「楓は晶ちゃんのことが好き?」
夏休みのある日。練習終わりに迎えに来た清文の唐突な質問に、楓は数秒間フリーズした。家の近くまで晶を送って、じゃあまた明日、と手を振って別れた直後の質問に、思考は停止する。
好き、すき。
「はあ!?」
いきなり何を言い出すんだ、と勢いよく彼を見上げる。凝視した先の清文は、それはもう涼しげに目を細めた。感情を、思考を見透かすような澄んだ蒼の瞳に、楓は何故だか罰が悪くなり、そっぽ向く。
「別に、普通」
「普通ってことは嫌いじゃないってことだよね?」
「嫌い……じゃねえけど」
「けど?」
やけに食い下がって反応を見ようとする。はぐらかそうとしても、優しく暴こうとしてくる。
「なら、晶ちゃんのことは、大切?」
返答に困っていると、答えやすいような問いかけに変わった。「それとも、どうでもいい?」なんて追加で聞かれて、思わず反射的に食ってかかるような言い方をした。
「大事に決まってんじゃん!」
いったい、何を言っているんだ、と。
いつも側にいて、いつも見てくれて、応援してくれる。家族に近い存在だった。いなくなったら、とか、離れたら、なんて考えたこともないくらい、一緒だった。
どうでもよくて、いらない、なんてことはない。
声を荒げた楓に、清文は「そっか」と顔を綻ばせた。どうしてそんな質問をしたのかは明言せず、ただ楓の返答に満足いったように、「そっかぁ」ともう一度呟いた。
──思えば、あれは自分の心内を自覚させるための質問だったのかもしれない。
晩秋の木枯らしが抜ける並木通りを一定のリズムで走り抜けながら、楓は過去を追想した。逢魔時を過ぎ、辺りは既に宵闇に侵食される中、両脚を動かす。日課となったランニングはひたすら無心になれる時間だったのに、ここ最近、楓の脳裏に蘇るのは、敗北の残像と振り切ったはずの過去だった。
誰にも負けない強さを手に入れるために、弱さを捨ててきた。だというのに、シドニーでの世界大会で、アルベルトという絶対的強者を前に、なす術もなく敗北した。温い水泳ごっこに興じる奴らを踏み台にしてきた結果が、所詮自分は強者と勘違いした哀れな道化(ピエロ)だったという現実に、歯噛みする。
そして、苛立ちと同時に思い出されるのは、学園祭での晶の涙だった。
約十年ぶりの再会に戸惑い、それでも歩み寄ろうとした彼女を突き放した。七瀬遙と旧知の仲となった彼女の軌跡が無性に腹立たしくて、苛立ちをぶつけた自覚はある。ただ、それが何に起因するのかは理解できていなかった。
小学校卒業間近のあの日。唐突な別れに戸惑い、突発的に告げた《大っ嫌い》を、今度は自分が受けて。自覚していなかった焦燥の輪郭が朧げだが見え始めた。
ずっと隣にいた存在が、何があっても離れなかった大切な存在が、いなくなってしまう焦り。自分が捨てた仲間、リレーという弱さを後生大事にしようとする姿に、いつか自分から離れてしまうのではと、無意識に抱いていた恐怖。綯交ぜになった感情を自覚できず、結局、自分たちはすれ違ったままだ。
「……馬鹿じゃねえの」
自嘲に口元が歪む。
いまさら、なんだというのか。
最初に拒絶したのは、自分だというのに。結び直せないほど関係性を千切ったのは、他でもない自分自身だというのに。
それでも、胸にべったりと、後悔は張り付いた。
*
少年少女達が大なり小なり抱く焦燥をよそに、季節は巡る。晩秋が過ぎればやって来るのは冬。そして年末だ。
年の瀬の東京駅はいつもに増して人がごった返す。帰省客が入り乱れて混雑する改札を避け、水泳部の面々や真琴、晶は別れの挨拶を済ませた。
「というか、新幹線通ってないんだから飛行機か夜行バスの方が良くない? 一本で行けないの辛そう」
