1



 公安局ビル四十八階にある訓練(トレーニング)ルーム。外出制限のある執行官にとって、ライフログを活用したスパーリングロボで対人格闘訓練ができる唯一の場所だ。公安支給のスパーリングロボは歴代執行官のライフログが記録されており、各々が余暇を利用して訓練に勤しんでいる。
 その訓練ルームに、珍しく複数人が集まっていた。
 執行官の宜野座伸元と雛河翔の視線の先で徒手格闘を繰り広げていたのは、一係の監視官、常守朱と執行官の須郷徹平。同じ係同士だが、監視官と執行官という立場で共に訓練するのは珍しい。
 上背がある須郷相手に、常守は左右からジャブを加えつつ、懐に入って相手の軸を崩そうとする。監視官だからと体を甘やかすことなく、有事に備えてスパーリングロボで日々鍛錬を積んでいる常守の猛攻に、軍人上がりの須郷もまた引けは取らない。負けず嫌いというわけではないが、執行官として監視官の盾となる職質状、地面に背中を付けるわけにもいかなかった。
 右足を軸に、左足で相手を蹴り上げようとした常守の足首を須郷が掴み上げる。すぐさま右ストレートが飛んできたが、そのまま相手の体を肩ごと掴んで地面に押さえつけた。
 動き出す前に眼前で拳を止めれば、常守がふっと息を吐く。
「降参です」
 眉尻を下げた常守に、須郷が手を差し伸べる。立ち上がった彼女は、うん、と伸びをした。
「さすが元国防軍ですね。対人格闘術が実戦のそれというか」
「いえ、自分などまだまだです」
 上司の賛辞に須郷は首を振ったが、見物していた宜野座も加わる。
「謙遜する必要ないだろう。実際、一係ではお前が一番、動きがいい」
「宜野座さんも似たようなものだと思いますけど……」
「雛河はもう少し、体力を付けような」
「ひっ……僕は遠慮します」
 爽やかな笑みの裏に圧を感じて離脱体制を取った雛河の首根っこを掴んだ宜野座は、そのままランニングマシーンへと彼を連れて行った。
 仔犬が縋るような目を向けられつつ、笑顔で手を振り見送った常守に、須郷が問いかける。
「常守監視官の格闘術も、公安支給のスパーリングロボの訓練だけでは身に付かないような気がしますが、どなたかのライフログを使っているんですか?」
 ぴたり、と。ミネラルウオーターを口に含んだ常守の体が緊縮した。しかしそれは一瞬で、ゆったりと喉が上下する。「少し」と、常守は曖昧な笑みを浮かべた。
 言葉を濁され、予防線を張られたと察した須郷は、それ以上は何も聞かなかった。
 少し気まずい空気が流れかけたその時、常守の通信端末にコール音が入る。「どうかした? 霜月監視官」と問えば、後輩の霜月が僅かに嘆息した。「どれだけ訓練好きなんですが、ムキムキにでもなりたいんですか」と、うんざりといった声音で吐き出した彼女だったが、気を取りなおすように咳払いをすると、神妙な声で告げた。
「局長室まで来てください。緊急案件です」

