16:誤算

「な、なんのことですか!」

わけがわからない、と叫ぶ千歳に男は笑いながら、とぼけんなよ、と鋭い眼光を投げつけた。

「あんたがあいつらのイヌってことは調べがついてんだよ」
「何ですか、私はただここに来れば…」

口を真一文字に結び涙を目尻に貯める。
そんな千歳の様子に男は動じる様子もなくカツカツと千歳に近づいた。

「演技もお上手なことで」

ぐ、と腕を掴めば「痛いっ!離して!」と叫び腕を振り払おうとするが空いた手で頬を平手打ちにされ、床に倒れこむ。

「売女がうるせーよ」

ガンッ、と脅すように靴を床を踏み鳴らせば千歳は肩を震わせてボロボロと泣き始めた。
ガタガタと震えて男から逃げるように後ずさる。挙動不審に周りの男たちを見渡し、出口がないかを探し求めるが足がもつれてこけてしまった。擦りむいた手から血が滲みでる。

「やだ、怖い怖い怖いやだやだ帰りたいよ、兄様、兄様」

両手で顔を覆い、ひたすら泣き喚く彼女にぽつりと周りから動揺の声が漏れた。
尋常ならぬ怖がり方、あっさりとぶたれる様。どこから見ても普通の女性そのもので。

「おい、本当にこいつなのか?」

1人の動揺は、違和感を覚えていた周りに伝染する。

「何だよ、お前ら信用してないのかよ」
「だってこんな怖がり方」
「演技に決まってんだろ!このアマっ」
「いや、こないで!」
「やめろって!」

再び手を上げようとした男に叫んだ千歳を別の男が庇った。自分の後ろに千歳を回し、男と対峙する。

「女に手をあげるなよ!」
「っざけんな!テメェ」
「おい!何やってんだよ」

騒ぐ室内の様子に異変を感じて入ってきたのは、先ほど千歳を誘導した男性、そして見張り役であろう男だった。
スパイのはずの女を庇う仲間と、対立する仲間に戸惑いの表情を浮かべる。

「どういうことだよ!」
「こいつがアマに唆されてっ」
「明らかに怖がってるだろ!」
「演技に決まってるっつってんだろ!大体、テメェが言ったんじゃねぇか!」
「おいっ、それは」

千歳を庇っていた男が声を荒げる男の言葉遮る前に、男は怒気を含めて言い放った。



「軍内部のスパイ機関に女がいて、そいつか近く潜入にくるって、テメェが言ったことだろ!」



あぁ、やっぱり素人だと、千歳は確信した。ちらりと時計を見れば、ここにきてもう20分。
潮時だ、長居する理由はなかった。探していた答えは見つかった。

「やっぱり貴方だったんですね」
「え」

自分を庇っていた人物に千歳はボソリと呟いた。

「中松少将はお元気ですか」

その言葉に、彼は目を見開き彼女と距離をとった。

「君は、」

一気に部屋の空気が張り詰めた。全員が千歳を睨みつける。
しかし、男たちの表情はどこか安心感を含んでいた。
たかが、女1人。スパイといえど相手は女。しかもあんなあっさりと殴られるような。

その慢心が仇になることを千歳は嫌という程知っている。

最初に動いたのは、千歳を殴った男だった。大ぶりな拳を容赦なく放ってきた。

(遅い)

D機関のメンバーとも体術の訓練をしてきた彼女にとって素人が束でかかろうと大した問題ではない。体重移動と力の加え方の問題だ。
男の一撃を一歩でかわし、その手を掴んで勢い殺さず投げ飛ばせば、ぐぇ、と踏み潰されたカエルのような声を上げて男は倒れこんだ。