「分かってないな、貴澄。列車旅は男のロマンだ」
「まぁ、みんないるから退屈しないしね」
「おい真琴! スルーすんなよ!」
「馬鹿旭が賑やかすぎて寝れなさそうなのが難点だよね」
「んだとコラ!」
「いや、列車内では静かにしなよ」
喧騒に負けないくらい、やいのやいのと喧しい。しばしの別れでも寂しいのか、やたらと全員がお喋りになっていた。あっちに帰ったらどうする、とか、初詣一緒に行くか、とか盛り上がる中、晶と日和の視線が交錯する。
「遠野君も元気でね。京都も結構雪降るから風邪引いたら駄目だよ」
「君は僕の母親か何か? 言われなくても分かってるから」
「言い方ぁ」
ちょっとだけむくれた彼女に、日和の口角が少しばかり上がる。「冗談だよ。白崎さんも体壊さないようにね」と返した日和に、晶はパチパチと瞬いて苦笑した。「素直じゃない」「どっちが」。最後まで憎まれ口を叩きながら、構内に列車到着のアナウンスが響く。
「じゃあ、また」
「うん。元気でね」
良いお年を、と手を振って、互いが歩き出す。年末の喧騒に呑まれながら、全員が三三五五で帰郷の途に着いた。
──もう、吹っ切れたかな。
帰省客でごった返す列車内で、日和は車窓から見える景色を漫然と眺めながら一人、物思いに耽る。小一時間ほど前に別れた彼女、白崎晶の横顔を思い起こしながら、脳裏に蘇るのは世界大会の映像だった。
異次元の泳ぎを見せた水泳界の寵児、アルベルト・ヴォーランデルが決勝戦を辞退したことで、金城は三位と健闘した。だが、予選で彼がアルベルトと当たった際、泳ぎ切った時の表情がカメラに映った刹那、日和は思わず彼女を見やった。視線の先で、画面に目を瞠った彼女の唇が形作った言葉を、日和は見逃さなかった。
──楓。
不安に支配された瞳、案じる気持ちが十二分に伝わった。他の全員が試合結果に興奮する中、彼女はただ、幼馴染の行く末を案じていた。
結果だけ見れば、世界選手権銅メダル獲得なんて、華々しく名誉なことだ。現にニュースにもなり、ネットでもトレンドに上がるなど活躍は瞬く間に日本中に広がった。
けれど、試合後の金城のインタビューを観た彼女の表情は、ひどく曇ったままだった。
とはいえ、日にち薬、とはよく言うもので、表情が曇っていた彼女もいつまでも暗い顔のわけではなかった。日々の生活の中で金城の話題がそう何回も出るわけではない。
日和に過去を話した手前、時折、多少は侘し気にすることもあったが、直ぐに表情を取り繕った。それが良いことかは判別がつかなかったが、少なくとも日和にとっては&s快ではなかった。
過去の関係性に囚われて、未来が見えなくなる辛さはよく知っている。
固執せず、忘れてしまえばいいのに。
積年の懊悩に嘆息して──けれど、その懊悩の元凶に対峙することになるとは、日和も予想していなかった。
*
「──金城」
耳朶を打ったのは、交わらない双曲線を歩いている相手の声だった。
虚空を見つめ、上の空だった意識が一気に現実に引き戻される。振り向いた視界に入った人物に「珍しいな」と思わず自嘲が漏れた。いつもは自分が話しかけて、そして怪訝な顔をされることが多いからか、状況がむず痒い。
気分が乗らない時に、自分がこの寺院に来ることを知ってからしらずか。そういえば、そんな話を大昔にしたか。
「落ち込んでる君を見るのは、珍しいから」
粉雪がしんしんと降り積もった木製の手すりに寄り掛かりながら、目の前の相手、日和が苦笑する。落ち込んでいるだとか、思い悩んでいるだとか、目敏く気落ちした心情を見破ってくるため調子が狂った。
「勝つために捨てた癖に、手も足も出ないなんてな」
