
状況は全て終了した。降谷の潜入の任はこれを持って解かれ、彼は今まで風見に回してきた事務処理や報告書の作成に追われることになったが、それは別の話だ。
憂いげに、眼下に広がる都内を見つめる横顔を、降谷はひとつ瞬いて、見据えた。

「ひとつ、よろしいですか」
「……何だい」
「課長は、ご存知でしたよね。国松と武藤の関係も──事件の真相も」

降谷の問いに、有崎はゆっくり瞼を閉じた。
武藤から警護の要請を受け、風見への指示を出したのは有崎だ。彼は、自分の周りを警戒して損はないと豪語する武藤の戯言を受け、彼らに、M(マイク)、即ち結城が絡むと助言した。

「武藤と結城の関係を知るということは、必然的に一連の事件の真相を貴方は知っていたことになる。更にいえば、国松と武藤の関係も、貴方ほどの人なら調べはついていたはずです」

関係を、真相を知っていなければできない助言だった。そして、彼らと組織の関わりも。

「国松と武藤の罪、そして彼らが、組織の一員であり、武藤に至っては警察の内通者だったことも、ご存知でしたね」
「……武藤が組織の人間だったという証拠は見つけたのか」

視線を合わさず、硬い声音で返した有崎の言葉も降谷は想定済みだった。
死亡した武藤と国松に金銭のやり取りに関するメール履歴は見つかったものの、武藤に関して言えば、組織との関連を決定づける証拠はなかった。死人に口なしとはよく言うものだ。
国松との共謀関係から内通者のリストには入っているが、本人の事情聴取ができないため、真相は闇の中だ。
能面を崩さない有崎に降谷は、冷然と言い放つ。

「国松との関わりだけでも十分ですが…付け加えるなら、例の脅迫文です」

淀みなく返す降谷に、有崎の能面がピクリと反応した。

「武藤は、脅迫めいた手紙を受け取っていた。俺は、お前を見ているぞ、Y。恐らくこれは、結城亮の頭文字ではなく、殺された幸村巡査のことをさして書いてあるのでしょう。この時点では、結城はまだ、裏切りが発覚していない」

亡霊からのメッセージ。顔の見えない相手からの脅迫文に怯えた武藤が、わざわざ公安の有崎に警護を依頼した。

「これを受けて、武藤が警護を依頼したこと、それそのものが、証拠です」

言い切った降谷に、有崎が「というと?」と懐疑を含ませた声音で問いかけたが、降谷には動じなかった。

「組織を追っている公安からすれば、組織に近い人間の周りを探るのは確かに悪くない。組織の全容を我々は掴みきれていませんから。公安の捜査状況を理解し、且つ自分の利用価値を理解した上で、武藤は貴方に話を持ちかけた」

自身が組織の人間であるが故の行動。命と地位を天秤にかけて傾いたのが前者だった。

「武藤にとっての不幸は、あのイニシャルを幸村巡査と認識していたことでしょう。あれを結城亮、メスカルだと認識していたら、武藤はあの場に来ることは無かった」

メスカル、結城亮が幸村巡査に関わりのある人間だと知ったとしたら、武藤はそれを国松に報告するだけで良い。会いに行く必要性がないのだ。それも計算した上で、結城はあのイニシャルを使用したのだろう。疑心暗鬼になった人間の思考は読みやすい。
自らが陥れた人間の面影に殺されたとなれば、確かに、亡霊に殺されたというのはあながち間違いではないのかもしれない。
答え合わせを終えたところで、降谷は改めて有崎を見据えた。

「風見への命令は私へ情報が上がることも見越してでしょう。だからこそ解せないんです。全てを知っていることを、我々に悟られることは不都合なはずだ。なのに、何故我々にわざわざ結城の情報を流したか」

何故、敢えて情報を伝え、真実に辿り着くように仕向けたか。
アイスブルーの瞳の問いかけに、有崎は沈黙を保っていた。が、ふと、息を吐くと能面を崩して口元を歪めた。

「確かに、黙っていればトカゲの尻尾切りができたろうな」
「……組織と武藤が繋がっていたことは、ご存知だったんですね」
「泳がせておくには都合が良かった。だが、アレは頭のキレは悪かったからな。こちらに迷惑がかかる前に、結城亮が始末をつけるのが最善だった」

ならば何故、わざわざ、不都合な真実に辿り着くように仕向けたか。
怪訝な顔つきとなった降谷に、有崎は気怠げな笑みを浮かべた。

「今回の国政、国松が失脚したことで、誰が得をしたと思う」
「……野党陣営の、泡沫候補ですか」

与党最大会派の後押しを受けて出馬した国松は、当選確実と目されていた。その国松が失脚すれば必然的に席がもうひとつできる。
降谷の見立てに、有崎は自嘲気味に口角を上げた。

