13:独白
大東亜文化協曾と書かれた建物の小さな一室。ベッドとタンスとデスク、それに窓際に一輪の小さな花。千歳に充てがわれた自室だ。
深夜。日付も変わり夜の静けさが街を包んでいる。ベッドの上に仰向けになり天井を見つめる千歳はふと福本との出来事を思い出していた。
(変わった…)
福本は、自分が変わったと言った。様々な顔をするようになったと。
自分の心境の変化が、顔に出ているのかと千歳は考え、改めて自分と彼らの関係に思いを巡らせた。
彼らは額縁の中の絵だ。そして自分は鑑賞者。決して絵に手を加えることもできないし、自分が絵になることもできない、外側の存在。
それが彼女と彼らの距離だ。互いが近づくことは決してできない。
触れることも、手を加えることもできない、繊細で美しいもの。
そんな彼らは仮面を被り、偽りの心を見せ、本当のことなんてわからない。何せ彼らは、愛情や友情、およそ人として感じる感覚を取るに足らないものと切り捨てるのだから、本心なんて分かるわけがない。
けれどあの日、千歳は彼らの中に見つけた。
彼らと接する中で見えてくる別の顔。嘘か本当か、演技か本心か。自分だけを信じ、圧倒的な自負心を持つ彼らが時折見せる、スパイであると同時に人間的な、そんな顔。
(嘘でもほんとでもいい)
初めて彼らに興味が湧いた。
額縁の中の絵は触れることは叶わない。一方通行のそれでもと。
ゴロンと横を向き千歳は窓の外を見た。カーテンレース越しに月がぼんやりと見える。
(…少し外の空気を吸おう)
無意味に思考が巡り、眠気が襲ってきてくれない。
眠ることを諦め、ある場所へと千歳は向かった。足音を殺して階段を上がっていく。見えてきたのは一つの部屋。
静かに開けて中に入るそこは使われていない空き部屋だ。薄いカーテンと数台の椅子があるだけの質素な部屋。月明かりが入り、部屋の中は存外明るかった。
千歳は窓に近づき開放した。夜の肌寒い風が 入り思わず身震いするが、頭を冷やすにはこのくらいがちょうど良い。そのまま椅子へと腰掛けた。
(中佐…)
ふと、千歳は自分の上司、結城中佐の顔を思い浮かべた。彼らの世話を任せた張本人。
結城中佐が自分のこの心境の変化を読み取れないはずがない。彼の役に立ちたいという思いに囚われてしまう自分が、彼らに関心を向ければどうなるかぐらい想像はついたはずだ。
彼らと自分は同じことができても、
(同じにはなれない)
千歳は目を閉じる。
彼らと同じ場所に立てれば、結城中佐の望む化け物になれたんだろうか。
そう考える自分に、千歳は自嘲した。
(また、囚われてる)
結城中佐の役に立ちたいと思う限り彼の役には立てない、圧倒的な自負心がなければ、彼を超える気概がなければ。
(いけないと分かっていても、変えられない)
きっと、ここを曲げれば自分はーー
部屋の扉が開いたのは千歳がそんなことを考えていた時だった。
「貴女でしたか」
「……三好さん?」
現れたのは三好だ。
何故こんなところへ、と不思議そうな表情をする千歳に、訓練帰りなことを彼は告げる。
「帰ってみたら窓が開いていたので、どうしたのかと」
「それはすみません。ちなみに、訓練とは」
「要人の尾行訓練ですよ。尋問訓練の直後に来るんですから」
参りますよ、三好は肩をすくめるが難なくこなしたことは千歳でも容易に想像がつく。相変わらずの腕前だと感心した。