だからなのか。勝つために全てを賭けて、捨てて、攻めの姿勢に転じて走り続けてきた、それでも敵わなかった現実への悔しさが、言葉となって溢れ出る。
何が足りなかったのか、どうすれば勝てるのか。
ぐるぐると錯綜する思考の狭間に、ふと、自分が突き放した幼馴染の顔が浮かんだ。
どうして今、と自問して、けれど傍の日和の姿に思い直す。
「……お前ら、いつ知り合ったんだよ」
不貞腐れた声に自分でも驚いた。拗ねた子どものような声で、けれど言葉にしてしまった手前、もう引っ込みがつかない。
日和を見遣れば、案の定、目を瞠っている。
「なに、急に」
「……別に。特段、意味はねえけど」
「なんだよ、それ」
何故だか、日和も少し不満げに吐き捨てる。意味もないのに何を聞いてるのかと言われればそうだ。
閉口し、嘆息する。いまさら、未練がましく気になるなんて、らしくない。
「春あたりにいろいろあったんだよ」
日和も日和で長く話す気はないのか、それだけを口にした。いろいろ、の部分が聞きたくないわけではなかったが、深く尋ねようとも思わず、「そうかよ」と、視線を逸らす。
しばらく、沈黙が続いた。互いに会話の端緒を見出せず、けれど立ち去らなかったのはまだ、知りたいことがあったからか。
夜のしじまを先に破ったのは、日和だった。
「白崎さんって、本当に変な人だよね」
まるで、旧知の仲のような口ぶりだった。よく知っていると言わんばかりの声音に楓の片眉が上がる。
「友達のことを大切にしているのに、自分は蚊帳の外って顔してさ。かと思えば、よく知らない相手にも踏み込んでみたりする。臆病なのか豪胆なのか分からない」
「お前があいつの何を知ってんだ」
「君は彼女の何を見てきたの」
「あ?」
図らずも咎めるような物言いに間髪入れずに日和が返して、一瞬、空気が張り詰める。僅かに苛立ちが孕んだ眼が、しかしスッと細められた。
過去を追想するように、どこかを見つめる。
「少し前に、白崎さんが撮影した写真を見せてもらったことがあるんだけどさ、いろんな記念写真とかもあった。君の写真もね」
──嗚呼、あいつはまだ写真を撮り続けているのか。
妙な感慨がわき上がって、同時にそれを持てあます。懐かしいと自分が感じるのは不適当だと言わんばかりに、嫌な重石がずしりと胸に沈んで。
「けど、その全部が最近、妙だと気付いたんだ」
「……妙?」
神妙な声音になった日和に眉を顰めると、彼はうなずき、少しばかり黙した後に重い口を開けた。
「一枚も、彼女が映った写真がない。他人の日常や笑顔を撮るくせに、自分が写った写真は一枚もないんだよ」
思わず、日和を凝視する。視線は交錯しなかったが、驚愕した楓を悟ったのか日和は困ったように口元を歪めた。
確かに、あいつは写真を撮る方が好きだ。撮られることは慣れていないと、レンズを向けられれば逃げ出す。
それでも、自分が無理矢理撮ったり、一緒に写った写真だってあった。一枚もないなんて、そんなこと。
楓の僅かな動揺を悟ったように、日和は続ける。
「友達のことを大切にしてるくせに、自分をその中に入れないのは何でだろうね」
問いかける口調なのに、妙に確信じみた声音。たかが春からの付き合いのはずなのに、ともすれば、彼は楓より晶を理解していた。
その事実に、歯がみする。たかが小学校の数年間、共に過ごした幼馴染みと断じてしまえないほど濃密な時間を過ごしたけれど、自分が見ていなかった期間はあまりにも長い。
向き合わなかった現実は、今こうして顕現していた。
沈黙の帳が再び落ちる。はらりはらりと静かに落ちる牡丹雪が、肌に落ちて溶けた。
「白崎さんに聞いたよ。小学校の時のこと、喧嘩別れしたこと。彼女の気持ちも全部、僕は聞いてる」