「ドベで当選した議員は、警視総監と昵懇の仲だそうだ」

伝えられた情報に、降谷は奥歯を噛み締めた。
最初から全て、仕組まれていたのだ。予定調和ともいうべきかもしれない。最低限の情報を流して、自ずと真実へ辿り着くように仕向け、最後は全てまるっと自分達の都合の良いように収める。
組織という巨悪を潰したところで、自らの利権のために予定調和という名の悪事を野放しにする、それを望むものはまだ上にいる。
結局、国松も武藤も、誰かの掌の上で踊っていたにすぎないとは、哀れなことだった。

「……このことを、自分に教えたのは贖罪のつもりですか」

低い声音で降谷が問う。
伝える必要はない情報だ。降谷の問いなど、躱す術を有崎は幾らでも持ち合わせているはずだ。
しかし有崎は、重苦しい笑みを零した。

「そんな殊勝な感情を持ち合わせていれば、楽だったのかもしれないな」

深く被った仮面から見える素顔に落ちた陰が、侘しげな男を演出していて。贖罪などという、利他的な感情と離れすぎた人間の末路とも思えた。
故に、降谷はそれ以上、彼を問い詰めることはしなかった。

「──その後、彼女は」

ふと、有崎が外の景色を見つめながら、ぽつりと問い掛けた。
公安の保護観察下に置かれていた彼女、記憶喪失と虚言を吐き、経歴を偽りながらしかし、どこか他人に甘く、そしてひどく自分を傷つける彼女は──


「まだ、起きる様子はありません」


陰鬱な声を漏らした降谷は、きつく目を閉じた。


彼女はあれからずっと、眠っている。


国松省吾の凶弾から結城亮を庇った彼女は、その後、緊急搬送された。応急処置に当たった降谷は、腹から止めどなく溢れる血に臓腑が締め上げられる心地がしたことを、今でも覚えている。
死ぬな、死ぬな。ただ、その想いだけが先行した。
彼女の存在の歪さを知り、築き上げてきた二人の関係を虚構としながら、降谷はいざ彼女が目の前から消えるという事実を突きつけられると、ただ、純粋に願った。

自分の前から、頼むから、いなくなるな──と

想いが功を奏したのか、警察病院に搬送された彼女は緊急手術を受け、十時間以上に及ぶ処置の結果、奇跡的に一命をとりとめた。
報せを受けた降谷と風見は、医師の言葉に心の底から安堵した。これで大丈夫だ。目が覚めたらどうしようか。また君は無茶をして、無鉄砲に首を突っ込むなとあれほど。
説教の準備を整えておこうとした降谷は、しかし、その言葉達を伝える機会を現在まで奪われている。

「もう、四ヶ月経つか……」

嘆息した有崎に、緩慢に瞼を挙げる。微笑みを浮かべる彼女を、降谷はもう随分と、瞼の裏でしか見ていない。
一命は取り留めた、脳も心臓も正常に動いている。しかし、意識だけが戻らず、彼女はあれからずっと、眠り続けている。脈拍、血圧、体温、呼吸状態は正常というのに、何故だか意識だけが戻らない。まるで──

「……此方が仮想世界であちらが現実か」

自嘲した降谷の声が届かなかった有崎は僅かに眉根を寄せる。不審がる顔に軽く頭を下げ「失礼します」と彼に告げると、降谷はその場を離れた。



覚めることのない永遠を、此処で生きるというのか。



愛車を吹かせて、着いた先の建物の自動ドアを潜る。あれから、何度このドアを潜ったか分からない。今日こそは、今日こそはと無意識に募る期待はいつも扉を開けた先で霧散する。
夢から覚めるだけだと微笑んだ彼女の言葉通りなら、今頃、彼女はきちんと【起きているのか】。もし、そうだとしたら、こちらの彼女は二度と──

「……今更、何を言っているんだ」

片手で顔を覆い、沈痛な面持ちで吐露する。
突き放したのは自分だ。彼女の存在の異質性に慄いたわけではない。ただ、──信じられなくなった。
自分は、彼女にとって、なんだったのか。
信じたいと願っている自分がいた。降谷零個人を信じると口にした彼女を、自分もまた受け入れていた。故に、彼女の言葉が途端に自分とは無関係の場所にあるような錯覚を覚えた。
本当に、信じてくれるのかなんて、子どもじみた、馬鹿馬鹿しい。こんなのは降谷零ではない。
否定を重ねれば重ねるほど、堪え難い感情が胸を支配した。しかし、彼女との関係をどれだけ否定しようと、時間を戻すことは不可能だった。風見や、ほかの人々と同じように、自分もまた彼女と編み続けた関係と、過ごした日々があったのだ。

戻ってきてほしい。
戻って、そして、伝えたい。
謝りたいことがある、だから、頼むから──

「目を覚ましてくれ……」

現実は此方だと、手を伸ばしてくれ、と。
願いを込めた掌が、ガラリとドアを開けた。


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