その様子を見ていたメンバーが身構えた隙を逃すわけもない。反応が遅れた2人は、1人ずつその足を蹴りで掬い床にねじ伏せ、その首筋に麻酔薬を打ち込んだ。
後方から掴みかかろうとした1人の鳩尾に拳を一発、気絶したその体を殴りかかろうとした別の1人に倒れ込ませれば体重を抱えきれずに共倒れする。気絶した男の下敷きとなった彼もまた麻酔薬の餌食となった。

「ば、化け物!」

失敬な、と小柄な男に千歳は冷ややかな視線を送れば、動くな!、と声が響いた。

ゆっくりと声のした方を見やる。

「う、撃つぞ」

その先では、最初に投げ飛ばした男が、銃を構えていた。

(入手経路。軍のもの…いや、さすがにないか)

冷静に何故素人がそんなものを持っているのか分析する千歳に彼はなお、降伏しろ!、などと叫び続けている。

そんな姿を興味なさそうに見つめていた千歳は結城中佐とのやりとりを思い出した。

『殺さなければいいんですよね』
『問題ない』

「こっちには、銃が…っ、あ」

男の声が、途切れた。同時に先ほどまで手にしていた銃がカンカンと床を転がっていった。代わりに彼の手には、小型のナイフが刺さっている。
護身用に彼女が身につけていたものだ。

「う、ぁああ!!てめぇ!!」

手をかばい喚き散らす男に、大げさな、と冷徹な目を千歳は向けた。死にはしない。ただ少しの仕返しだ。チクリと痛む頬を人撫でする。

千歳は喚く男との間を一瞬で詰めるとその脇腹に強烈な蹴りを入れた。2度目のつぶれたカエルのような声が響いた。

一連の行為を唖然とした表情でみていた小柄な男は、彼女が近づいても動くことができないように固まっていた。殴る必要もないため麻酔薬を指して大人しくさせる。
床に倒れているのは、合計6人。


「これが、貴方が招いた結果ですよ」


ふぅ、と息を吐いた千歳はこの結末を招いた張本人にそう言い放った。
彼女を庇った彼だ。
男は悲しそうに俯き、崩れおちた。


最初から、千歳の狙いは彼1人だった。

D機関の情報が漏れている。そんな情報が結城中佐のもとに入った。聞けば、お偉いさんの中でも特に偉い少将ともあろう人がペラペラと内部情報を喋っているという。
中松少将。武藤大佐と同じレベルのD機関嫌いだ。
そしてもう一つ入ってきたのは、そんな少将の失態だった。彼の息子は赤旗だと。

これはただ赤旗を制圧する任務ではなかった。

結城中佐が女の自分にこの任務を与えた理由は他でもない。炙り出しだ。
内部情報をペラペラ漏らす少将もまさか自分の息子が赤旗だとは夢にも思っていなかっただろう。近々女スパイなんぞを赤旗連中の元へやるらしい、そんな情報が彼らに伝えられるように仕組まれた計画。
軍の上層部の人間とその子息の失態。内密に済ませるために出てきたのがD機関だった。

(私は餌なんですね…)

魔王と呼ばれる結城中佐の顔を思い浮かべて思わずため息が出る。

まんまと自分たちの計画に捕まった獲物。そんな目で千歳を見ていた彼らこそが捕まえられた獲物だったのだ。
分散されてては制圧に時間がかかる。わざと捕まり集まる場所へと案内された、殴られる演技をしたのは同情を誘い、異変を感じた別部隊をおびき寄せるため。煩い男にお灸を据えたのは感情的だったと反省している。

(そろそろかな)

時計を見て千歳は頃合いだと判断する。彼の身柄さえ押さえればあとはどうでもよかった。他の学生は一般人の赤旗だ。いずれ憲兵が特高にでも引き取られるだろう。
千歳は相変わらず膝をついている彼に近づく。

「まだ貴方がこのようなことをするなら止めはしませんが、今後の身の安全は保障できません」

おいたはここまでだ、と。これは警告だと告げた。2度目になれば今度こそ軍が動かざるをえない。
ゆっくりと彼は首を上げた。

「これが最善の道だと、思ったんだっ」

悔しさに顔を歪める彼を、千歳は無表情で見つめる。例えそうでも、彼にはなんの力もない。

(不器用な人)