「千歳さんは何故ここへ?」
逆にそう問われ、千歳は困ったように眉尻を下げ、少し考え事を、と言い目を反らす。関係のないことだ、彼には。夜通しの訓練で多少は疲れている彼をあまり止めておくのも悪い。
お気になさらず、と千歳が彼を見上げそう告げようとすると何を思ったのか三好は空いている椅子を彼女の隣に置くと自身もそこに腰掛けた。
流れるような動作に思わず目を瞬かせる。
「あの、」
「今日の月は綺麗ですので、しばらく見ていきます」
三好は気取った声でそういうと千歳に目配せする。
「お気に入りの佐久間さんじゃなくて申し訳ないですけどね」
冗談交じりのその声音に千歳から思わず笑みがこぼれた。そうして月を見上げた三好の横顔を千歳は見る。
思えば、こういう風に彼と過ごすことは初めてだ。月明かりに照らされる中で端正なその顔がよく見える。
(きれい)
女装の訓練でも好成績だった記憶が蘇る。男にしては赤すぎる唇は紅を塗ったら大層映えた。そして美しかった。
甘利とは違った魅力だと千歳は感じた。多くの女性、いや男性もかもしれない、彼の魅力に惹かれて溺れたのだろう。
「まるで逢い引きみたいですね」
月から視線を逸らした三好が千歳へと顔を向けて微笑した。弧を描いた口元は男と思えないほど妖艶で思わず息を飲む。改めて向き合うと、その顔立ちはやはり何度見ても美しい。
「ご冗談を」
そう言って視線をそらせば、それは残念、と三好は目を伏せる。
月明かりに照らされた伏目がちな彼の横顔を見つめて千歳は徐ろに呟いた。
「本当に綺麗ですね三好さんは」
何気なく出た言葉だった。千歳が呟いた言葉に三好はきょとんとする。そして、クスクスと笑いだした。
どうしたのだろうと首をかしげる千歳に、いやすみません、と三好が返す。
「あまりにも素直な感想だったので」
「?」
「貴女が僕にそんな顔を見せてくれるなんて思ってもみなかったので」
三好のその言葉に千歳は自分は今どんな表情をしていたろうかと頭をひねった。
「以前の貴女は、人形のようでしたから」
「人形、ですか」
「えぇ。意思のない人形そのものでした」
笑みを浮かべつつも随分な物言いだと千歳は内心苦笑した。
けれど、彼の言葉は的を射ていると感じた。
初めに彼らと会った頃の千歳は彼らの中にある表情、感情、それらに一切興味すら持っていない傍観者だった。ようやく最近だ、興味関心がわき真正面から向き合うようになったのは。
「最近の貴女は、随分と柔らかくなった」
笑う三好に、千歳は、そうですか、と言い月へと視線を向ける。
福本にも三好にも、もしかするとこの変化に気づいた神永はだからあんなことをしてきたのかと、千歳は思い至った。
(また、囚われるのかな)
「そう見えてしまうんですね」
ぽつりと千歳はひとりごちた。
「……本当に変わりましたね」
唐突に三好の声音が変わった。先ほどまでの気取った物言いではない。どこか呆れたようなもの。
物思いにふけったいた千歳を尻目に三好は立ち上がると窓の前まで足を進めた。
何なのだろうと、千歳は三好を見る。月明かりに照らされた彼はやはりひどく美しい。
「三好さん」
「何にも囚われませんよ、僕らは」
三好がそう呟いた。一言。しかしその一言が、千歳にはとても重く感じられた。
自分たちは囚われない、お前は?
