初夏の雪解け
体が勝手に動くと言う経験を、二度もするとは思っていなかった。
《羊飼い》との戦闘で、シンが一撃を喰らい、後詰めのシデン達に回収してもらうさなか、同調越しに司令部要員の焦慮に駆られた声が聞こえた。《ヘイムダル》第二、第三小隊が近接猟兵型の猛攻を受けていると、副長のニコとやり取りしていたろう内容が耳に入ってきて。
そしてまた、アイツが飛び出した、と。
焦眉の急を告げる事態だと脳が判断する前に、振り切った操縦桿。セオ、シデンの静止も聞かずに《ヘイムダル》のブリップが示す地点へと《ヴェアヴォルフ》を疾駆させた。何かできる、何ができる、そんな冷静沈着に状況を俯瞰する余裕すらなかったのだろう。ただ、その場に間に合うことだけを考えて。
だから、辿り着いた瞬間、雪の紗幕の向こうで単機で雪野を駆けながら、豪速で迫る雪の塊を背にした彼女の機体を見て。
ライデンは、飛び出した。
「──悪いが、俺も少し前に目が覚めたばかりでな。幸い崖下に仲良く落ちたわけじゃなかったが、知覚同調使おうにも凍傷しちまうし、レギンレイヴはエネルギー切れだ。競合区域ギリギリで救援も迂闊には出せないだろうから、厄介な状況に変わりはねえ」
淡々と、状況を伝える。目を瞠り、現状を呑み下せない彼女に、敢えて冷静に。
雪崩に巻き込まれる直前、《レッドウルフ》にアンカーを打ったのが功を奏したのか、二機が離れることはなかった。巻き込まれながら、うろ覚えなのは機体が何かにぶつかった感触。目覚めてから機外を確認すると、脚部や後部が鉱物に削り取られたかのように著しく損傷していた。不幸中の幸いか、おそらくは突出した岩にでもぶつかり、巻き込まれながらも軌道が逸れたのだろう。二機は林の中にいた。雪野のど真ん中ではなく、針葉樹地帯にほど近いところまで戻ることができていたことも、幸運を呼び込んだ要因と推察される。
とはいえ、放り込まれれば絶死の凍土。雪の紗幕は収まったが、競合区域には変わりなく、こちらの居場所を知らせる術がない。
「とりあえず遭難用の非常食やらはあるが、どこか山小屋でもあった方がありがたいな。あとはレギオンに見つからなければ」
「──して、」
ぼそりと、低い声が耳朶を打つ。負傷者運搬用の補助席に座る彼女を見遣れば。
「どうしてこんなことしたの!」
怒りと嘆き、哀切に塗れた怒声が耳朶を打った。声を荒げて、しかしすぐに言葉を詰まらせる。何か言うべきことを探しながら、けれど思い浮かばないのか、くしゃりと顔を歪ませて、俯いた。「なんで、こんなこと」と小さく、呟いて。
「──生きて帰れないかもしれないのに」
どうして、と。消え入りそうな声。
その、小さく吐露した感情に、かつて戦友が、自身に吐いた言葉を思い出して。
ライデンの怒りは一瞬で沸点に達した。
「それが、気に食わねんだよ」
「……何が、」
眉を顰めた彼女に、腹の底に押し込めていた激情が、一気に湧出した。
「八十五区の壁の中に囚われたまんまのその面が! 気に食わねえっつってんだよ!」
怒声を発した彼に、レイネシアがびくりと肩を揺らす。当惑する彼女に、ライデンはぎろりと、鋭い視線を向けた。
八十六区の絶死の戦場に囚われていると、彼女と同じ白系種のレーナはシンに伝えた。彼女もまたそれは感じているのだろう。だから、何度も自分達に伝えるのだ。
生きていればいい。生きていれば、未来を見ることができる。もう、必ず死ぬ戦場に生きてはいないのだから。死ぬべきではない。生きるべきだと。
けれど、それはいつだって、誰かにしか向けられていない。
向けられるのは、いつだって他人で。
それが、己に向けられたことは一度たりともなかった。まるで、己が罪だと言わんばかりに、彼女は頑なに自分を勘定に入れようとしない。
ライデンは、それがずっと、ずっと気に食わなかった。
