瞼越しに光が見えた。意識が覚醒したことを認識して、薄っすらと鉛のように重い瞼を上げる。白一色の部屋が視界に広がり、洸は涙腺から溢れて瞳に膜を貼った体液を、ひとつ瞬かせて横へと逃がした。ベッドの周りに人はいない。部屋の中で目覚めた洸は、ひとり暫く涙を流し続けた。

──帰ってきた。

全身で感じる世界が、自らの帰還を告げていた。
感覚が妙に鈍化しているのは何故だろうと首を傾げつつ、なんとか上体を起こす。左腕から伸びるチューブは点滴用だろうか。
記憶を呼び起こせば、自然と腹の辺りを無意識に摩る。触っても痛みを感じないそこに首を捻った。

「……あれ」

眉根を寄せた洸は、ヒラリと凪いだカーテンの先を見つめる。網膜に映ったのは、仄かな桃色の花弁だった。

(さく…ら…)

──嗚呼、そういえば、此処に来た時もそんな季節だったっけ。

薄ぼんやりと記憶の中の情景に想いを馳せていると、反対の方向から、音が、聞こえた。
ガラリと扉が開くそれは、覚醒した洸の耳朶を優しく打った。
数度瞬いた彼女は、緩慢に首を回して其方を見遣る。
遣った視線が、一直線に彼を捉えた。


「………降谷さん?」


見紛うはずがない。柔らかな金糸は春の陽の光を受け煌めき、アイスブルーの瞳も変わらずそこにある。
降谷さんだ。彼を認識した途端、洸の胸に、形容しがたい感情がせり上がった。胸いっぱいに広がるそれに名を付けるなら、熱い情愛か。

「……あの、降谷さん、あのですね……」

伝えたいことは沢山ある。聞きたいことも山ほどある。膨大な情報を共有して、そして自分から告げたい想いがあるというのに、言葉は付いてきてくれない。
降谷さん、ともう一度、彼の名を紡いだ……刹那──

「っ、わっ!」

あっという間に洸の目の前まで迫った彼の体躯から、腕が伸ばされ、躰は覆われ、最終的に全身に体温を感じていた。
有り体に言えば、抱き締められた。状況に頭が追いつかずに目を白黒させる。
抱き締められる状況は二度目だ。とはいえ、慣れるものではない。男性に抱き締められるシチュエーションなど、人生の中でそうあることではない。否、少なくとも洸の人生の中では希少価値の高い行為だ。
身動きの取れない中、無理に彼を引っぺがすこともできずに、結局固まる。抱き枕よろしくされるがままになっていた洸を、降谷は一向に離そうとしなかった。

(どうしよう)

このままの状態を誰かに見られるのは避けたい。状況から見るに、自分は長い間眠っていたようだ。病院の看護師から医師が直ぐに来るだろう。
もう一度、「降谷さん」と紡ぐ。柔らかな声音で紡いだ名前に、降谷が応えた。

「……戻ってこないのではと思っていた。このまま、目覚めないかと…」
「…すみません、そんなに長く経ってるとは思っていなくて」

なにせ、彼方での時間は体感で十数分だ。

「えっと、…とりあえず……色々ともう、大丈夫で……降谷さん?」

耳元で囁かれた一言に、洸は息を飲んだ。

「──また、いなくなるかと思った」

ひどく、弱々しい声が洸の耳朶を打って。ぐっと、回された腕に力がこもり、彼の心情がそれだけで伝わる。
また、という言葉は、もう降谷と二度と会うことはない、親友達のことを指しているのだろうか。
自分の目の前から、一人ずつ消えていった無二の友、愛しい人、失い続けた彼の人生に想いを馳せれば、感じる彼の震えに、胸が痛んだ。
しかし、当の降谷はその想いを、まるで抱くことは不適当だといわんばかりだった。