呆れと同情。そんな気持ちを感じつつも「そうですか」と淡々と返し、立つように促した。波多野も痺れを切らして待っていることだろう。
観念したように彼は立ち上がった。

「ひとつ、いいですか」

彼に背を向け歩き出そうとした千歳に彼は唐突に質問を投げかけた。

「なんですか?」
「父にこのことは…」

心配そうに話す彼に千歳はおし黙る。
息子の失態、おそらく中松少将は降格は免れるもののこれ以上の出世は見込めない。結城中佐の掌の上で転がされるが目に見える。
D機関の情報は軍の中でも機密の精度が高い情報だ。あの武藤大佐でさえ外部には漏らしてはいない。結城中佐が根回しをしているかもしれないが、それでもそれほどまでに諜報機関というのは機密性が高くなければその体をなさない。
それを破ったのだ。幹部クラスだろうが何らかの処罰は下される。

そんな千歳の様子に彼は俯いた。


「僕は何のために、今まで」


何のために、という彼の言葉に千歳は目を細める。

彼は彼のために、そして彼の信じる友と、この国のために道を歩んでいたのだろう、それがどんな結末を迎えるかも分からずに。
甘い考えだ、愚かとも言える。
けれど、純粋に人を思い、国を憂いたその気持ちは間違いなく彼の本物だ。

そして自分は、その彼の思いを全て無に帰した。


「私を恨みますか」


千歳は彼を振り返ると徐ろに問いかけた。
うなだれ、拳を握りしめていた彼が千歳の問いかけに反応し、彼女に視線を向ける。視線が交錯した。彼女の瞳を見つめて彼は瞳を閉じた。


「僕は、」




彼の言葉は紡がれることなく、代わりに一発の銃声が響いた。




千歳の目の前で胸に赤いシミを作っていく彼が、ゆっくりとその場に倒れた。
スローモーションのようなその出来事に千歳が反応したのはワンテンポ遅れてからだった。発砲者が持っていた銃を蹴り上げれば、彼は泣きながら叫んでいた。

「自分一人だけ助かろうって、騙してたのかよ!ちくしょう!」

彼に気をとられていて気づいていなかった己の失態に千歳は舌打ちをする。そして叫ぶ男に麻酔薬を打ち込んだ。ちくしょう、とうわ言を繰り返し、男は脱力していく。

彼を撃ったのは、千歳に銃を向け負傷した、彼の仲間のはずの男だった。


「違う」


崩れ落ちた彼がぽつりと呟く。千歳は近づくと負傷した箇所を確認した。

(これは)

傷口を見て顔をしかめる。下腹部に銃弾はめり込んでいた。太い血管が切れているのか血が止めどなく溢れている。
医学の知識がある彼女から見て、絶望的な量だった。
それでも、と彼女は行動する。

「違うんだ、僕は」
「喋らないで」

縋るような声で彼は紡ぐ。
自分一人だけ、男はそう言った。男の目に見えたのは、自分たちを置いて父親のもとに帰ろうとした、逃げようとした彼だったのだ。

「馬鹿な事を」

千歳はスカートの裾を隠し持っていたナイフで切り、傷口を塞いだが気休めにもならなかった。心臓部分が近いためポンプのように血は止まらず、千歳の衣服も赤く染められていく。
何とか止血剤となるものはないかと立ち上がろうとした千歳の腕を彼は掴んで引き留めた。

「あの銃を、下さい」
「何言って」
「あの銃は、父のなんです」

痛みに耐えながら、彼は笑みを作って彼女に言った。


「これは、僕が招いた結末だ。僕が…終わらせます」


言わんとしていることを、千歳は理解する。
立ち上がると、蹴り飛ばした銃をハンカチで掴み丁寧にそのグリップ部分をふき取る。そしてすぐに彼に近づき、その手に握らせた。
彼は満足そうに笑い、千歳を見上げ、礼を言った。