自分の明日すら、見る気のないやつが、何を。
「明日を見てほしいだなんだとほざいといて、テメエが一番、後ろばっか見て前を見てねえだろうが!」
「っ、」
息を呑んだ彼女に、けれど苛立ちは収まらない。
共和国人という枠に囚われて、自分の未来を見ようとしない姿勢が、気に食わなかった。
いつか、戦争が終わったらと言いながら、その先の隊員たちの明日を夢見ながら、共和国という亡霊に取り込まれているその姿が。
壁の中の過去に囚われ続ける、その背中が。
己を省みない、その傲慢が。
「他人の幸せを願っといて、自分のソレはどうだっていい奴に、文句言われる筋合いなんざねえよ」
睨め付け、吐き捨てたライデンに、彼女は口を引き結ぶ。何一つ言い返せないのか、黙して俯く。当惑か、悔恨か、激昂したライデンに視線を合わせることすらできずに。
「俺も死ねば、アンタの道連れだ。せいぜい生きるんだな」
口の端を上げて、ライデンは嗤った。何かを言いさして、けれど言葉に詰まった彼女の傷付いた相貌に、少しだけ苦い思いが芽生えながらもくるりと背を向けて操縦席に座る。
黙した彼に、彼女もまた話しかけることは、なかった。
*
何も言い返せなかった。
本気で怒る彼を見たのは初めてで、言葉にして自身に向けられた怒気に居竦んだ。案じる言葉を掛けられたことは沢山あったけれど、行いに対して明確な怒りを露わにされたことはなかったから。
驚愕と動揺。
けれど同時に。
どうして──
その瞳の奥底に見えた深い哀しみの色に、何も紡げなかった。
負傷者運搬用の補助席にこじんまりと座り、レイネシアは膝を擦り合わせる。日が落ち、外気温が一段と低下したのか、体感温度もまた下がった。
自分一人だけなら、なんてことはない。助けが来なければただ朽ちるだけ。
それは、命の儚さを知るエイティシックスなら当然理解できる帰結だ。
それなのに、どうして。
あんな絶望的な状況で体が動いてしまった自分を、彼は何故──
「……っくしゅ!」
刹那、気の抜ける音が鼓膜を揺らした。
ふと、目の前の席の彼に視線を向ければ、背越しにも分かるほど、どこか居心地悪そうに体がモゾモゾと動く。ぶるりと震えた肩。
その姿に、レイネシアは思い出した。
「シュガ君、ハッチ開けて」
「は?」
「隣に物取りに行くだけだから」
言葉少なに伝えれば、数秒の沈黙の後に無言でハッチが開けられる。狭いコックピットから抜け出したレイネシアは、新雪の上に慎重に降りた。
雪は止んだらしい。見渡せば、細長い木々は雪崩によってあちらこちらで倒木している。視線を上へと向ければ、木々の間からは薄雲と星雲の共演を拝めた。
思わず少しだけ足を止めて、けれど直ぐに脚部が全損した自機へ近づき、ハッチを開ける。補助席近くに置いた《それ》を手に取ると、足早に《ヴェアヴォルフ》へと戻った。
「アンタ、なにして……て、何すんだっ」
「なにって……防寒以外何があるの」
戻ったと同時に怪訝に眉を顰めたライデンに、レイネシアは引っ掴んできた夜戦用毛布を巻いた。
北部戦線は雪深い戦闘も多かった。故に、遭難した際や長時間の戦闘に備えて、毛布を常備する癖が戦隊員には付いており、レイネシアもそれに倣ってどの気候の戦闘であれ必ず自機には置いておいたのだ。
「いらねえ」と剥ぎ取ろうとするライデンに「いいから」とレイネシアも語気を強める。
「暖かくしなきゃでしょう。筋肉量が女性より多くても君はまだ」
「子ども、てか?」
低く唸るような声音が鼓膜を揺らし、同時に強引に毛布を剥ぎ取ったライデンが、レイネシアの腕を掴んだ。野生の獣の、獰猛な瞳が向けられる。
「あいにく、十二のチビじゃねえんだよ、今は。あの時のアンタの歳はもう超えた」
睨め付ける視線は、威圧的ながらも真っ直ぐ、真摯で。
レイネシアは僅かに瞠目し、視線を逸らした。