 厚生省公安局長、禾生壌宗の執務室に常守が入室すると、すでに霜月は禾生の前に待機していた。遅れてすみません、の一言でも言うべきシチュエーションだが、あいにくと目の前の壮年の女は人の皮を被ったただの機械と知っているため、彼女の隣に立つや否や、「要件は何でしょうか」と切り出す。丁寧語を保ったのは、隣の後輩に配慮したためだ。
「外務省からの依頼だ。ある被疑者の確保依頼が内密に届いた」
 常守の態度に気を悪くした様子もなく、禾生は電子端末を操作する。電子音と共に、二人のデバイスに信号が送信された。「外務省?」と怪訝に眉を顰めた霜月に、禾生はデスク端末に無機質な指を滑らせる。連動して、二人の端末上に、女性の証明画像が投影された。
「千崎千歳。国際協力機構海外活動チーム所属の職員だ」
 千崎、という女性のプロフィールが端末上に表示される。顔つきは特にこれといった特徴はない。平均的な日本人女性の、顔。
「機構自体は、旧時代に日本国の途上国への開発援助を一元的に行う団体として設立されたが、世界経済の崩壊と共に自然消滅。十年前にシビュラシステムの輸出準備に伴い、外務省の外郭団体として再結成された。その第五次隊として現地に赴いたメンバーの一人が、彼女だ」
 日本国の海外での人道支援活動を担う「国際協力機構海外活動チーム」。主に、現地でのインフラ復旧と技術支援。国防軍情報部が、シビュラシステム輸出適性をクリアしたとみなした地域で事前支援を行い、シビュラの緩やかな導入ための緩衝材としての機能を果たす。
 そこまでの情報は、二人とも訓練学校での基礎教育で把握している。
 であるからこそ、解せなかった。
「外郭団体とはいえ、外務省が七割を出資しているなら団体側に任意同行を願えなかったんですか?」
 現地での指示系統は外務省ではなく団体側にあるが、人道支援の実施主体は日本政府だ。政府の意向を受けて動くのが同団体なら、任意同行を拒否する道理がない。
 常守の問いを予期していたように、禾生は言下に答えた。
「消えたんだよ」
「……消えた?」
「文字通りの意味だ。現地の職員用宿舎に寝泊まりしていた筈が、ある日を境に忽然と消えた。日用品はそのまま置いてあったが、支援活動データなどを保存した携帯端末は持ち去られていた」
 彼女が使用していた室内の様子がホログラムで再現される。必要な物しか揃っていない質素な部屋で、荒らされた形跡はない。まるで、まだ誰かが使っていると思えるほどそのままだ。
「最初は現地の反政府勢力の誘拐が疑われたが、数日後、機構の現地本部で政府の機密データが抜き取られていた痕跡が確認された。ログを解析した結果」
「彼女が失踪した日だった、というわけですね」
「さらに言えば、防犯カメラの記録でも、彼女が深夜に本部に出入りしていたのは確認済みだ」
 外務省の外郭団体に就職したエリートが、いったいなぜ、政府機密のデータにアクセスするという異常≠ネ行動に出たのか。シビュラの神託を受けたのなら、それに外れる行為は間違いなく色相が濁る。海外にいる間はスキャナーもないため、犯罪係数を測る余地はないが。
「ちなみに、抜き取られた情報は何でしょうか」
「機密事項だ。君たちが知る必要はない」
 にべもない回答に常守の片眉が上がる。だが、禾生は彼女の不快を物ともせず続ける。
「一週間前に、彼女が東南アジア移民に混じり出島経由で入国。そして昨日、街頭スキャナが扇島の廃棄区画近くで彼女を捕捉した。すぐに一係で対処しろ」
 話は終わりと言わんばかりに、禾生は二人を一瞥すると椅子を回して背を向ける。
 言いたいことだけ言って。
 一方的な物言いに、しかしこれ以上の会話は無意味だと判断した常守は、霜月と共に局長室を後にした。
「──納得いかない、て顔してますね」
 エレベーターに乗り込んだと同時に、険ある声を発した後輩に、常守は苦笑する。「仕事は仕事として受け取っているよ」と返したが、彼女はつっけんどんに言い放つ。
「重要なのは、彼女が規定に背いて独断行動をしたという事実です。仮にシビュラシステムについての情報が抜き取られていたとしたら、早急に手を打つ必要がある」
 霜月美佳は激情型に見えて冷静な監視官だ。感情に振り回されているように見えて、その実、頭は冴えている。成しうるものが為すべきを為す。シビュラの祝福を多分に受けている。
 対して常守は、怪訝な表情を崩さない。
「おかしい、と思うのよ」
 刑事課フロアに到着したエレベーターを降り、統合分析室へ向かいながら常守は思案する。
「国の外郭団体なんて将来有望なところに就職して、色相の濁りを心配しなくていい海外に勤務までしていたのに、わざわざ罪を犯して日本に帰ってくる理由なんてあると思う?」
 約束された将来、やりがいのある社会奉仕活動、サイマティックスキャンの影響がない海外。彼女が活動していた地域は比較的治安も安定しているため、国内への帰国を切望するほどではなかったはずだ。そもそも、帰国したいのなら正規の手順を踏めばいい。
 いったい彼女は、何を知り、何を求めているのか。
「……犯罪者の思考なんて分かりませんよ」
 深く思案していた常守の耳朶を、霜月のどこか諦念交じりの声が打つ。くだらない、と顔に書いてあるが、それ以上に。
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。考えすぎたら先輩でも呑まれますよ」
 忠告とも取れる言葉に滲むのは、彼女なりの気遣いだ。ただでさえ、潜在犯に肩入れしすぎる節がある常守の代わりに、シビュラの立ち位置を示す。まるで、深淵に飲まれかける彼女を引き上げるように。
「肝に銘じておくわ」
 心配癖のある後輩に、常守はふっと微笑む。妹をあやすような、どこか余裕のある笑みに、霜月は何か言いたげに口元をまごつかせたが、結局、鼻息荒く分析室へと足を進めていった。