「勝手だということは分かっている、君を突き放したのは俺だ。遠ざけたというのに、今更、何を言っているのかと思うかもしれない。だが、俺は──」
「降谷さん」

早口で紡ぐ彼の言を、凛とした声で洸は切った。

「私は、もう向こうには行きません、というより……もう、向こうに私は居ないんです」

困ったように笑む彼女に、降谷の腕の力が緩まる。
洸は、抱き締められている体躯を捩り、彼から僅かに距離をとって、まっすぐ見つめた。

「降谷さん、私に言いましたよね。私にとって、皆さんが何なのか」

ピクリと降谷の瞳が揺れる。身構えた相貌に洸は仄かな笑みを湛えて、紡いだ。

「私にとって皆さんは、大切な人達です。私を認めてくれて、私と過ごしてくれる、とても、とても大切な人達です。それは、降谷さんも変わりません」

──初めは、ただのキャラクターだった。

紙の上の世界に来て、既知の登場人物達と過ごす日々は、現実なのに違う世界のようだった。
アニメの世界という、現実とは思えない世界で、此処は自分の居場所じゃないと絶望した。これは、罪を犯した自分への罰なのかと自問し、自身を顧みずにいた。暴かれた己の秘密は彼を深く傷つけ、これは夢なのだと、覚めるべきだと強く認識した。
しかし、とても単純なことを見落としていた。

彼らも、自分も、此処に生きてる。
罪を抱え、もがき、苦しみながら、それでも此処は確かにある自分達の物語の世界だ。
創作者に与えられたのではない、自分達の世界だ。

洸の言葉に降谷が口を開く。

「……俺は…君にとって俺は何なのか、ただのキャラクターなのかと考えていた。君の存在を知り、君の言葉を信じられなくなっていた。しかし、そんなことは関係なかった」

瞼を伏せ、胸の内を吐露する降谷が、ひとつ、ゆっくり瞬いて洸を見つめる。

「俺にとって君がどんな存在か、それしか重要じゃないんだ」

アイスブルーの瞳に揺らぎはない。
強く抱いた想いが、彼から、彼女に伝えられた。

「君を失いたくない」

大切な人への、確かな想いが、紡がれる。

「君が何者であっても、俺にとっても、君は大切だ。だから……自分を傷つけないでくれ」
「……ッ、」

洸の目頭が熱くなる。視界が揺らめいて、瞬きした双眸からは、雫が落ちた。「ごめ、なさ…」と、拭おうとする手を制して、降谷は彼女を抱き締めた。

「頼むから、離れないでくれ…」



──此処で、生きろ。



それは、あまりにも優しい言葉だった。
イレギュラーだった彼女にとって、かけがえのない言の葉。

彼女が、堪え切れるはずがなかった。

「ッ、…離れ、たくないです…」

無意識に、ぎゅっと、降谷の服を掴む。

「此処で、生きたい…私は、ッ貴方の生きるこの世界で、一緒に……貴方と一緒に、生きたい…」

言葉に詰まりながら、紡いでいく。
自分の素性を知る唯一の存在、降谷零の言は洸の想いを吐露させるには充分だった。

生きたい。
この世界で、生きていきたい。
大切なものがたくさんできた、大切な思い出もたくさんできた。
もう、此処を、この世界を、人々を──


「──好きなんです」


愛している。
月並みな言葉でも、洸は確かに、心の底からこの世界を愛している。
物語として生まれた世界であっても、確かに自分自身が生きているこの世界を、人を、愛している。

「……此処で、なんて逃げだな」

ふと、降谷が自嘲気味に笑った。同時に、彼の腕の力が緩む。
洸の肩を掴み、真っ直ぐ見つめる降谷の相貌に彼女が息を飲んだ。


「一緒に生きてくれ、──洸」


アイスブルーの瞳に偽りはない。水晶体の奥底にある感情すら見えるほど、彼の瞳は澄んでいる。
織り成してきた関係、交わしてきた感情、紡いできた物語の果てに彼が見せた素顔が、そこにあった。