「……私も、大人になった」
「変わんねぇよ。アンタはあの時のままだ」
「っ、そんなこと」
交錯させた視線に、けれど言葉を詰まらせる。
彼の視線は雄弁に語っていた。
自分はまだ、八十五区の壁の中で立ち止まったままだと。
先の未来を見ることができていない、子どものままだと。
「……っ、」
目力に気圧されて、レイネシアの視線は下向く。逃げたいと本能は叫ぶけれど、掴まれた腕が逃避を許してくれない。
どうして。
どうして、彼は、こんなにも真っ直ぐなのだろう。
危険を顧みず二度も自分を助け、先を見ない愚鈍な姿勢を質す。逃げるなと、向き合うことを選ばせる。
どうして──
「……なぁ、レイネシア」
黙したレイネシアに、ふと、ライデンが尋ねた。
腕を掴む力を、緩めて。
「未来を見ることは、悪いことなのか」
問いかけるその、切願を感じる声音に、レイネシアはハッと目を見開いた。図らずも、視線が上を向いて、彼と合う。
哀の色が見える、その瞳に。
──悪いわけ、ないじゃないか。
ぐっ、と。言い知れぬ気持ちが迫り上がる。
彼らが、君たちがそれを見ることが、悪いわけないじゃないか。
「それは、高望みなのか」
「っ、違う! そんなわけないっ」
「なら、なんでアンタはそれを見られないんだよ」
詰問する物言いじゃない。怒気を孕んでもない。
ただ、どうしてそれを望めないのかと。純粋な疑問と、望んでほしい、と語る視線が、彼女に向けられる。切願が、哀切が見える、瞳。
「……ちがうの」
それを直視できなくて、レイネシアは静かに俯いた。
「君達は見るべき。いや、見てほしい。こんな、偽善と欺瞞が溢れる世界でも、行き着く果ての世界を、歩んでほしい」
ぎゅ、と彼の腕を掴んで紡ぐ。
君達は、見てほしい。けれど──
「私が見るには、私は……汚れ過ぎたから」
自分には、許されない。その資格はない。
万感の思いと、懊悩を、彼女は吐露する。
「人を利用して、使い潰して、そんなことしかしてこなかった。わたし、は……」
声が、震えて。ずるりと、彼の腕を掴んでいた手が、落ちた。
多くの死を見てきた。座して、見てきた。
その死を回避するために、多くの白系種の人権と尊厳を踏み躙ってきた。
自らの異能を使い、相手の弱みを握って得た、迎撃砲の修繕・管理コード、同調対象の拡張。その為に、金、名誉、名声、女。軍上層部から政財界まで、凡ゆる人間の弱みを握った上で、強請り、脅迫した。
破滅へと追い込んだこともあった。相手の職を奪い、地位を奪い、家庭を壊したことだって。
「──許されないの」
戦場に立つのは嫌なくせに、それでも立ち続けたのは、畢竟、己のためだ。フレデリカに指摘された、自罰的な生き方は、結局のところ、自分のためでしかなかった。
覇道を歩むために踏み潰してきた命と尊厳を振り返れば、先を見る資格が自分にあるとは到底思えない。
許されない。許されていいはずがない。
「赦しちゃいけないの」
たとえ、誰が許したとしても。
沈黙の帷が降りる。風の音も、何も聞こえない。静謐な空間。
「……だから、自分には必要ないと思ってんのかよ」
ぽつねんと、ライデンが声を漏らす。レイネシアは項垂れたまま、何も返せなかった。
その通りだ。自分には、未来は必要ない。だから──
「なら──俺と見ろ」
耳朶を打った声は、力強く。
その声に、項垂れていたレイネシアの目が見開かれる。
同時に、彼女の肩が掴まれ、必然的に顔が上がった。
視線の先、鉄色の瞳が彼女を見据えて。
「俺が歩む未来とやらを、アンタが最後まで一緒に見届けろ。一人で、朽ちるなんざ許さねえ」
「……シュガ君、なにを」
理解しがたい言葉に、当惑する。
けれど、戸惑う彼女に、彼は、ふ、と相好を崩した。
「俺の未来を、アンタに預ける。だから──」
──一緒に生きろ。
