17:混沌

大東亜文化協曾、D機関が入る建物の一角、千歳に充てがわれた部屋に波多野と千歳はいた。波多野の手にあるのは、消毒液やガーゼなど、治療用の道具だ。

「何してるんですか」
「見て分かんないのかよ」
「私怪我してません」

顔や白地のブラウス、端が割かれたスカートには鮮血が付いているが自分のものではないと、千歳は覇気のない声で呟いた。
波多野はそんな彼女にため息をつくと手に持っていた治療道具を置いて彼女の頬を乱暴に掴んだ。

「っ」
「殴られたろ」

腫れてる、と手を離した波多野を見て千歳はバツが悪そうに視線をそらし、そっと殴られた頬を摩った。

「こんなの、放っておいても治ります」

無機質な声だ。
波多野は千歳を見つめ、再びため息をついた。

(なんて顔してんだよ)

平常心、それを装おうとしていることがよく分かる。いつも通りの無表情だが、明らかにその目に宿る色は普段の冷静な彼女とは異なった。


死ぬな、生きろ、殺すな


自分達が日頃から言われているD機関の人間ならば実践できなければならないこと。それは必然的に、自分達の周りの死亡者を少なくする。しかしそれは、何も命が大切だから、という道徳的側面があるからではない。悪魔で効率の問題だ。

故に、波多野もそしてD機関のメンバーも人の死に対して耐性がない訳ではない。死を利用して任務を遂行することもある。当たり前のことだ。しかもこのご時世だ。

人の命は何よりも軽い。


任務の後、波多野は何も言わない千歳の手を引き帰路に着いた。時刻はとうに日付を回り、街は静けさに包まれていた中、千歳は波多野に手を引かれるまま、その後を着いてきただけだった。

目の前で起きた現実を彼女は真正面から受け止めてしまっていた。

発砲音がした後、波多野が現場に駆けつけると虫の息の男とその手を握る彼女の姿が見えた。後ろ姿しか見えなかったが、男が囁いた一言で彼女がどんな表情だったかは予想がついた。

『ありがとう』


(馬鹿だろ、本当に)

波多野は目の前の彼女を見て改めてそう感じた。
任務を完遂できない意味での悔しさ、自負心を傷つけられる腹立たしさではない、彼女は自分が関わり死を招いた現実をあまりにも素直に受け取りすぎている。
それはここに身を置くものとして、不要な感情だ。囚われてはいけないのだ、人の死に、想いに、感情に。

「千歳」

咎めるような、そんな声音になった波多野と視線を合わさず千歳は口を開いた。

「……血、落としてきます」

そう言うと、千歳はするりと彼の横を通り過ぎた。
話すことも聞くこともない、そう言わんばかりの行動に波多野は頭を抱える。

(何やってんだろうな、俺も)

胸にこみ上げる苛立ちに、波多野は自嘲する。そして、あの建物での彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
血に染まりながら、男を見つめていた瞳。手を引かれること拒否した苦しそうな表情。

(あんな顔、)



「随分な顔だな」

背を向けていた扉から声が聞こえ波多野はぴくりと体を震わせ振り向いた。そこにいたのは、扉によりかかり気取った表情でこちらを見る男。

「三好」
「らしくない顔してたぞ」
「余計なお世話だ」
「それもそうだな」

クスクスと笑う三好を訝しげな視線で波多野は見遣る。何しに来たと。
波多野のその視線に三好は肩をすくめた。

「そう睨むな。ただの伝達だ」
「伝達?」
「結城中佐が呼んでいる」

その言葉に波多野はハッとする。そして、あぁ、遂にと目を閉じた。
D機関での多岐にわたる訓練、医学、薬学、通信技術、プロの金庫破りの実技指導から女の口説き方。
全て完璧にやり遂げてきた、そしてその結果を示す時だ。

