10:優愛

D機関における訓練は多岐にわたる。それはスパイに必要な知識であり、技術であるためどれか一つでも手を抜くということは許されない。手を抜けばそれが必要な状態に陥った時、全てを失うことになる。医術、薬学、心理学などの学問から戦闘技術や自白剤の訓練まで、スパイに必要な訓練はおよそ常人には耐えきれない訓練だ。
陸軍内に秘密裏に組織されたスパイ養成機関、D機関の第1期生となった小田切は、初めは驚愕した。
常人には耐えきれないような試験、馬鹿げた内容、こんなものをパスする人間が他にいるのかというその思いはいとも簡単に覆された。自分と同じようなバケモノが他にもいたのだ、しかも彼らは一般の大学を出ているという。
ここ数か月、彼らと接していて小田切が思ったことは、彼らは自分以上のろくでなしだということだった。何も信じず、何にも頼らず、裏切り欺き、生きることすらゲーム感覚。
自分ならこれくらいのことはできるという自負心は彼らに引けはとらない。しかし内面から見える人とは思えないその心情は小田切にとってもはや狂気だった。

(人でなし、か)

カフェの一角。小田切は新聞を読むふりをしながら協力者に視線をちらりと向ける。
訓練の一環だ。結城中佐から指定された場所に行き、誰にも気づかれることなく暗号文をもらい受ける。初歩的な訓練だ。暗号文はカフェの伝票。伝票に書かれた文字の一定の場所に特殊インクを落とせば暗号が浮かび上がる。それをコードブックに照らし合わせるだけ。
憲兵隊もよく見回りに来るそこでの訓練。しかし、小田切にとって何も難しいことはなかった。

(簡単すぎる)

そう思い、小田切は苦笑した。彼らのことをそう思う自分も、常人から見ればよっぽど人でなしだろう。

(結局俺は、どちらにもなれない半端ものだな)

協力者がグラスに息を吹きかけ拭いた。合図だ。
小田切は手早く伝票を受け取るとその場を後にした。


カフェを出れば街中は人であふれていた。足早にどこかへ行く老紳士から楽しそうに歩く男女、スーツ姿の男たち、学生も見られる。普通の人間たちは今日も自分たちの生活を送っているのだろう。

(俺には無縁だな)

半端もの、それでも自分はこちら側の人間だという自負だ。
忙しなく歩く通行人たちをしり目に歩みを進めていると、ふと見慣れた姿が小田切の視界に入ってきた。


(千歳?)


自分と年の近い、そして自分たちの世話係の女性。道の端でなにやら他の女性と話している。
手には布袋があるので買い出し帰りだろう。
一体何事だろうと興味がわいた。小田切は音もなく彼女たちに近づく。

「何をしているんだ」
「小田切さん」

振り向いた千歳は小田切を見て目を瞬かせた。
小田切は彼女を見た後、彼女が話していた女性を見る。年は同じくらいだろうか、そして女性の腕には

「この子は」
「生まれてまだ半年も経っていないそうです」

幼子がいた。しかし、すやすや眠っているわけではないようだった。
彼が来ると、幼子は目を見開きそして甲高い声で泣き始めた。

「す、すみません!またこの子」
「また?」
「デパートメントでだいぶぐずついてしまっていて、他に迷惑だからと外へ出られたみたいなんですけど一向に泣き止まれないらしくて」

お腹も減ってないみたいですし、原因がわからなくて、と難しい顔をする彼女と女性に小田切も頭をひねらせた。赤子は予測不能な行動をとる。大体は親への要望を出すためのサイン、もしくは好奇心からの行動だが、どれが何のための行動なのかは到底わからない。
尚泣き続ける子どもの声は幸いなことに喧噪の中歩く通行人の耳にはあまり入らなかったらしい。

(赤子の泣き止ませ方は習ったことがないな)

他のメンバーなら容易くこなすのだろうか、と思わず苦笑する。
そしてふと好奇心から泣き続ける赤子にそっと手を伸ばした。


「あ」


すると、意外なことに泣き続けていた赤子がその手を見つめ手を伸ばしてきたのだ。
好奇心旺盛な世界がまだ見えてない赤子にとって、大きな小田切の手が不思議に思えたのだろうか。
小田切は人差し指を赤子へ差し出した。赤子はその指をしっかりと握ると