柔らかく、陽光を感じさせる、穏やかな声色がレイネシアの鼓膜を揺らした。
*
見開かれた瞳が、困惑に揺れる。言っている意味が理解できない、泣きそうな、子どものような瞳だった。
その瞳に、けれどライデンは言葉を撤回する気はなかった。
一緒に生きろ。
それは、祈りであり呪いだ。
死ぬことは許さないと。死ぬのなら一緒に死んでやると、暗に伝える、呪い。自分だけで済まさない、誰かを巻き込む、呪い。
困惑気味に眉を顰めた彼女は、しかしすぐに首を振る。
「無理だよ、そんなの。搾取してきた側とされた側が交わるなんて」
「シンとレーナに同じこと言えんのか」
「っ、違う! あの子たちは」
「違わねえよ、アンタも俺も、あいつらと同じだ。戦場ここで一緒に生きてる。それだけで十分だ。だから、アンタも無為に朽ちるな」
責める物言いじゃない。けれど一歩も引かないと伝える声音で告げる。
先を見ることができないのは、自分も同じだった。戦いに明け暮れて、シンとレーナのように、誰かのために生きるなど、そんな夢物語を自分が見るとは露ほども思っていなかった。
それでも、明日を見ない彼女に腹が立つ矛盾に、気づきを覚えたのだ。
嗚呼、そうか。
確かに、囚われたままなのは、哀しい。
だって、彼女が言ったのだ。
「アンタが言ってくれたんだろ。また、て。生きて会うことを先に望んだのはアンタだ」
未来を諦めていた自分に、また、という祈りを紡いだ彼女が、あの時の自分と同じなのは、哀しいから。
「だから、生きることを諦めるなよ」
生きてほしい。笑ってほしい。
きっと自分は、それを見続けたいのだ。戦いに明け暮れる、生きることすら絶望に容易に変わるこんな世界でも、そんな些細な目標があれば、生きようと思えるから。
しっかりと彼女を見つめて。
しかし、ライデンは、手にしている夜戦毛布に、ふと、視線を外した。
「──と言っても、この状況で言う台詞じゃねえか」
苦く笑って、掴んでいた彼女の肩から手を離す。生きてほしいと言いながら、一緒にお陀仏な状況下に変わりはない。
感情の赴くままに発した自分の言葉に、途端に気恥ずかしさを覚えた。
「フレデリカの目はあまり頼りにならねえもんな。せめて向こうの位置が分かれば良いんだが」
無理に被せられかけた夜戦毛布を彼女の肩に掛けてから、ライデンはハッチを開け、外に出る。寂寞が支配する雪野を見渡したが、僚機の姿も駆動音も聞こえなかった。
やみくもに歩いたところで意味はない。遭難して終わりだ。信号弾は敵にも位置を気取られるため、救援部隊が近場に来るまでは使えない。
ひとつ息を吐いて頭をかく。
そもそも、雪崩に巻き込まれた二人に救援部隊を出すかどうかすら不明だ。いち戦隊長と副長のために動かせる部隊。おそらく《スピアヘッド》と《ヘイムダル》の隊員となるだろうが、シンは先の戦闘で負傷した。
さて、どうしたものかと、再び息を吐いたライデンの腕を。
「大丈夫」
彼女が、掴んだ。
ふわりと、銀の髪が揺れる。雪野に降り立ち、じっと何かを見つめるように佇立する背中に、ライデンは眉根を寄せた。
「リッカ少尉とククミラ少尉、あとニコ……クロノス中尉の小隊が近くに来てる。ただ、進路から見てここは通らないから、こちらから歩いた方が良い」
「……何を」
言っているんだと。
続けようとした言葉はしかし、振り返った彼女の相貌に、口内に飲み込まれた。
銀の瞳と髪。白系種の象徴たる色。有色種と区別を付け、差別を植え付けるための色。
その色が、彼女が持つはずのその瞳の色が──
「アンタ、その目」
七色に、染まっていた。
濃淡のある蒼、紅蓮の紅、稲穂のような黄金。色彩が映り、輝くその彩色。
それは、以前、彼女が《羊飼い》となった仲間を撃つために出撃する前、一瞬だけ見えた、あの色だった。
瞠目するライデンに、彼女は眉尻を下げる。自嘲気味に口角が上がった。