息が短くなり、顔から血の気が引いていく。もうすぐ終わりが近いことは、千歳の目から見ても明らかでどうしようもない状況に眉をひそめた。

「貴女は、」

そんな千歳の表情を見て彼が口を開いた。

「優しいんですね」

放たれた言葉に千歳は目を見開く。その言葉の意味は理解できても、到底納得できるものではなくて、思わず動揺した。

彼はそんな彼女の表情に、ひどく優しい目をして笑った。そして大きくせき込むと、多量の血液がその口からこぼれる。それは限界が近いことを表していた。

千歳は銃を持っていない方の彼の手をそっと握る。

彼はそんな千歳の顔を見て、そして安らかに言った。


「ありがとう」


スッと、全身の力が抜ける感覚が伝わる。
彼を中心におびただしい量の血がコンクリートの床に広がっていた。

琴切れた彼から手を離し、千歳はその顔を見つめる。穏やかな死に顔だ。けれど千歳にはなぜそんな顔に彼がなれたのか理解はできなかった。


(私が奪ったのに)


後悔はしていない。仕方のないことだ。
千歳は彼の死に顔を見て言い訳がましくそう思う自分に自嘲した。
彼の光を失った目をそっと閉じる。

人はこんなにも簡単に死ぬのかと、どこか他人事のように思いながら、しかし目の前の死という事実を千歳は見つめた。



「千歳」



ぼぅ、と彼を見ていた千歳は自分の名前を呼ばれて緩慢に振り返った。
視線の先には小柄な体格の彼がいた。

「波多野さん」
「時間切れだ。憲兵が来る」

短く、波多野は要件だけを伝えた。

千歳は彼に向き直る。任務は終わりだ。これ以上自分にできることは何もない。

ただ、横たわる彼から千歳は目を話すことができなかった。早く行かなければいけない。けれど、動けなかった。

「千歳」

急かすような波多野の声。
千歳は彼に背中を向けたまま返す。

「先に行ってください」
「おい」
「憲兵が来るまでには、行きますから」

床に広がる鮮血は、彼女のスカートを赤色に染めていく。白いブラウスは所々に、その頬にも彼の血は付いている。こんな姿を憲兵に見られたら間違いなく疑われてしまう。
それでも、招き入れた死に対して彼女は動くことができなかった。

胸が締め付けられる。その痛みは暴いてしまった人間の責任を追求しているようで。
ぎゅっと、千歳は拳を握りしめた。



「……馬鹿じゃねぇの」


呆れたような波多野の声が千歳の耳に届く。ふと我に帰り、彼を振り返ると目の前にその姿が来ていた。

「波多野さん」

何を、と言いかけた彼女は、波多野によって無理やり立ち上がらされた。腕を掴まれ握りしめていた拳が開かれる。

波多野はそのまま彼女の手を掴み、来た道を引き返し始めた。
突然のことにされるがままに千歳は波多野に連れて行かれる。

「波多野さんっ、待って」
「待たない」
「波多野さんっ」

声を荒げた千歳に波多野は立ち止まる。そして彼女へ向き直ると苛立ちを込めた声音で言った。

「囚われてどうなるんだよ」
「っ、」
「どうにもならないだろ」

波多野の言葉に目を見開き千歳は俯く。その言葉は最もで、しかしだからこそ重いものだった。
現実に胸を痛めようが、自分が下した選択を変えることはできないのだ。

言葉に詰まった千歳を一瞥すると波多野は再び歩き出した。
ちらりと千歳は後ろを見遣る。
そこにはもう、何の未来もない。

千歳は苦しそうに眉をひそめ、そして今度こそ振り返ることなくその場を後にした。



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誤算


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