「まぁ、この子」
「笑った…」

何がそんなに楽しいのか、泣きから一転笑い始めた。きゃっきゃと小田切の指を掴んで精一杯腕を振る赤子に、形容しがたい感情が小田切に生まれた。

「小田切さんのことがよっぽど気に入ったんですね」

感心したように呟く彼女に思わず、それはないだろ、と小田切は間髪入れずに答えた。
尾行相手、一般人なら、手に取る様にわかる感情が、何の力も持たない赤子相手にはわからないなど、何とも滑稽だと小田切は苦笑した。

しばらくすると、赤子は疲れたのか、静かに寝息を立て初め小田切の指を離した。

「本当にありがとうございました。何かお礼を、」
「いえ、何もしていませんから」
「そういうわけには」
「奥様っ!」

女性と会話をしていると、老齢の女性が息を切らして走ってきた。なるほど、彼女はそういう家柄なのかと小田切は千歳を一瞥する。

「勝手に歩かれては旦那様に申し訳が立ちません!」
「ごめんなさいね。久しぶりのお買い物でつい」
「若様もおられるのですよ!どこの馬の骨ともわからない連中に目をつけられでもしたら…」
「大丈夫よ、この方たちが色々とお手伝いしてくださったの」

そういって女性は小田切と千歳に朗らかな笑みを向けた。

「せめてお名前だけでも教えてくださいな」
「名乗るほどの者ではありませんので」
「ですが、」

渋る女性に、千歳は、「なら、」と老齢の女性に聞こえないように何かを耳打ちした。
それを聞いた女性は目を見開くと、おかしそうに笑った。

「変なお名前ね」

女性の言葉に千歳は薄く笑うと、ではこれで、と踵を返す。後を追うように小田切も帰路へとついた。

数分歩いたところで、小田切は彼女に尋ねた。

「で、あれは何なんだ」

小田切の質問に彼女は淡々と答える。

「一度資料で見ただけですけれど、やんごとなきお方の奥様ですよ。」

やはりか、と小田切は笑った。
どうせ耳打ちしたのは一般にはD機関とわからない、けれど知る人が聞けばわかる、そんな名前だろう。印象工作の一環だ。

「狙ってたのか?」
「まさか。本当にたまたまです。それに、小田切さんに来てもらってなかったら正直どうしようもなかったですから」
「俺が来なかったら?」

眉をひそめる小田切に千歳はおかしそうに笑った。

「赤子のあやしかたなんて、私は真似できません」

小田切は、たまたまだ、とそっぽ向く。別に狙ってできたわけじゃない。
そんな小田切に千歳は重ねていった。

「小田切さんは、優しいですから」

思わぬ言葉に小田切は訝しげな表情を彼女に向けた。
優しい?ここに身を置く自分が?

「それは皮肉か?」

全てを切り捨てる覚悟がない、弱い自分への嘲りのようで。
彼女がそんなつもりで言ってないことが分かっていても思わず吐き捨てるような言葉が出た。
そんな小田切を見て千歳は目を伏せる。

「赤子というのはまっさらだからこそ優しい人間が分かるらしいんです。私は、手を伸ばしても拒否されてしまいましたから」
「優しい人間がいるわけないだろ」

あんな場所に、と小田切は自嘲した。しかし彼女は首を振る。


「私は、小田切さんの優しいところ嫌いじゃないです」


小田切は、目を見張った。

彼女は自分をまっすぐ見据えてそういった後、優しい目をして、心の底からそう思っているように彼に向かって笑った。


(こんな顔できるんだな)


じっと小田切が見つめていると、千歳は不思議そうに彼を見つめてきた。

「小田切さん?
「……何でもない」
「?、そうですか」

そうして二人で前を見て、互いに言葉を交わさず帰路に就く。


(悪くはない、な)


半端ものの自分に対する優しいという言葉。
小田切はその言葉に対して、悪い気はしていない自分を感じた。


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優愛


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