「……そうかよ」
「うん……だから、ひとつだけ教えてあげる」
ふと、棘のあった声色が変化して、「は?」と、俯いていた楓の面が上がる。
刹那、耳朶を打ったのは、思いがけない言葉だった。
「君との思い出を話す彼女は、すごく楽しそうだった。心の底から君のことを想っていたし、それは今でも変わらないと思うよ」
呆れるような口調で話す日和を見れば、今度はきちんと視線が交錯する。柔らかな桑色の瞳が向けられて。
「僕も覚えてる。君の笑顔は割と鬱陶しい時もあったけど……すごく眩しかった」
「……お前」
「話さないと分からないことはたくさんあるし、後悔は積み重ねない方がいいよ。相手のためにも、自分のためにも」
声に滲むのは悔恨のような気がした。自分と彼女の間にわだかまりができたように、日和もまた誰かとの関係性に苦しんだことが窺える、そんな声音だった。
侘しげに瞼が伏せられたが、しかしすぐに、気を取り直したように顔を上げる。
「スマホ、出して」
「……なんで」
「いいから」
有無を言わせない物言いに少しばかり気圧され、無言でスマホを差し出せば、日和もまた無言で受け取り、自身のそれとくっつける。ものの数十秒で、ぴろん、と音がした後に、楓の前にスマホは差し出された。
「白崎さんの連絡先、入れといたから」
「………はあ!?」
「話そうにも連絡先分からなかったら意味ないでしょ。どうせ知らないだろうし」
素っ頓狂な声を上げた楓に、日和は呆れた口調で肩を竦めた。「ついでに僕のも入れたから」と、自分はおまけと言わんばかりだった。
硬直した楓に口角を上げた日和は「じゃあね、良いお年を」と軽やかな足取りで背を向け、あっという間に姿を消した。
一人残された楓は、渡されたスマートフォンを徐に見つめる。熱を持ったそれをしばらく眺め、液晶画面に指を添えた。
*
日本海側は年末になると寒波が襲う率が高い。天気予報の等圧線は見事に冬の気圧配置となり、所謂「ドカ雪」が降る。零下になる気温によって溶けずに残り、運が悪ければ、その上にまた「ドカ雪」がこんもりと積もって、二週間はその場に居座ってしまう厄介者だ。
そのドカ雪が週末には降ると、天気予報のお姉さんの注意喚起を聞きながら、晶はごろんと畳の上を転がった。最近、祖母が購入した電気ストーブの前で暖を取る。西日本のくせに雪が降る地元の寒さを厭うようになったのはいつからか。小学生の頃は、割と好きだったはずだ。スキーや雪だるま作り、雪合戦等々、体を動かして遊んだり、白亜の銀世界をカメラに収めたりした。
そういえば、雪景色を見せてたっけ。
早朝の朝霜が木々を煌めかせて、美しい氷菓のように佇む風景とか、踏みしめられていない一面の雪野原とか。自分の目から見えた美しさ≠共有したくて、正月明けのたびに撮影報告をしていた、幼い時分。
その都度、楓は目を輝かせて、自分の写真を褒めてくれた。沢山の素直な褒め言葉が嬉しくて、だから寒さなんてどうだって良くて。
「だめだなぁ」
乾いた笑いが漏れる。思い出しても戻れないなら考えない方が良いのに、頭の中にはぐるぐると、あの頃の思い出が走馬灯のように浮かぶのだ。
晶にとって、過去はあまりにも眩しい。
首を横に傾けて視界に入った棚に、手を伸ばす。薄ピンク色の写真アルバムを手に取って開いてみれば、中にはあの頃≠フ景色が広がっていた。一ページ一ページに刻まれた過去を見るのは久しぶりで、思わず顔が綻ぶ。懐かしさと侘しさが綯交ぜになりながら、ふと、一枚の写真に視線が釘付けになった。
「これ……あの時の」