「私ね、異能持ちなの」
泣きそうな笑顔が向けられる。
「白系種だなんて、嘘。私は、純潔じゃない。どこか分からない血の影響でこの異能を持った。異能を使わない限りは白系種には見えてたけど……有色種と変わらなかった」
《同じだから》
かつて、彼女が自分に言った言葉をライデンは覚えている。侘しげに、哀切と苦悶を綯交ぜにした、その相貌が、はっきりと思い出される。
「異能がバレたら、有色種として扱われる。だから、父も母も私を守ろうと、口を閉ざした。周りの有色種の友達がいなくなっても、何も言えなくて、私は……見捨てた」
ライデンを見上げていた面が、下向く。己が過去を曝け出し、声を震わせながら、彼女は吐露した。自身の過去を。
「両親がね、最期に言ってくれたの。生きて、て。こんな異能を持たせてごめんなさい、それでも生きて、て。そうやって自分たちは他の人を逃がして、死んだ。わたし、だけが、生き残ったの。みんな、見捨てたのに私は、生き残って、また人を傷つけて、利用して、見捨てた」
七色の瞳が揺れて、薄い水の被膜が目尻から零れ落ちる。両の手で拭っても、それでも止まらない。
「生きる意味が、分からなかった。あの子たちが生きてくれるなら、もういいや、て。それだけでよかったのに……」
「レイネシア」
「なんで、君は……私を」
「っ、」
弾かれたように、ライデンは飛び出した。雪野に降り立ち、彼女の手首を掴み。
そのまま、引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
──やっと、分かった気がする。
どうして、彼女が自分を勘定に入れないのか。
どうして、未来を見ることを拒むのか。
どうして──自分を許さないのか。
自身の異能ルーツを隠していた負い目。隠しながら利用して、他人を使い潰した罪悪感。仲間を、家族を失った喪失感。
どろどろに綯交ぜになった己への自罰感情が彼女を追い詰めて、生きる意味を他人だけに見出す構図を作り出した。
だから、自分自身への敵意にはひどく無頓着で。向けられる敵意も憎しみも、全部仕方ないと。それだけの過去があると自身に言い聞かせて。
きっとそうでもしないと、心が保たなかったのだ。後悔が津波のように押し寄せて、彼女をずっと海底に引き摺り込んだ。
他人を生かすために、自分は生きると己に念じ続けるその異様。けれど、それこそ彼女の生存戦略という矛盾。
そんなもの──
「俺と、生きろ。アンタが何者であっても、何を抱えていてもいい。俺の前からいなくなるな、死ぬな。俺もむざむざ死ぬ気はねぇ。だから、俺と生きろ」
「……っ、そんなの……」
できない、なんて言わせない、と。体現するように腕の力を強める。冷え切った体躯をライデンは抱き締めた。
かつて、己が戦友の孤独と懊悩を理解してやれなかった。だから、研いだ氷刃のように己を使い潰すあいつを、止めることも叶わなかった。
あんな思いは、もうごめんだ。
「生きてくれ、レイネシア」
笑って、泣いて、怒って、また笑って。自分では考えもしなかった未来をつくりたい。
また、どこかで。
「シュガ、くん」
腕の中に収めた彼女が口を開く。微かに何事かを紡いで、ライデンを見上げる。
自身を見つめる相貌に、ライデンは――
*
誰も信用せずに、生きてきた。
異能を使って、けれど異能を他人に悟られないようにするために、氷の表層を保って。己の贖罪のために、他人を利用して、けれどそれによってまた、抜けない罪禍の楔が穿たれても尚、止まれなかった。
けれど――
《生きて》
冬が過ぎれば春が来るように。
雪解けは、訪れた。
冷え切った躰と機体を回収してもらい、予備陣地基地に帰投して、医療区画で検査を受けた後。どうやらかの死神も珍しく負傷したとか、その関係で上官と口論になったとか、そんな話を聞いた後。