     *

 高度に管理された社会において、ある意味、原始的な人の営みが残っているのかもしれない。
 廃棄区画は時折、そう評される。人間の社会活動のために最適化された都市は、いつしか、人間こそが都市に最適化するように変化した。人がより良く生き、生存するためのシステムが、いつしか人を選ぶシステムとなり、人間的な感情さえ既存システムに合致しなければ敵愾心とみなされて排斥される。しかし廃棄区画は、人を選ばない。自己の生存を自己責任と切り捨てる代わりに、此処にはまぎれもない心情の自由があった。
「あんたも物好きだね。こんな場所に居つこうとするなんざ」
 ボロ雑巾のような服を身にまとった老年の男は、目の前の女に黄ばんだ歯を見せた。
 国内最大の廃棄区画、扇島。元は企業の工業地帯だったそこは、現在、違法な増改築や旧時代に建てられたコンクリート打ちっぱなしのアパートのような建造物が所狭しと並ぶ。建築基準法の概念がまるでない、社会不適合者たちの吹き溜まりに相応しい居住区≠セ。
 捨てられた者たちが住む区画で、男は商売をしていた。違法薬物、ネット接続できないIOT非対応の日用品、生体認証付ではない車。
 シビュラ管理の社会では手に入らない代物を扱う男の店は基本的には顧客が限定されている。万が一にも公安局の捜査の手が伸びれば間違いなく良くて矯正施設行き、悪くてその場で殺処分だ。故に、基本的によそ者と商談する際には既存顧客を介さなければ辿り着けもしない、廃棄区画の中でも入り組んだ場所に店を構えているが、女は唐突に表れた。
「どこでウチのことを知った? あぁ、いや。野暮なことは聞かねえ主義なんだが、あまりオモテには出ない店だし、それにあんた」
 男は、女の頭のてっぺんから爪先までを舐めるように見つめる。
「こんな場所にいるタイプじゃねえだろ。見たところ、ドロップアウトしたわけでもなさそうなのに、こんなモノを買いたがるなんて、公安に見つかったら即、施設行きだぜ?」
 男の質問に、女は答えなかった。事情を説明するほど脇が甘くないのは自分の店に来た時点で察しはついていたものの、やはり男には解せなかった。男の目から見た女は、あまりにも澄んでいる。廃棄区画で一生を過ごそうとするような隠微さも、後ろ暗さもない。瞳は澱んでおらず、むしろ高潔ささえ感じさせた。
 それでも、此処にきたという事実だけで、彼女が、最適化された社会と隔絶した事実だけは分かって。
「まあいい。気を付けろよ、嬢ちゃん」
 長年、閉ざされた楽園(ディストピア)に住む人間としての忠告に、女は少しばかり瞬いた。能面のような顔に僅かに微笑みを浮かべたが、すぐに商品≠ニ共に薄闇が広がる街中へと姿を消した。