陽光煌めくプールサイドで、仲間と勝利を喜び合う姿。幼い頃の晶が見た最高の景色を捉えた一瞬だった。それは、自分が憧れた彼の姿。憧憬し、無意識にシャッターを切ったあの、幼い日の輝き。
透明なフィルムから、丁寧に取り出して、見つめる。胸いっぱいに広がる懐かしさは、けれど、数ヶ月前の思い出に離散した。
大嫌い、と言われて傷ついて、大嫌いと言い返して傷つけて。
本当は、あの時のことを謝りたかった。謝って、自分が見てきた最高の景色の話をして、また水泳に向き合う彼を見つめられたら良かったと思ったのに、結局、喧嘩別れをしてしまった。
もう一度会って話をすれば、と思いつつ、その一歩を踏み出す勇気がない。今度はまた自分が拒絶されたら、なんて都合の良い被害者意識が顔を出して、その身勝手さに罪悪感が湧いた──その時だった。
「あれ? 誰だろ」
ぴろん、とスマートフォンの画面に新着メッセージが届く。見慣れない番号からのショートメッセージに首を傾げつつ、しかし開いた瞬間、晶は画面を凝視して固まった。
*
メールは連絡用の道具であってコミュニケーションツールではない、というのが金城楓の持論だ。友情を確かめ合う、といって頻繁に連絡をしてきそうな後輩の葉月渚も意外と必要最低限しか送ってこないから、きっとそれは間違っていないのだろう。
けれど、楓は今、返ってこないメッセージに焦燥を募らせている。
ベッドの上に寝転がってスマホを両手で握り締める。気難しげな自分の顔が画面に映って、ひとつボタンを押すと三十分ほど前と同じ画面が現れた。新着メッセージなし。かれこれ三日は同じ表示だ。元々、他人から頻繁に連絡は来ないので珍しくもなんともないが、この数日は事情が違った。
『帰った時、会えないか?』
疑問系で送った自分のメッセージは既読が付いている。見ていて、けれど返さないのは迷いがあるからなのか。否、あるから数日放置なのだろう。会いたくないのか会えないのか分からないが、今、彼女は──白崎晶は楓を避けている。
愛想を尽かされたか、嫌われたかは定かではない。十年会っていないのだから、どうということもない……ともいかない現在の心境に、楓は深くため息をついた。晶なら連絡をくれるという期待があったから落胆しているのか。それはそれで、都合のいい解釈だ。あれだけ拒絶しておいて、否定しておいて、自分の都合が良い時だけ反応してくれるだろうとは、なんとも傲慢が過ぎると自嘲する。
──とはいえ、落胆があるから諦めるという選択肢は、楓になかった。
液晶画面を数度タップする。幸い、晶が今どこにいるのかは共通の友人≠フ情報で掴んでいるのだ。ついでと言わんばかりの連絡先に、さっそく活躍の機会が訪れた。
「諦めてやるかよ」
白旗を上げて逃げるのはごめんだ。
どこか勝ち誇った笑みを浮かべて自分を焚きつけた友人の相貌に、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべ、楓はメッセージを送信した。
*
「──うん。うん、分かった。列車動く時間分かったら連絡ちょうだい」
じゃあね、と受話器を置く。昨今はなかなかお目にかかれない黒電話がガチャンと音を立てた。
「お父さん、なんて?」
「大雪の影響で最終列車が止まるから、今日は帰るの無理だって。たぶん、動くのは明日の夜か明後日の朝かな」
「あらまぁ、気の毒なこと。間の悪い時に仕事が終わったもんだね」
気の毒と言いつつ、ちっとも残念な様子が見えないのは、もはや悪天候による交通機関の乱れなど慣れっこだからだろう。ゆるりとした物言いの祖母に、晶は苦笑した。
ドカ雪の影響で、陸空どちらの交通網と麻痺する季節。大晦日には家族団欒が間に合う見込みだが、今日明日は祖父母と三人で過ごすことになりそうだ。