レイネシアもまた、自身の部下の前にいた。さらに言えば、ただでさえ男の体躯の前では小柄な体を縮こまらせて。
「あの、ニコ」
「あの時、俺言いましたよね。みんな貴女を心配してる、て」
叱られる子どものように、顔を俯けている。静かな剣幕に視線を合わすことは叶わないようで。
談話室で何やってんだと声を掛ける猛者はいない。普段、ユートと同等なレベルで寡黙な彼の怒りにわざわざ触れにいく人間はいなかった。《ヘイムダル》の他の隊員ですら、隊長に一言言いたかった文句を後に取っておこうと、そそくさとその場を後にして。
そうして、二人きりの室内で、ニコの怒涛の詰問が始まる。
「無茶をしないでと言ったはずですよね?」
「いわれ、ました」
「今回のことは、貴女の中で無茶の部類に入ってないわけですか」
「……むちゃ、だったと思うけど」
「けど?」
「ひっ」
「けど何です? 雪崩に巻き込まれて渓谷の底に叩きつけられても死なないとでも? 貴女はヒーロー映画の主人公か何かですか? 生身でもレギオン相手に無双できるレベルなんです?」
「無双、してみたいねぇ……」
「寝言は寝て言え」
「すみません」
言葉も荒々しくなり、形式的な敬語すら取っ払うほど彼の憤懣は頂点に達していた。
「あんた、本当に昔から変わってなくて危なっかしいし突っ走るし強情だし、そのくせ妙に大人ぶってこっちの心配するくせに他人に心配かけてなんなんだよほんとに! 心労重ねるこっちの身になれよこの馬鹿! いい加減にしろ!」
一気に捲し立て、吐き出された心内。びくりと肩を揺らして頭上から降ってくる叱責を受けながら、レイネシアはおそるおそる彼を見上げる。
「……ごめんなさい」
「許さない。絶対に、今回は許さない」
ふい、と顔が逸らされる。苦々しく、唇を引き結ぶ彼にレイネシアはひとつ瞑目し、「あの、ニコ」と、声を掛ける。
「もう、大丈夫だから。だから……ごめんね」
見上げて、視線が交錯しなくても尚、瞳を彼に向ける。真っ直ぐ、見据えて。
「今までずっと、ありがとう。私の異能のことも、隊のことも、ぜんぶ、ありがとう」
彼は、一番の古参の隊員だった。リオンが死ぬ前から隊にいて、大攻勢も生き抜いた、唯一の隊員。自分が己に課した呪いに苛まれても、黙って着いてきてくれた、仲間だ。心労をかけたというのはその通りで、部下である故に言いたくても言えなかったことは、多くあったろう。
だからこそ、きちんと、彼を正視して伝える。
「私、ちゃんと前を見るよ。ちゃんと、生きたいと思えるから。私が、生きたいから。だから、その……」
許してほしい、なんて言えない。ただ──
「まだみんなと、一緒にいさせてほしい」
共に、戦場で在ることを、認めてほしい。エイティシックスでもない、白系種の元ハンドラーであっても。
仲間だと、思いたいから。
一緒に、いたいから。
吐露した想いに、けれど沈黙が流れる。
きゅ、とレイネシアが拳を握った。
瞳が不安に僅かに揺れて。
「……んとに、勝手だよ。あんたは」
ふと、外れていたニコの視線が緩慢に彼女へと戻る。睨め付けて、けれどひとつ嘆息した。
「今度、無茶なことをしたら今後あんたの指揮下には入らない。二度とあんたを信用しない。戦隊は俺が引き継ぐ。これは、戦隊員の総意だ」
真っ直ぐ、逸らされない力強い視線。けれど、どこまでもやはり、自分に甘い口調で。
「それくらい、あんたが死んだら士気に響くんだ。自分の身の振り方は考えろ」
「……うん、ごめん。ありがとう、ニコ」
「謝罪も礼もいらねえ……です」
ふん、と鼻を鳴らして、不服さを滲ませる。それでも、自分が戻ることを拒絶しないのは、彼の優しさだ。
これからも、これまでと変わらず戦いは続く。犠牲が出ることも避けられず、戦いの帰趨も見えない。
