目が覚めて快晴だと気分が良い。洗濯物がよく乾く、窓を開けて掃除ができる。思うところはさまざまだが、洸は快晴だと行きたい場所があった。
時計の短針は間もなく十を指す。家事は一通りやった。同居人である彼は、二日ほど前から帰っておらず、連絡もない。おそらく、仕事に追われているのだろう。仕事内容を洸が知る由もない。洸にできることは、帰ってきた彼がゆっくりと休むことができるようにサポートすることだけだ。
外行きの準備をして、戸締りを確認する。さて、行こうかと玄関へと向かった矢先、ガチャリと鍵が開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
珍しい朝帰りに目を丸くしつつ、上着を受け取ろうとした洸は、しかし彼の腕の中に収められる。「降谷さん?」と問う彼女に降谷は一言。
「しばらくこのまま」
ぎゅう、と感じる人の温もりに洸の目が柔らかく細められた。
降谷零は存外、子どもらしい一面がある。スマート、ストイックではあるが淡白ではない。会えなければ寂しい。であるからこそ、長期任務の後は洸が驚くほど甘えたになる。以前、一週間帰ることができなかった時は、家について暫くはコレだった。くっつき虫かと呆れつつ、降谷の普段お目にかかれない姿に得意げな気持ちになったものだ。
「お疲れ様です」
タシタシ、と背中を叩き、労務を労る洸に、降谷はひとつ口付けた。降谷零の意外な生態、その二、愛情表現をきちんとする、だ。古い日本男児像を想像していた洸はこれには随分と驚かされた。
はむはむと、唇を柔く噛み、ぺろりとひと舐めする。深いものにならなくて良かったとホッとした洸を、降谷はじっと見つめた。
「……出かけるのか?」
「あ…その、天気が良かってので少し散歩?みたいな?」
散歩というほど近場ではないので疑問形になったが、外に出る予定だったことに違いはない。
しかし、仕事帰りの彼を放って行っていいものではないかと思案していると、降谷は、ふむ、と唸り、「少し待っていてくれ」と、奥へと入って行った。きょとんと首を傾げた洸の前にものの数分で現れた彼は私服に着替えていて、「降谷さん?」と尋ねた洸の手を何食わぬ顔で掴む。
「外、行くんだろう?」
「え、いや、別に今日じゃなくても良いですし……降谷さん仕事で疲れてるでしょう?」
「徹夜していたわけではないから、さして疲れてはないさ。睡眠も庁舎内でとっていた。出歩いても問題ない」
「でも、」
「行くぞ」
降谷零の生態、その三、割と強引。これは、以前からよく知っている。一度決めたら引かない。特に、洸の前ではその傾向が強い。
「本当に、ただの散歩ですよ?」
入念な予防線を貼りつつ、洸は右手に感じる彼の温もりに口元を緩めた。
*
空が高い。蒼い。澄み切った青に構造物が映える。自然と無機物のコントラストの美しさにいつだって目を見張ってしまう。カタンコトンと揺られ、無人運行の車両は臨海副都心へと向かっていく。
ゆりかもめ、とは何ともピッタリなネーミングだろう。洸は先頭車両の席に座りながら、移りゆく景色を眺めていた。
新橋を出発した車両は竹芝、芝浦埠頭を通過するとレインボーブリッジを通ってお台場海浜公園駅へと進む。青海、東京ビッグサイト、有明など、一度は耳にしたことのある土地を冠する駅を通過し、最後は豊洲に到着。沿線沿いには多種多様な施設が集結していて、駅を降りて観光するにもうってつけの路線だ。
「君は、乗り鉄なのか?」
車窓からの景色に目を細めていた洸に、降谷が尋ねた。「違いますよ」と、少しばかりむくれる。
「私が住んでいたのは地方の田舎だったので、こういう近未来的なのは新鮮なんです」
「近未来的か?」
「都市機能の移転のためにここまでの大規模開発が進められるなんて、他ではあり得ませんから。人もモノも、何もかもが桁違いで、見ていて別世界に来ている感じになるんです」
元はここは海だったなんて、歴史を知らなかったら信じられるものではない。複合商業施設、高層マンション、大規模市場、国際展示場。僅か数十年で人間がなし得たというには、あまりにもスケールが大きすぎる。東京という、目覚ましい発展を遂げた都市の象徴とも言えるのが、此処、東京港第十三号、十号埋め立て地区だった。臨海副都心とはよく言ったものだ。