目を奪われていた三好から千歳は視線を落とす。
『囚われるな』
結城中佐の言葉が頭に反芻された。囚われるな、自分だけを信じろ、全てを切り捨てろ。
そうあろうとしてきたからこそ、あの過酷な訓練も試験も女伊達らに潜り抜けてきた自負は千歳にもあった。そしてそうあろうとしていた時は少なくとも彼らに囚われてはいなかった。
ちらりと千歳が三好を見れば、いつも気取った笑みを浮かべる顔に、至極真面目そうな表情を見ることができた。
珍しい顔だと感じる一方、何故彼がそんな顔をするのかは分からなかった。
静かに千歳も立ち上がり、彼の隣まで足を運ぶ。
「それは忠告ですか」
彼を見上げれば、やはりいつもの気取った表情ではない。
千歳の問いに三好は眉をひそめると、一つ息を吐いた。
「そんな優しいものではありませんよ」
「なら、先ほどまでみたいに演じていれば済むことでしょう」
「それは」
「三好さんらしくない」
今更そんな事を言うな、と今度は逆に呆れたように千歳が言えば、唐突に三好は彼女を引き寄せ窓横の壁に押し付けた。
甘利さんの時もこんなことされたな、と悠長に思う彼女の顔の横に、三好が手をつく。
「本当に、僕には手厳しいですね千歳さんは」
「……三好さん?」
三好のその顔に千歳は違和感を感じた。戸惑い、呆れ、疑問。何にせよ、いつもの彼からは見られない表情だ。
どうしたんだと、訝しげな目を向ける千歳の頬に三好はするりと手を添えた。
「囚われない相手を貴女は何故、」
そこまで言って三好は言葉を止める。自分の心を探るように頬に添えられた手が動かされる。
そう言う彼の瞳を千歳はじっと見つめた。
(そういうことか)
千歳は納得する。何故の先が分からないわけではない。
囚われない相手を、虚構の存在を思うことに何に意味がある。
千歳は目を伏せた。
自分の変化、それを分かりつつも彼らは変わらないと思っていた。取るに足らない自分の自己満足など気にもしないと。それすら分かりながら演じ続けられる者達だ。だから、
(こんな顔、させたいわけじゃない)
彼らは何にも囚われてはいけない、囚われない。けれど、自分は違う。
千歳は頬に添えられていた彼の手をゆっくり払うと、彼に向かって苦笑した。
「最初はきっと羨ましかったんでしょうね」
「……貴女は」
「けれど、私は最初からあの人に囚われてましたから」
思い浮かべるのは、常に無表情でそれでいて様々な顔を使い分ける魔王の姿。
そして彼を超えようとする彼らの姿。
彼に囚われている自分と、囚われない彼ら。
千歳は三好を見据えた。
囚われるな、そう言われたばかりだ。けれどやはり、自分は囚われているのだろうと、気づいた。
(あの時からそうだったのかも)
しかし、そこを曲げることはできない。
自分を見つめ答えを待つ三好に、千歳は破顔して紡いだ。
「私の趣味、だとでも思っといてください」
ぽかん、という表現がぴったりなほど三好は目を丸くした。そんな彼の様子に千歳は苦笑する。
他人のくだらない感情に囚われるな。
暗に込めたメッセージだ。
三好は「何ですかそれは」と呆れた声を出しながらも笑みを浮かべた。いつもの彼の表情だ。千歳は胸を撫で下ろした。
部屋にある時計を見れば、かなりの時間が経っていた。彼は明日も講義だ、長居は不要だろう。
「帰りましょうか」と千歳は笑う三好に声をかけようとした。
「千歳さん」
「はい、!」
逆に声をかけられ千歳が彼を見上げると、先ほどのように左頬に手を添えられた。
そして流れるような動作で右頬に小さな口づけをされた。外人の挨拶のようなそれだが、日本人にとっては不慣れなものだ。
今度は千歳が目を丸くし、三好が満足そうに笑う。
「…一体なんですか」
「ご想像にお任せします」
「悪趣味ですね」
「それは失礼」
さて帰りましょう、とくるりとドアへと向き直り進む三好の後を千歳は追う。
(頬への口づけ)
どんな意味なのだろうと思案しようとした千歳は首を振った。無意味な思考だ、これ以上眠れなくなっても困る。
行きますよ、と自分を呼ぶ声に応え、千歳はその場を後にした。
ーーーーーーー
独白
トップページへ リンク文字