それでも、戦う生きることを諦めるのは嫌だから。
彼らと、未来を見るために、生き抜きたいから。
ニコの反応に少しだけほっとして。胸を撫で下ろした──刹那。
「あー……とりあえず、次の作戦のブリーフィングあるから良いか?」
ひょっこりと、入り口の扉付近から顔を出したのは、苦笑を浮かべるライデン。説教が終わるのを待っていたのだろうタイミングだ。
「了解した」と答えたニコが、ちらりとレイネシアを見遣る。ぱちぱちと瞬いた彼女に。
あとはふたりで。
去り際に僅かに口角を上げて、視線を流して。意味深な瞳はちょっとした意趣返しか。顔には出さなかったものの、ドキリと、嫌な汗が背中を流れた。
「だいぶ絞られたみたいだな?」ニコの背中を横目で見遣って、ライデンはくっくと笑む。「一番心配かけたから、当然だよ。あの子は、もう長い付き合いだから」眉尻を下げて、レイネシアは苦笑し、ライデンを見つめた。
「……でも、こうやって怒られることができたのも、君のおかげだね」
僅かに目を伏せて、徐に呟く。脳裏に浮かんだのは、彼と出会った日のことだ。
あの時は、まだ小さな子どもだった。戦場に出て間もなく、自分の心を守る術すら分からない手負いの子犬のようだった。
だから、未来が死に摘まれてしまわないように、願った。祈りを言の葉に込めて、音で紡がれたそれは叶い、再会を果たした。
今、自分は大きくなった彼の隣にいる。数多の試練と困難、絶望を乗り越えて、もう一度、今度は互いに願いを込めた。
──生きよう、と。
「ありがとう──ライデン」
僅かに、彼の目が瞠られる。虚を突かれた様子に、レイネシアは気恥ずかしげに頬をかいた。
「……えっと、ずっと名前呼んでくれてたから私も呼びたいと思ったんだけど……だめ、かな?」
思えば、初めて彼に助けられた時から、彼はずっとレイネシアをファーストネームで呼んでいた。
きっと、彼なりの意思表示だったのだろう。もう、あの時のような子どもではない。庇護されるべき幼子ではない、と。
故に、成長を見届けたいと思う一方で、レイネシアは認めざるを得なかった。彼は、戦場を生きて、生き残ったエイティシックス。
もう、子どもではない。
「……別に、いいんじゃないのか」
ふい、と顔を逸らして、明後日の方向を向きながらライデンは答えた。少しばかり慣れないような、こそばゆい感覚なのか、ちょっとだけ声が上擦って。
「うん、そっか」レイネシアは微笑む。何か自分の中で一歩進めた、確かな歩みを感じて、彼女はもう一度、紡いだ。
「いこう、ライデン」
*
澄み渡る蒼穹が、大地を祝福している。山野は陽光に煌めき、命の息吹を取り戻したように、ひょっこりと顔を出す山野草の数々。凍てつく絶死の世界で尚、地中深くで芽吹きを待っていた逞しい、命が大地に緑を与えている。
その一つに、レイネシアはそっ、と手を添える。まだ冷たさを孕むけれど、真っ直ぐ天に向く葉を柔く、撫でた。渓流は水を得た魚のように、雪解け水を流して。命が、歓喜に震えているようだった。
煌々と、降り注ぐ陽光を見つめながら、彼女は、徐に視界を切り替える。視えるのは、安堵した晴れやかな笑顔、少しばかり疲労の溜まった苦笑。おつかれ。そっちこそ。労いの言葉が飛び交う光景に、釣られて頬が緩んだ。
「──何を見られているんですか」
ふと、後ろから声を掛けられる。予備陣地を見下ろせる丘陵地の、兵士達がくつろぐスペースにわざわざ足を運んだ彼女にレイネシアは緩慢に振り返った。
「いろいろ、です」
瞳の色はそのまま。七色を宿した双眸が、彼女──レーナに向けられた。
竜牙大山の攻略任務は終わりを迎えた。レーヴィチ要塞基地で猛威を振るった高機動型もかろうじてシンが撃破し、《無慈悲な女王》の鹵獲も完了し、連合王国を覆っていた分厚い暗雲は取り払われた。数ヶ月ぶりの蒼天を仰いだ連合王国の兵士の一部は歓喜に目尻に涙を浮かべ、久方ぶりの祖国の空に既に各都市から喜びの声が聞こえているらしい。