     *

 犯罪といえば廃棄区画。二つの単語がイコールで結ばれる程度には治安が悪い。
 とはいえ、法を順守しない者たちの巣窟だからこそ、廃棄区画には一定のルールがある。強者生存。そして金さえあれば臓器だろうが違法薬物だろうが何でも売り買いされる。それこそ──お尋ね者の情報だって。
「対象は廃棄区画の東側の廃ビルに潜伏。情報によると二階フロアの角部屋に出入りしていて、仲間がいる気配はないということです」
 港湾に近い廃棄区画の一角で、常守、霜月両監視官と四人の執行官が、携帯端末に記された保護¢ホ象の女のプロフィールと現在地を再確認する。
「近くにキャリアドローンを配備したので、建物内でドミネーターは使用できますが、二百メートルほど離れるとアクセスが途切れるので注意してください」
「突入はどうしますか」
 廃ビル内の入り口は二つ。正面入り口と反対にある裏口だ。対象が潜伏するのは二階フロア角部屋。
 霜月に対し、フロアマップを表示しながら、常守は指示した。
「二班に分かれます。私と宜野座さん、六合塚さんは北裏口から建物内に侵入。霜月監視官は須郷さん、雛河君と南正面入り口から突入してください」
 階段はフロアの真ん中と、裏口側に非常用が設置されている。二手に分かれて一階の南北から侵入、階段を抑えて退路を塞げば窓から飛び降りるくらいしか出来はしないが、通りにはドローンが待ち構えており、逃げ場はない。
 作戦確認が終わり、各々が配置に着く。地上十階建てのビルは、かつては私企業が複数社入っていたとのことだが、今はがらんと寂れ、浮浪者の掃きだめとなっており、生気はない。
 情報屋によれば、対象は現在、ビル内にいる。気づかれないよう、慎重に近づくことが求められた。
 常守率いる班が一階の裏口の扉を開けたと同時に、霜月達はドローンを伴い、正面玄関の錆びた扉をゆっくりと、開ける。立て付けの悪さに、ギイィ、と金属音が響き渡った。開け放たれた扉を、ドローンが静かに潜って。
 ──刹那。突如、ビル内に警報音が鳴り響いた。
 けたたましいサイレンが鼓膜をつんざき、全員の動きが止まる。ビル内の館内放送機器から流れているのか、ビル全体を爆音が襲っており、隣の仲間の声すら届かない。音の暴力とも言うべきか。脳髄が揺さぶられ、正常な思考を犯すような爆音に、しかし「状況確認!」と叫ぶ霜月の声を常守の耳はかすかに拾った。
 条件反射のように、すぐさま裏口から続く非常階段を駆け上がる。対象に先手を取られたのは明白。けれど、退路は断っている。
 二階部分の扉を蹴り開けると──
「止まりなさい!」
 視線の先にいたのは、先ほどまで携帯端末上で見ていた、女の顔だった。
 叫んだ常守に、彼女は一瞥をくれただけでフロア真ん中の階段を駆け上がった。迷いなく上階に向かった彼女の後を常守が追う。
「常守! むやみに突っ込むな!」
「大丈夫です! 殺すつもりなら初手でやっています!」
 何が待ち受けているか分からない、と言外に伝える宜野座に、常守は言下に答える。
 けたたましいサイレン音はおそらく、ドローンに反応した。生体反応ならば、ビル内に出入りする他の居住者などが無差別に対象になってしまう。官公庁支給のドローンで廃棄区画に用があるのは公安支給の物だけだ。
 公安局の捜査が入る可能性を考慮しつつ、しかし問答無用で殺すような罠を仕掛けもしなかった。逃亡するための時間稼ぎをするだけ、と考えるのが妥当だろう。
 ただ、階段を抑えているため、上階に行ったところで袋の鼠だ。
 四階、五階、六階と──彼女は一気に駆け上がり、ついに十階に到達した。その間に、けたたましいサイレン音は止んだ。
 電力供給は既になく、死に体となったエレベーターを横目に、常守は十階の南側、つまりは廊下の突き当たりのどん詰まりに佇む彼女を見据える。怯える様子も、慌てる様子もなく、彼女もまた常守をじっと見つめ返す。じりじりと距離を詰めても、表情は一つとして変わらなかった。