築年数が数十年で底冷えする木造家屋の床を忍び歩きし、晶は居間のこたつに体を滑り込ませ、背中を丸める。年末のダラダラムードで徐にスマートフォンを手にした刹那、ぴろん、と電子音と共に新着メッセージが表示された。
『金城に連絡した?』
あぁ、これで三度目か。
目にした内容に、図らずもため息が零れた。
『まだ、してない』
『なんで。メッセージ開いたなら既読付けてるでしょ?』
『それは、たぶん、そう』
『たぶんじゃなくて、そうなんだよ。なら、なんで返さないの。会いたいってきたんじゃないの?』
間髪入れず返ってくるメッセージに、彼もまた同じように家でダラダラモードなのがよく分かる。もはや、電話をした方が早いのではないかと思えるほどのスピードだった。
彼の、遠野日和のメッセージに、晶はスマホを握りしめて唸った。
「返さなきゃいけないなんて、分かってるよ」
ぽつりと、鬱屈した想いがこぼれ落ちる。
先日、楓から連絡が来た。『金城に教えといたから』と日和からメッセージが来たのは、当の本人からの連絡の後だったので、示し合わせたかと疑った。
楓からの内容はシンプルだったが、それ故に晶は返事をできないでいた。
会えないか、と言われて、分かった、とそれだけ。それだけ伝えられたらきっと、楽になれる。仲違いした過去や、喧嘩した事実や、すれ違った現実や、全部全部、なかったように、取り繕ってしまえば良いかもしれない。少しギクシャクするかもしれないが、それだけ。その時だけ、ちょっと気まずい思いをしたら後は元通り。
なんていうのは、都合の良い幻想ではないだろうか。
堂々巡りをしたところで仕方ないのだから諦めて返信すればいいのに、晶はそれをできないでいた。うだうだと、往生際の悪さを理解しているが、腹を括れない程度には割り切れない想いがあって。
「ちょっと、外出てくる」
「え……あ、晶ちゃん!」
焦った声音となった祖母に「晩御飯には戻るから」と返して、適当な冬服とコートを着た晶は家を飛び出した。
家は、海辺にほど近い。近所の消防団が除雪機でかいた道路を歩いていると、寒風が時折、肌を撫ぜた。冬特有の北風の荒さはなかったが、ぶるりと肩が震える。行く当てもなく、ただモヤモヤした自分の気持ちを整理したくて、ひたすら歩いた。
ぴろん、とポケットの中から電子音が響いて、足を止める。『遠野日和』と表示されたディスプレイに少し嘆息して、もう一度、ポケットにスマホを突っ込んだ。『言い忘れてたけど』と、見えたメッセージの最初の部分からして、四度目の小言が始まるのだろう。今は、それを見る気分ではない。
どこか不貞腐れた気分で歩いていると、さざなみの音が規則正しく鼓膜を揺らした。辿り着いた海岸線には、銀世界に白波が立っている。日本海の荒波が、雪を侵食するように浜に打ち付けていた。
誰もいない海岸に踏み入り、足跡を付ける。波打ち際まで進んで、水平線を見つめた。分厚い雲に遮られ、水面は煌めいていない。どんより曇り空は自分の心内を表しているようだった。
ぶわり、と強い北風が一陣吹き付ける。思わず目を瞑って、肩を縮こまらせた刹那、ぎゅっ、と雪を踏み締める音が背後からした。
冬場の海岸なんて、朝のサーファーくらいにしか人気がないのに、と振り返った矢先、晶の目が見開かれる。
「……うそ」
あり得ない、と冷静な思考が呟いた。
目の前の現実に呆然と。
「なんで、ここにいるの」
──楓。
積年の懊悩は、晶の言葉に黙って、彼女を見据えた。
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