「ノウゼン大尉へのお小言はいいんですか?」
茶化すように小首を傾げてみせれば、「もう済みました」とおどけた調子で返される。彼女もまた、《ヴァナディース》で斥候型を踏み潰すなどだいぶ無茶をして部下から、あの時は肝が冷えたとか、あれは可愛い顔した戦車、とか散々言われているが、どうやらまだ彼の耳には届いていないらしい。
誰の口から漏れるか。かの死神は無言の圧で迫るだろうな。そんな他愛もない予想を脳内でしていたレイネシアに、レーナは、微笑んだ。
「レイネシアの異能にも助けられました。シンの窮地を教えてくれたこと、感謝しています」
突然の謝辞に、レイネシアは首を振る。
「私は何もしてません。《無慈悲な女王》が先導した結果ですよ」
「けれど、視界からシンの現在地を推定して《無慈悲な女王》が進むルートが正しいと進言してくれたのは、レイネシアです。それに、シンが生きていることを伝えたことで、拠点爆破に猶予ができました」
ふわりと、華のような笑みを零して。
「レイネシアの異能は、私の大切な人を救ってくれたんです」
銀鈴の声が、告げる。溢れんばかりの感謝と、幸せを。その声音だけで、彼女から彼への想いの強さが理解できた。
白系種であり、共和国人である彼女と、有色種であり、エイティシックスである彼の、絆を垣間見る。
「あの、レーナ」
だから、なのか。
レイネシアは徐に、訥々と語り始める。
「私は、分かりませんでした。彼らの未来は望めても、自分は、どうさきを見れば良いか。ずっと、分からなかったんです」
未来を見ることが、できなくて。こわくて。
だから、あの列車の中で彼女を突き放した。世界は醜い。醜悪で、どうしようもなく利己的だから。
だから、悪を利用するために、自分自身も汚れて、薄汚い大人になった。
「他人を利用して見捨てながら、共和国人として、白系種として生きてきた自分が、彼らと一緒に在る未来が分からなくて。だから、この先ずっと、私は一人だろうと思ってました」
堕ちた人間の行き着く先が、未来を見るべき子らと同じはずじゃないと。
赦されないのだから。
そう、あってはならない、と。
「──けど、」
「ひとりじゃないです」
凛と、銀鈴の声が空気を揺らす。可憐で、それでいて力強い声音で、彼女は紡いだ。
「私も共和国人であることで抱えた葛藤があります。エイティシックス彼らと共に在りたくて、役不足と思われたくないと思ったこともありました」
滔々と、己が内に秘めた想いを。白系種であり元ハンドラーのレイネシアに、告げる。
「すれ違って、喧嘩して。けど、最後に一緒に笑いたい、ずっと共にいたいと願うんです。共和国人でも誰でもなく、ひとりの私として」
彼女は、ヴラディレーナ・ミリーゼは、自身に課せられた肩書きを取り払い、レイネシア・フォンベルクに問い掛けた。
「レイネシアにもいるのでしょう? そういう人たちが。なら、ひとりじゃありません」
「……はい。そうですね」
脳裏に浮かんだ多くの人々の相貌に、レイネシアは瞑目する。瞼の裏に投影される彼らの姿に、レイネシアは万感の思いを噛み締めるように、紡いだ。
「私は……私も、彼らと共に在りたい」
誰でもない、自分自身のために。
レイネシア・フォンベルクというひとりの人間として。
「だから戦います。この世界で──生きるために」
彼女は、彼女自身に誓った。
たとえ、世界が醜悪でも。
たとえ、世界は人に優しくなくても。
たとえ──大切な人を、失っても。
生きよう。
生きて、生きて、最後まで戦おう。
互いが掴みたい未来のために。
互いと歩みたい、明日のために。
己を、赦すことが叶わなくても。
行き着く果てに、確かに望んだ未来を、掴むために。