「他人を騙してきた人生だ、信じられる相手だと思わないかもしれない。仕事柄、いついなくなるかも分からない。だが、俺は、君を──」
「降谷さん」

言葉を遮った洸が、肩に置かれた彼の掌を取る。彼の暖かさが心まで伝播して、彼女の想いを紡がせた。

「……私は、確かにこの世界で生まれた存在じゃありません。いろんな人の暴かれたくない過去を知っている、異質な人間です」

あり得ないことを知っている、暴力的な人間。異質で、不気味で、隔離したくなるような存在と思われても仕方のないことだった。

「……だからこそ、降谷さんの言葉は、私の救いです」

存在を認めてくれて、この世界に繋ぎ止めてくれて、ありがとう、と。
帰りたい場所があった。会いたい人がいた。
想いを形にして、二人の感情が綯った奇跡を享受して。

「私は──この世界が、降谷さんが好きです。この世界に生きる一人の人間として、何があっても貴方を信じます」

彼の掌を頬に寄せる。感じる彼の体温は温かい。
紙の上のキャラクターではない。人として、大切な人としてそこにいる、彼を感じて、洸はひとつゆっくり瞬いた。
洸が信じるのは、降谷零という、大切な人だ。

「だから……私と、生きてもらえませんか」

眉尻を下げて微笑む洸に、降谷の目尻から、一粒の雫が落ちた。
今一度、降谷が洸の躰を抱き締める。彼女の言葉に呼応するように、しっかりと、抱き締めた。



春風が部屋を抜ける。桃色の花弁が窓枠にひとつ落ちて、また風に揺られて舞っていく。

出会いと別れの季節。

この日、この世界で、ようやく、刀海洸の物語が紡がれ始めた。









外光が差しても室内はがらんと冷たい。殺風景なのは娯楽が何一つないからではなく、寧ろ、居住者の心の内を部屋が体現しているからだった。
結城亮の心は空っぽになっていた。空洞化した心内を埋めるものが何ひとつなく、無為に日々が過ぎて行く。
逮捕、拘留から現在居住している府刑までのスピードは存外早かった。公安が手を回したのかもしれないが、異例のスピードで刑が確定した。控訴をするか否かの選択など無意味というレベルだった。
逮捕時の記憶を思い起こしては、結城は虚脱感に苛まれた。散った鮮血、冷え行く躰、命の灯火が消えていく感覚が掌から伝わってくる。
また、またなのかと。何故、こうなった。どうして、そもそも、そうだ。

──出会わなければ良かった。

あの日、無二の親友が謀略に絡め取られた末に自殺したことを知った日から、結城の世界は復讐という二文字だけを求める暗闇に覆われた。光はない、差しはしない、その隙間すらないほどに覆われた憎悪は彼を突き動かし続けた。
使えるものは使う。捨てることに迷いはない。目的のための犠牲に誰がなろうと構いはしない、それが自分だ。
しかし、その認識を強く持っていたにもかかわらず、結城は、彼女を切ることができなかった。
利用価値が高いと判断して泳がせた。必要なら危険な目にもあわせ、心身共に傷付けた。罵倒され、憎まれても致し方ない所業だった。
それでも、結城は彼女を切り捨て、始末することは叶わなかった。

(結局、中途半端に関わらせた)

甘言でも振りまいて、自分にしか頼ることが出来ない関係を築けば、それこそ、手っ取り早く手篭めにしてしまえば早かっただろう。モノのように、彼女の意思などお構い無しに扱い、捨ててしまえば、彼女も、自分に固執しすぎることは無かった。
傷つきながらも自分を信じる瞳が、言葉にする強さが、ひどく眩しく、そして──

「手紙が届いている」

看守の声が耳朶を打って、悔恨の海に沈んでいた結城の意識を浮上させた。
これまでに、面会の申請は幾度かあった。両親、兄、ジャーナリスト、申請の話が来る度に結城は全て断っていた。
会わせる顔がないという殊勝な理由ではない。会う必要がないと判断しただけだ。
自分自身の復讐だった。仔細を誰に話すでもない、ただ、己が為に動いた、それだけだ。そんな、手前勝手な理由で動いた事件に、親類が関わる必要はない。『自分にはもう関わるな』面会拒否の理由を聞かれた際、それを両親に伝えるよう頼んだ。
面会が駄目なら今度は手紙か。受け取り拒否の項目にサインをしていた筈だが、律儀に報告する看守に嘆息する。
が、差出人の名前を聞き、結城は瞠目した。

「差出人は……、運命共同体、から? だと」

怪訝な声を出した看守に対して、結城の心臓は大きく跳ねた。
一命は取り留めたとの話は聞いていた。しかし、その後の容態は一切耳に入ってこなかったため、彼女が今、どうしているのかは分かっていなかった。
あれから、四ヶ月が経過した今、何故、手紙が来たのか。黙考する結城に看守が苛立たしげに「手紙、どうするんだ」と質問した。