 逃げる素振りもなく、抵抗する意思も感じられない。
 けれど、手を上げて投降するような仕草もまた、ない。ただじっと、まるで状況を分析するような眼差しに、常守は警戒の糸を緩めずにゆっくりと近づいた。手にした銃を握り直し、その切先を、向ける。携帯型心理診断の精神構造解析により、犯罪係数が一〇〇以上となれば、ドミネーターは自動的に形状が変わる。無機質な指向音声の指示に従い、あとは引き金を引く作業だ。
「もう逃げられない。抵抗せずに大人しく──」
 しろ、と。紡ぎかけた口元は、しかしその先を継ぐことなく、常守の口は半開きになった。「……常守?」と、怪訝な声を出した宜野座もまた、異常に気づく。
 それが変化していない。
 目を瞠った常守に、宜野座もまたすぐに銃先を彼女に向ける。すぐに、網膜に演算処理される対象の犯罪係数が表示された。その数値に、息を呑む。
「……六五、だと」
 執行対象ではありません、トリガーをロックします。
 数値のみを基準とする機械の設定通り、ドミネーターは起動を取りやめた。後方の六合塚のそれも同じように、形状が通常時に移行する。
 ただのくず鉄になってしまったドミネーターを、しかし下ろすこともできずに立ち尽くす三人を前に、彼女は硬質な表情を崩さない。怜悧な瞳が、彼らを見定めるような眼差しが向けられる。
 なぜ、犯罪係数がここまで低いのか。免罪体質者という可能性が、常守の頭を過ぎる。数値は、統合分析室で後方支援に当たっている唐之杜にも届いており、動揺が無線越しに伝わった。
 目の前にいる人間は、シビュラシステムが犯罪者と見做していない。
「何しているんですか! 先輩!」
 硬直してしまったその場の状況を、霜月の声が切り裂いた。
 どん詰まりで睨み合っていた四人の元に、霜月は須郷、雛河を引き連れて合流する。犯罪係数の数値は伝わっていたのか、ドミネーターを彼女に向けることはしなかったが、警戒するように睨めつけた。
「貴女には重大な嫌疑がかかっています。公安局まで任意同行を願えますか」
 問いかける口調だが、声音は半ば強制的だ。任意同行≠ニは都合の良い言葉で、公安局のそれは実態とかけ離れている。任意が通らなければ、旧時代の刑法、公務執行妨害を適用する場合もあるからだ。
 黙する彼女に、緩慢に霜月が彼女に近づく。逃げ場のないどん詰まり。猟犬として犯罪者の確保に長けた執行官が複数名。逃げる算段を付けようもない状況に、彼女はゆったりと、腰に手をやって。
 次の瞬間、六人の目の前に、カラン、と何か≠ェ落ちた。
 筒状のそれは、銃火器が旧時代の遺物となった現代では見慣れない物で。
「──皆さん伏せて!」
 たった一人、前職の経験から反応できた彼以外の人間は、突如、目の前を覆った閃光と爆音に、卒倒した。
 ──閃光手榴弾。旧時代に、屋内制圧用に開発された非殺兵器。別名、スタングレネード。スチール製のアルミニウムケースの中にあるマグネシウムを主成分とする炸薬が、亜音速の爆燃として燃え、それに伴い一八〇デシベルの爆音と強烈な閃光を放ち、半径一五メートルの生き物の聴覚と視覚を一時的に奪う、制圧戦の常套兵器。
 現代のそれは公安局刑事課にも配備されている。だが、形状は旧時代のそれとは大きく異なるため、実物を目の当たりにしたことがある彼──須郷徹平だけが、投げられたそれに咄嗟に耳を塞ぎ、かがみ込んだ。
 視覚、聴覚を奪われ、三半規管が麻痺した一係の間を、颯爽と彼女が駆けていく。まるで慣れたような動きを、須郷は揺れる視界の端で捉えた。咄嗟に反応できたとはいえ、眩い閃光の影響で体は思うように動かない。
「っ、クソ!」
 それでも、今動ける人員は自分だけだと、須郷はその背を追いかけた。