「一番前の車両だと、景色がよく分かって好きなんです。端から端まで居て、景色見るだけでも面白いというか…だから乗り鉄ではないんです」
「俺にとっては見慣れた景色だが、人によって見え方が変わるものなんだな」
「……まぁ、私にとって此処はまだ、慣れない土地ですから」
洸にとって見慣れているのは、穏やかな陽光に照らされた木々、水面が煌めく田園、少なくとも暖かい人の営み、ノスタルジーを感じる風景たち。近未来都市とは無縁の大地だ。であるからこそ、臨海副都心の景色は観光客が見るそれと同じ意味を持つ。
スマートフォンでカシャリと、風景を切り取れば、見慣れない土地がフォルダに収められる。知らなかった土地の画像だけが溜まっていって、それ以前の、自身が一番親しみを持っている土地の景色は、今はもう記憶の中にしかない。
「……いつか、また撮りに行きたいですね。あっちにも」
自分がいた場所とはまた違う。地元と言ってもいいかは分からないが、それでも、以前旅行した際に見た景色は確かに自分の記憶の中にあったものと、同じだ。
心地よい揺れに身を任せながら、洸は在りし日の光景に想いを馳せた。
*
「──帰りたい、と思わないのか」
夕方、少しばかり長い散歩を終え、帰宅した洸に掛けられたのは、妙に神妙な降谷の声だった。きょとんと目を瞬かせて、夕陽の入る部屋で振り向いた先の彼は顔に影を落としていた。
「帰る…?」
「その……元の世界にじゃない。その土地に、だ」
その土地、が指すのはおそらく、此処ではない土地。自分が住んでいたとされる土地だろう。問いかけた降谷の相貌は、少しばかり憂いを帯びていた。
洸は、ふと脳裏に景色を思い起こす。
住み慣れた土地、愛着のある故郷。たとえ世界線が違っても、懐古の念を感じる景色は確かに此処にもある。
戻りたくないのか。その問いに、しかし洸は緩やかに首を振った。
「此処に、帰るところはありません。あの場所は……あの場所と同じものは、もう此処にはないから」
「それに」と、ひとつ瞬いて。
「私の帰る場所は、もうここしかないんです」
微笑みを向けて、洸は目の前の彼に想いを馳せた。
帰りたいと思っていた。帰るべきだと思っていた。自分の世界は此処じゃない。自分は此処にいるべきじゃない。夢の世界から現実へ。離れれば、きっと忘却の彼方へ行ってしまうだけだと思い込み、胸に広がる痛みを見ないフリをしていた。
それでも、伝えたい言葉があった。ただ、それだけで、此処に帰ってくる理由ができた。
「私が、此方に戻りたいと思ったのは、降谷さんのおかげなんです。ずっと帰りたいと思っていたのに、降谷さんに伝えたい、て。大事だって、それを伝えたいがために、此方に帰ってきました」
あちらかこちらか。究極の選択に思えるそれを、迷うことなく選べたのは彼のおかげだ。
帰りたい。その思いを強固なものとしたのは、彼との日々、彼の言葉、全てだった。
それを選び取った幸せは、何にも代え難い。
「これは、私の選択です。私が望んで、私の帰る場所を此処に決めたんです。確かにあの土地は懐かしいですけど、でもそれだけです」
一歩、二歩と彼に近づく。下から覗いた相貌はどこか泣きそうで、水晶体が揺らめく瞳を見つめて、戯けた調子で洸は語りかけた。
「……此処にいることを後悔なんてしてないですからね?」
言い終わった刹那、ふわりと身体が包まれる。柔く、暖かい、温もりが身体の芯まで満たす心地に洸は口元を緩めた。
「あっちに帰りたいかなんて、今さらですよ」
「……そうだな………なぁ、洸」
腕の力が緩められる。降谷は洸に向き合い、視線を交わした。
「俺は、仕事柄いついなくなるか分からないし、あまり多くを話せない。辛い時に側にいることができるかも正直、分からない」
知っている。彼の職務は公に尽くすものだ。国を守り、治安を守る、危険で過酷な任務だ。
視線で応えた洸に、降谷はひとつ間を置いて、「それでも、」と、紡いだ。
「──俺の、帰る場所になってくれないか」
帰る場所。言葉だけ見れば単純で、しかし降谷零が紡ぐには、あまりに勇気のいる言葉だった。
帰ることができるかわからない。それでも、降谷零は彼女に紡いだ。
帰る場所に、なってくれと。
「──ッ、」
情動が込み上げて、全身に溢れる。喜色に溢れる心が、目尻から滴を落とした。こくりこくりと、言葉にならない喜びを体現した洸に、降谷は、もうひとつ、想いを綴った。
「結婚してくれ、洸」
After....