店を出る頃に、雲の中から雷鳴が聞こえ始めてすぐに雨が降り出した。大粒の雫が滝のように落ちてきて、お天気おねえさんの言っていた通りの天気となった。傘を持っていて良かったと心底安堵する。
けれど、困ったことが起こった。

「安室さん、さすがに家まではいいですよ」
「駄目ですよ。言ったでしょう、都会の一人歩きは危険が伴うって」
「大通りを歩きますから、そんな迷惑をかけられません」
「僕の家もこの近くなんです。迷惑なんかじゃありませんよ」

にこにこと人の好い笑みで隣を歩く彼に内心困り果てる。女性の一人歩きの危険性を語られたばかりだから自然かもしれないけれど、非常に申し訳ないことになった。
帰宅する私を送ると言い出した安室さん。何度断っても頑なに送ると言い張り、結局私の方が根負けした。彼の忠告通り大通りを歩いて、多少遠回りになるけれど安全な道をなるべく歩こうとしていたのに、と申し訳なさがまたやってくる。
送る送らないの問答は意味を成さず、こうして二人仲良く大雨の中、帰路に着いた。ポアロの新作メニューの話、天気の話、他愛のない話を続けて歩いていく。通りを抜けて、住宅密集地に入ると街灯は少なくなったけど、それでも自宅までの距離は二百メートルほどだ。更に、横に安室さんがいることで安心感は増す。時折ちらりと視線を走らせてみたけれど、男の影は見当たらなかった。
ほっと胸をなでおろして、安室さんを見る。目が合った瞬間、小首を傾げてこちらを覗いた彼に顔が綻んだ。
あの時安室さんが来てくれたおかげで、こうして安心して夜道を歩いていられる。他愛のない話をして、緊張が解けて─


(あれ、でも)


ふと、ある疑問が頭を過ぎった。


「安室さんは、どうしてあそこにおられたんですか」


そういえば、どうして。
ふと彼を見上げる。視線が端正な相貌へと向けられた。

──それは単純な疑問だった。

何に対して警戒しているわけでもない、率直な問い。不安を払拭し、危機感を持たせてくれた彼に、私は無防備な状態だった。

笑みを綻ばせながら見上げた彼の横顔。ゆっくりと、こちらを見たその顔貌が視界に入る。

刹那、呼吸が一瞬止まった。


「少し、用事があったんですよ」


心臓が掴まれたような心地がして。
彼の目の奥に怖気立つような色が見えたことで、背筋が震えた。

「これでも、私立探偵ですから」

忘れていた。夢心地のような時間に、私は失念していた。
緩んだ気持ちに気付いてしまった。彼と多くを語らって、助けてもらったその事実は、私に彼への信頼を促していた。

安心する。楽しい。嬉しい。

──信頼できる。

いつだってその感情は、人の口を軽くする。

冷や水を浴びせられたような心地に、私の笑みは氷のように固まった。ひくりと喉が鳴る。
もたらされた安堵、恐怖の払拭、信頼。その全てが、彼のたった一瞬の笑みで全て崩れ去った。

「お仕事、ですか?」

震えた声に彼は気づいているだろうか。
彼への畏怖が一気に湧き上がったと同時に、ある疑念が私の中に浮かび上がった。
その疑念に、私は心の底から恐怖した。

──どうしてあそこに安室さんがいたのか。

そこからさらに伸ばされる疑問。

もし、彼があそこにいたのが、《必然》だったら?
彼も、《つけていた》一人だったら?

嘘だ。なら、助けてくれるわけない。いや、助けることのメリットがあるかもしれない。例えば、そう、信頼を得る獲得工作、とか。
しかし、それならばわざわざ忠告をする意味は何。あの怪訝そうな顔は、険しい表情は。

疑念が浮かんで、別の疑念を呼んで。答えなんてものは確証がない限り見つけ出すことができないのに、それでも、疑念が次々と噴出する理由は、彼の相貌がひどくひどく─

「刀海さん」

冷徹だったからだ。
あの場にいた理由を尋ねたことで、剥がれ落ちた安室透のベビーフェイス、いや、最初から全てが仮面だったのかもしれない。

名前を呼ぶ安室さんに思わず口を噤んでしまった。先を促すようにとりあえず視線を彼に向ければ、彼は困ったように笑う。

「……貴女はもう少し、思っていることを言葉にした方がいい」

視線をしっかりと合わせて、まるでそれは獲物を逃さない捕食者のようで。嫌な汗が背筋を流れて、彼に捉えられた視線を外すことができなかった。
雨粒が道路に跳ねて、雨脚が強まる中でも、心臓の音が煩い。無駄に整っている顔が、私に向けられている。

「感情は蓋をし続ければ溢れて、最後にはそれに自分が飲み込まれてしまいます。だから、刀海さん」

安室さんは柔和な笑みを湛えて私に目尻を下げた。
唇が紡ぐ、彼の言葉。血色の良い唇が形作る言葉に一瞬、私の世界から音が消えた。

「もっと、僕を」


──頼って下さい。


その言葉は、なぜか耳に届かない。

雨音が聞こえる。消えていた世界の音はすぐに帰ってきた。

滝のように落ちる雨が雑音となって私と安室さんの間を隔てる。雷鳴が轟き、迅雷が直ぐそばまで迫っていることが分かった。
一聞すると優しくて、身を案じてくれる言葉。人を安心させる言葉。耳障りの良い安室透の言葉はこの豪雨に似合わないほど心地よいはずだった。安室透としては満点の言葉だ。

でも、私にとって、安室透の声はひどくノイズが激しかった。

(嘘つき)

言葉にできない思いが、また、胸に燻る。安室透の瞳を見つめながら、私は心中で嗤った。

笑っていない瞳が、私に向けられている。

彼は今、降谷零ではなく安室透だ。警視庁警備局警備企画課、ゼロに所属する公安警察官ではない。喫茶ポアロでバイトをする私立探偵という仮面を被った存在は、偽りの経歴、人格を降谷零の上に貼り付けている。

笑わせないで。

頼ってくれと言った安室透に、偽りの私は困ったように笑った。



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