     *

 違法な増改築がそこら中に見受けられ、繁華街らしき区画には廃棄ダクトが無数に伸びる。旧時代の送電線が張り巡らされ、表向きは無人となっている区画を光で彩っていた。といっても、都市整備され、ホロコスで装飾された東京中心部とは違い、光の色合いは非常に目に毒々しい。
 その、表の世界から取り残された吹き溜まりのような、人と見做されない者達が住むディストピアのような街中で、須郷は彼女──千崎千歳を追っていた。
 執行官には監視官が着くきまりだが、あいにくと一刻を争う事態だった。見失えば、通信基地がない広大な廃棄区画でまた探さなければならなくなる。
 置き去りにした歳下の上司たちに心中で合掌し、須郷は彼女の背を捉え、ひたすら足を動かした。国防軍で鍛え上げた体は伊達ではない。日々、トレーニングを欠かさない須郷にとって、元団体職員のしかも女性を捕まえるなど造作もない。海外で活動しているとはいえ彼らは文民。敵を制圧する術を知らない相手に、軍人が遅れを取るなど万が一にもあり得ない。
 須郷のその思考は正しかった。そもそも、シビュラ社会において、軍経験がある相手とやり合える人間は存在しない。そんな適性がある時点で、シビュラの恩恵から著しく外れてしまう。潜在犯ならまだしも。
 ──おかしい。
 しかし、視界の先に彼女を捉えながら、須郷の中に疑念が生まれた。なぜ、どうして。
 
 どうして、前を走る彼女のスピードに、衰える気配が見られないのか。
 
 先ほどはビル十階まで駆け上がり、さらに三階まで駆け降りたかと思えば、角部屋の出窓から隣のビルの非常階段に乗り移り、公安ドローンの配備場所を避け、ノンストップで地下深部を走り抜けている。一介の団体職員の体力ではない。
 まるで、獲物を狩る猟犬の動き。
 或いは、定められた任務(タスク)を忠実にこなす軍人のそれ。
 目の前の彼女は、ただの文民ではない。その結論に至り、脅威判定を数段上げた直後。
 そこら中に排気ダクトが入り組んでいた地下深部にぽっかりと現れた空間で、突如、彼女は急停止した。背を向けていた彼女が須郷を見据える。息一つ乱れていない様子を見るに、須郷は自分の判定が間違いではないと再認識した。
「貴女は何者ですか。ただの団体職員というには、無理がある動きだ」
 かと言って、ドミネーターは彼女を脅威と見做していない。できるのは、あくまで任意同行という名の公務執行妨害か。監視官の彼女らにやらせるより、自分がやった方が色相の心配もない≠セろう。
 ジリジリと、間合いを詰める。須郷を見据える彼女の佇まいは、常人のそれのようで隙がなかった。突っ込めば最後、相手の術中にはまりそうな危うさがある。
 緩慢に、しかし先手を取られない構えで須郷が間合まで入った刹那、彼女の左脚が蹴り上げられた。金的を狙った動きに、すかさず須郷は右脚に軸を置き、蹴りをいなして彼女のバランスを崩そうとしたが、彼女の腕を掴んだ手はすぐさま、引き剥がされる。関節の動きを理解し、どのように腕を曲げれば、脚を動かせば相手の拘束を解けるかを熟知した動きだ。
 足技も交えながら、彼女は須郷の急所を狙い続けた。といっても、相手を殺そうとするものではない。相手を戦闘不能に陥らせる類の攻撃。反撃能力を奪うだけのそれは、逆に彼女の動きを予測しやすくした。これが銃器やナイフを所持した相手なら、攻撃のバリエーションは多岐に渡る。
 しかし、それは彼女も同じなのか。敵の確保を目的とした須郷の動きは悉くいなされた。互いが互いの動きを理解し、対処を熟知≠オている現実に、須郷は自分の中の疑念に確信≠持った。
「貴女はっ、」
 しかし、それを口にする直前、須郷の体に衝撃が走った。
 全身を貫いた激痛に次いで、末端までの神経が麻痺し、地に伏せる。脳の電気信号を拒否するように、重くなった身体は言うことを聞かない。
 かろうじて視線だけを動かせば、須郷を見下ろす彼女の手の中で、携帯型スタンガンの電極部が高電圧による光を放っていた。漆黒のフォルムに、須郷は目を瞠る。
 ──やはり、同じか。
 確信が重なっていく。
 筋肉が収縮し、相手を確実に行動不能に追い込む威力を持つスタンガンをなぜ彼女が所持しているのか。廃棄区画で購入したのかと推測したが、彼女の手にあるそれに、須郷は見覚え≠ェあった。
 見上げる須郷の前で、彼女はじっと彼を見つめた。立ち上がることができないと理解しているのだろう。構えるそぶりも見せず見下ろす彼女は、須郷の瞳を見据える。何も発さず、ただ見定められるような目に須郷もまた、負けじと視線を合わせたが。
 
