8:追憶

D機関の選抜試験の前のことだ、千歳は結城中佐からこれから選抜する人間についてのことを聞かされていた。

「お前とは正反対の人間たちだ」

突貫工事で作られた執務室で結城中佐は千歳にそう言った。その言葉の意味を理解できないほど千歳は馬鹿ではなかった。

(孤独で、けれど強い人達)

人との関係に縛られず、ただひたすら己の限界を突破し続け自分こそはと邁進する人間。孤独を愛し、自分を信じ、全てを操る精神力を持つ者達。

「それは安心しました」

スパイとなる人間に、余計な感情は必要ない。それは枷となり己の身を蝕む。
どれだけ能力が優れていようと、そこを切り捨てられなければスパイとしては価値がない。
そうしなければ、待っているのは死だ。
死を避けたいのなら、全てを切り捨てる覚悟がいる。

そしてそれは、千歳が結城中佐のもとでスパイになれなかった、理由だった。

能力という意味なら他と遜色はない。結城中佐のもとでありとあらゆる訓練を積んできた。それこそ、幼少期から、だ。

(それすらなかったら私はこの人の隣にはいられない)

彼女にとって切り捨てられ無い存在、それは皮肉にも、彼女を育て上げた結城中佐そのものだった。そして、結城中佐自身もそれは十分、分かっていたことだった。

そんな自分と反対の人間ならきっと彼の望む人間となる。千歳は心の底から安堵した。
そんな千歳を一瞥した後、結城中佐は執務室の椅子から立ち上がると、日が差す窓際へと足を進めた。光が彼を照らし少しばかりの眩しさに千歳は眼を細める。

「スパイは個性を殺す。だが、見誤るな」

ジロリと千歳を睨みつけ、結城中佐は千歳そう言い放ち、続けた。

「お前が奴らの世話をしろ」

ーーーーーーーーー

選抜試験が終わり、D機関第1期生として選ばれた精鋭達を千歳は身辺の世話をしながら観察した。あらゆる講義、実習を易々とこなしていき、時にその慢心を砕かれつつ彼らは成長していった。
結城中佐の言った通り恐ろしいまでの自負心と、それに見合う労力を惜しまない姿勢は感服するものがあった。
彼らは全員が、同じ課題を平然とクリアしていった。一度見れば忘れない、一度されれば二度目は必要ない。

(流石、中佐が選んだ人達)

日々人間離れしていく彼らを見て、千歳は結城中佐の手腕に改めて感心していた。
そんな日々が続いたある日だ。


「立て」

それは、自白剤の投与の訓練の時だった。今まで易々と訓練をこなしてきた彼らが初めて壁にぶち当たった。投与からの数時間の尋問、眠ることのできないその中で深層のコードブックを漏らしてしまった。それでも、健闘した方だ。

(初めての時、私は1時間でダメだった)

それに比べたら彼らはまだ良い方だ。次にやれば完璧だろう。しかし、結城中佐は立て続けに訓練を行った。
流石に大丈夫かと、珍しく千歳は彼らの身を案じた。
立ち上がる余力もないように見える彼らを見て、ここまでじゃないかという思いがよぎった、が

(あ、)

千歳は彼らの表情を見て、息を飲んだ。

全員がまだやれるという、ギラついた目をしていた。自分が自分こそは、まだやれるそれくらいできて当たり前だ。
そしてその表情には違いがあった。笑いながら立ち上がろうとするもの、壁にぶち当たったことにより奮起するもの、単純に悔しさからの反骨心のもの。そこには、多くのスパイの、顔、があった。
結城中佐が選んだ、顔のない化物たち、ではない彼らがいた。

スパイは個性を殺す。だが見誤るな。

試験前、結城中佐に言われた言葉を千歳は思い出した。

個性を殺すスパイを、見誤るな。それは、彼ら個人を見極め決して同じものと捉えるな、という結城中佐のメッセージだった。
今まで、彼らは易々と全ての訓練をこなしてきた。全員が同じようにこなしてきた。その過程で千歳は見彼らの顔を見落としていた。
結城中佐が選んだ人間という、一種のフィルターをかけ彼ら個人を認識することを怠っていた。
ちらりと千歳は結城中佐を見る。

(中佐はきっと、私にも訓練をしてくれてる)

人を見極める。個性を潰していく中で、僅かにでも残るその痕跡を辿る。
彼らが顔を変えて全員同じになっても見分けることができなければいけない。先ほど彼らが見せた顔が、彼らなのだろう。

今一度、自白剤の訓練を受ける彼らを見て千歳は改めて彼らを見つめ直した。


ーーーーーー



あの時からだった。彼らを見つめ始めたのは。
目の前の人物に向き直る。

「私は」

真っ直ぐな眼差しを向ける佐久間に千歳は一瞬口をつぐみ、そしてまた開く。
自分にとっての彼ら。

「私にとってあの人達はあくまで同じ組織の一員にすぎません。そこに何か特別な感情があるわけではないです。正直、彼らが何を考えているのかわからないことも多くあります」

千歳のその無感動な答えに、佐久間は目を伏せ、そうか、と一言呟く。どこか残念そうなその声音に、ただ、と千歳は続けた。

「嫌いではないです。」

千歳は、彼らの顔を思い出す。

あの時見た、彼らの顔。それが、ほんとう、なのかは残念ながら自分には分からない。ただ、あの時見た顔は全員違っていて、そしてその顔に千歳は惹かれた。

人によって人は様々な態度を取る。様々な仮面をかぶる。それは、その人にとってのほんとうなのか演技なのかは当人でもよくわからないものなのだろう。
しかし、彼らは無口な個性の人間からお喋りな人間を演じる、ふざけた態度を取る人間から誠実な好青年になる。彼らは個性を演じ分け、誰にもそれを悟らせず生きていく。
そんな彼らが見せたあの顔は千歳にとっての、ほんとう、なのだ。

「嫌いではない、か。それは好きでもないってことだろう?」
「あんなに癖のある面倒臭い人達を好きになれますか?」
「はは、確かに」

そう言い合うと、佐久間は「行こうか」と歩みを始める。千歳は無言で頷くと、その後ろについた。

歩きながらふと、千歳は降り注ぐ桜の花びらを見て落ちてくる花弁を一つ手に取った。

(好きなわけじゃない、けれど)

真っ黒な孤独が待ち受ける中で、己のみを信じて進む彼らと自分は交わることがない。誰もが彼らを忘れ、彼らを知らず、そして消え、散っていく。

彼らと自分の間には壁があって、けれどあの時、自分は彼らの顔に惹かれたのだ。

ならせめて、

「見守っていきたいんです。」

何か言ったか?、と佐久間は彼女を振り返った。千歳は佐久間に微笑み、いいえ、というとそっと花弁を包み歩き出した。


ーーー

追憶


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