『──久しぶり、というのも変か。でも、お元気ですか、も変だよね』

結局、紙面の文字を追う選択をした己の意思の脆弱さを脇に置いて、結城は二枚に綴られた彼女からのメッセージを読み進めた。

『私はあれから、つい最近まで眠ってたの。意識戻らなくて、ようやく戻ったら春になってるからびっくりだよね。いろんな人が心配してくれてたみたいで、お見舞いに何回も来てくれる人とかといてさ。風見さんとか、忙しいのに毎日来てくれたんだよ。あの時、一般人の私を守れなかったことを悔やんでたみたいだけど、私が無闇に動いたからだから、気にしなくていいんだけどね。責任感強い人だから、悪いことしちゃった』

その後もつらつらと綴られていたのは、意識が戻った後の彼女の日常だった。リハビリを続けていること、高価な見舞いの品を貰ったこと、職場の友人が泣きながら抱きついてきたから、引っぺがした等、本当に他愛のない出来事が記載されている。軽妙な筆致で綴られていて、眼前にその光景が見えてくるようだった。
ふと、口元が緩む。相変わらず能天気で、馬鹿みたいにお人好しだと、紙を通して見える彼女の笑顔に笑みを溢した結城は、スライドさせていた視線をピタリと止めた。

『言いたいこと沢山あるけど、書ききれないから、ひとつだけ書くね』

次行に続いた言葉が網膜に焼きつく。

──嗚呼、お前は…本当に…

『私は、結城と出会ったことを後悔してないよ』

──なんて、お人好しなんだ。

紙を持つ手が震えた。

『裏切られたこと、傷付けられたことを忘れてるわけじゃない。痛みは覚えてる。けど、結城に貰った優しさが、私の支えになってた。だから、私ね──結城と出会えて、友達になれて、本当に良かった』

言葉のひとつひとつから、想いが溢れる。思い起こすのは、短いあの期間、彼女と過ごした鮮やかな日々だ。

『犯した罪は消えない。どんな理由があっても、人殺しは正当化されちゃいけない。償いは必要だと思う。だから、しばらくは会えない。会ったら、いけないと思うんだ』

復讐の中でも、彩のある日々を、自分にとって大切なものを、また見出してくれた彼女の言が、結城の胸を、揺さぶった。


『でも、私ね──』


──待ってるから


「……ッ、なんで、お前は…」


『結城が出てくるまで、待ってる』


「そうやって……ッ」


『だから、ちゃんと生きてね。結城、あのね』


顔を上げた先、がらんとした室内の何もない壁に投影されたのは、彼女の仄かな笑みだ。記憶の中にいる彼女の笑顔が、彼に言葉を紡ぐ。


──ありがとう。


「……ふざけんなよ…ッ」

虹彩モニターが揺らいで、水晶体に薄い膜が張る。ひとつ瞬けば、雫もひとつ。溢れるそれを止める術はなく、両手に持った紙面にシミを作っていく。

涙なんて、枯れたと思っていた。
もう、何も必要ないと思っていた。
なにひとつ、自分には残る必要はないと思っていた。

なのに、なのにコイツは──

「……ぅ、あっ…ァア……」

痛くて、悲しくて、それでも──人の心を溶かすのはやはり人の心で。感情のまま溢れる雫に、哀しみを乗せていく。

結城亮の復讐劇は、この時ようやく、終わりを迎えた。







夢を見た。
部屋の中で私はパソコンををつついている。悩む素振りを見せて、首を捻って、カタカタとキーボードを打つ音が耳朶を打つ。
綴られていく文字が世界を描き出す。物語を紡いでいく。私の物語が描かれ、そして迎えるひとつの結末。
ここから先は、何もない白紙のページ。
新たな一ページ、新たな人生、新たな旅立ちを作り出すのは、私だ。



さぁ、目を開けて──



「──おはよう」



柔らかな声音に目を覚ます。
パチリと瞬いた先にある確かな世界に、私は、応えた。



「おはようございます」




聖地巡礼物語 完



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