「須郷徹平大尉」
 
 ──思わぬ言葉に、息を呑んだ。
 変わらぬ能面で、彼女は、須郷の名を呼んだ。
 なぜ、どうして。たとえ彼女がそうであっても、自分と彼女に面識など。
 錯綜する思考は無意味だと言わんばかりに、彼女は、くるりと彼に背を向ける。「待てっ!」と、動かない体をなんとかよじり、須郷はその背を睨め付けた。
 いったい何を知っているのか、何故このようなことをしたのか。詰問できる状況ではないが、自分の中の刑事としての矜持が彼女への問いに滲む。
「貴女はっ、なぜこんなことをしたんだ!」
 図らずも語気が強まった。答えるわけないと分かりつつ、けれど問わずにはいられない。己の中に濁流のように押し寄せた疑念を晴らしたくて、見つめた先。
 彼女が、振り向いた。

「フットスタンプは終わっていない」

 凛と、告げたその声音は、ひどく硬質だった。硬く、感情が伴っていない声と、その単語に、須郷は目を見開く。更なる疑念の濁流が押し寄せ、脳の処理速度は追いつかない。
 フリーズした須郷を置いていくように、彼女は背を向ける。静止を呼びかけることもできず、須郷はただ、その背を呆然と見つめることしかできなかった。

     *

 公安局ビル八十八階の局長室で、常守は、憤懣を湛えた瞳を禾生に向けていた。体の内側から暴発しそうな怒りを抑え込むように口を真一文字に結んでいたが、涼しげに報告書に目を通す禾生に、吐き捨てるように言った。
「彼女の色相はクリアだった」
「だろうな」
 さも当然と言わんばかりの態度は、常守の怒りのメーターを更に振れさせた。 
「シビュラは彼女を犯罪者と認めていない。逮捕は不当よ」
「任意同行を求めたのだろう? それが不可能なら公務執行妨害を取るつもりもあったろうに」
 禾生の推測は正しい。確かに、ドミネーターで計測が不可能と理解して、すぐに霜月は任意同行を求めた。拒否されれば、適当に公務執行妨害を取ることもできなくはない。
 ただ、それを目の前の機械が宣うことが癪に触って。
「今更、刑法に頼るというの。社会そのものになっている、貴方が」
 自らを社会の指標としておきながら、旧時代の遺物を持ち出すなど虫が良すぎるだろう。
 鼻で嗤った常守に禾生は無言を返す。肯定とも否定とも取れない。ただ事実を呑み込むような沈黙に、常守は核心を突いた。
「納得いく説明をしなさい。彼女が、元国防軍人ということと関係があるのかしら」
 既知の事実として突き付ければ、禾生は「……須郷徹平か」と漏らす。
 千崎千歳を追跡していた須郷のデバイス情報を頼りに現場に急行した常守を待っていたのは、床に倒れた彼だった。何事かと駆けつけ、外傷がないか確認しようとした矢先に報告された事実に、常守は疑念を確信に変える。
 軍用のスタングレネードだけではなく、スタンガンまで所持していた。極め付けは、元軍人の須郷から逃げ果せる体力と、国防軍の教練場で仕込まれる徒手格闘術。ただの団体職員の経歴では会得し得ない技術だ。
 外務省の外郭団体所属の元国防軍人。更新されたプロフィールをしかし、目の前の機械が知らないわけがない。
 引く気配のない彼女に、禾生はデスクの端末を操作した。
「国防軍情報部の海外派遣部隊のことは知っているな」
 常守の端末に情報が表示される。目で概要を追いながら、彼女は頷いた。
「シビュラシステムの海外運用の適性を見定めるために、国防軍が現地に派遣している情報収集部隊のことね」
「ああ……表向きは、な」
 禾生の声が一段低くなる。
「彼らの役目は、現地のシビュラ適性を見定めることのほかにもう一つ。日本政府が支援する現地政権内の内通者の密告、および、現地の反政府勢力の制圧地域でのスパイ行為だ。彼らの情報により、両国政府の作戦が決まる」
 くらりと、眩暈がした。
 シビュラシステムの輸出に必要なのは、現地における統治機関との連携、適用範囲の物理的線引きのほか、その国の国民の成熟度の調査だ。本来、昨日まで銃とナイフを突きつけ合い、他人を疑う思考が一般的な国民がシステムに馴染むためには膨大な時間が必要だが、シャンバラフロートのように一定の縛りを持たせつつ、潜在犯に自由を認めるやり方も、人道的賛否はあれ移行スキームとしては実用的ではある。
 国防軍情報部海外派遣部隊は、統治機関の統制度合いや適用範囲の妥当性、そして何より、国民の適性について適宜、レポートを上げる──それが、常守の認識だった。
 頭を抱えそうになった彼女に、禾生は「シビュラシステムを現地適用させるための汚れ役といったところだ」と、こともなげに口の端を上げた。涼しげな表情に、常守は声を絞り出す。
「他国への内政干渉もいいところよ。許されるはずがない」
 東南アジア連合(SEA AUn)に対し、合法の範囲内とはいえ一歩間違えれば国際問題に発展しかねない捜査をした自覚はある。蓋を開けてみれば、それすら神の手の内だったわけだが、まさか自分達より以前から経験≠ェあったとは予想していなかった。
 睨め付けた常守に、しかし禾生は肩を竦めてみせる。まるで、人間のように。
「だが必要な措置だ。我が国とて半世紀かけてシステムを社会に馴染ませた。現在進行形で内紛が多発している地域に適用するのなら、社会通念を根本から変える必要がある」
「邪魔な思想を持つ者はいらないと」
「事実、そのような者はシビュラ社会において排斥される対象だ」
 淡々と事実のみを述べる禾生は、正しい。故に常守は歯噛みする。
 シビュラ社会は畢竟、独裁政治に等しい。全知全能の神への全幅の信頼で成り立ち、そこに疑義を挟んだ瞬間、神は祝福を裁きに変える。だからこそ、揺り籠から墓場までシビュラシステムは信頼され続ける必要があるし、人々もまた努めて$M頼する義務≠ェ生じる。裁きを回避するために、不都合な事実や矮小化された現実を受け入れる。
「国防軍の特殊部隊が動いている。奴らより先に彼女を見つけだして保護しろ」
「……汚れ仕事の内容を知る者を生かすの?」
「初めに言っただろう、外務省からの依頼だと。あちらもよほど人手不足のようだ。それに、国防省に灸を据える良い機会になるかもしれないしな」
 シビュラシステムを管轄する厚生省の一人勝ち状態となっている省庁間の利権争い(パワーゲーム)のことを指しているのか。恩を売り、弱みを握るやり方は機械というより、もはや人間のそれだろうと言えば、目の前のシステムはどう反応するのか。
 詮無い考えに、常守は首を振った。重要なのは、千崎千歳は、違法入国してまで何かを為そうとしている事実。その理由は、間違いなく彼女が海外に派遣されていた時期に生まれた。シビュラの目がない、外の世界の中で。
 外地にいる間、神の祝福を享受しなかった彼女はいったい何を目にしたのか。
 そして同時に、何故、内地に戻り、シビュラの恩恵≠受けることができたのか。
 相対した時に見た、彼女の無機質な感情のない瞳と、それでいて他者を無闇に傷つけない血の通った行動を思い起こし、常守は局長室を後にした。





トップページへ  リンク文字