遠くない先に、自分はここからどこかへと行くのだろう。

波多野は眼を開くと、わかった、と短く伝えた。
しかし、相変わらず三好は扉に寄りかかったまま波多野に気取った笑みを向けていた。その表情に波多野は違和感を覚える。

「何だよ一体」

気持ち悪い、と吐き捨てる波多野に三好は口を開いた。

「さっき、千歳を見かけた」

僅かに眼を見開いた波多野に三好は気を良くしたのか口角を上げた。その表情に波多野は眉をひそめる。

「ひどい顔をしていたが、何か言ったのか」
「何でそうなるんだよ」
「てっきり傷心の彼女に追い打ちかけるようなことを言ったのかと思ってな」
「そんなことで傷つくような、普通な女じゃないだろ、あいつ」

三好の言葉に波多野は呆れたように肩を竦めた。ここにいる人間にとって、彼女はそう言う存在でなければいけない。馬鹿馬鹿しい、と。

しかし、波多野は三好の表情に驚いた。


「本当にそう思っているのか」


問いただすような視線。呆れたような声音。いつもおどけたような、気取った雰囲気をまとう三好らしからぬ態度だ。
何故そんな視線を向ける。

「どういう意味だよ」

波多野はジロリと三好を睨みつけた。
波多野のその視線に三好は臆することなく淡々と話す。

「彼女は僕たちと違う、わかっているんだろ」
「…お前」
「僕たちみたいなろくでなしとは違った生き方だ。そんなこと他の奴らも気づいているさ」

他の奴らも気づいている、三好のその言葉に波多野はハッとした。
自分と同じ奴らだ、彼女の変化に気づかないわけがなかった。
閉口する波多野に三好は続ける。

「死ぬな生きろ殺すな、囚われるな」

囚われるな。それは何者も信じず寄り掛からず己の力だけを拠り所に世界を見ること、そして生き抜くこと。
D機関では常日頃から言われている言葉だ。

「一線は保てよ」

三好はそう言うと、またいつもの笑みを貼り付けてその場を後にした。
その姿を見送り、波多野は三好の言葉を反芻する。

囚われるな。

「分かっているさ」

吐き捨てるように紡がれた言葉は誰に向けてのものでもない。
波多野はちらりと机に置いてある治療道具を一瞥すると、執務室に鎮座しているだろう魔王の元へと足を踏み出した。


ーーーーーー


大量の血の匂いを間近で嗅いだのは初めてだった。当たり前だ、人の死を間近で見ることが、戦地以外であってたまるかと。

千歳は大東亜文化協曾に設けられた簡素なシャワー室にいた。このご時世、こんなものを備え付けてくれた自分の上司に今日ほど感謝したことはない。

血に染まったブラウスとスカートは近いうちに燃やして捨てるつもりだ。肌にこびりついていた血は洗い流した。
しかし、体についた鉄の匂いは消えない。
そして、血の気がなくなっていき生が失われる感覚も、消えることなく千歳の手のひらに残っていた。

(後悔はしてない)

立てた作戦、実行したことに後悔はしていない。けれど、突きつけられた現実に立ち尽くした。
千歳は彼の手を握った方の手を、もう片方の手で包み込む。

あの時、自分は動けなかった。
招き入れた死を直視して、何もできない現実を突きつけられ、そして自分が奪った彼の大切なもの。
千歳は自分の任務を遂行し、彼は彼自身正しくあり続けた。どちらも間違ってなどいなかった。
だからこそ、心が揺れたのだ。

(囚われるな)

結城中佐の姿を思い浮かべ千歳は自分にそう言い聞かせる。浴び続けていたシャワーのノズルを回して湯を止めた。
脱衣所へと足を運び体を拭いて浴衣に袖を通す。


『貴女は、優しいんですね』


(違う)

袖を通し、腰紐を結んだところで千歳は手を止めた。彼の間際の言葉が頭の中に蘇り首を振る。

(私はそんなんじゃない)

心が動揺し、胸が痛む。人間的な感情など不要だ。
自分は結城中佐とD機関のためなら切り捨てられると、それを信じて疑ったことはない。
千歳にとっての世界はここだけだ。この世界のためならどんなことでも耐えられる欺くことも厭わない。


ただ、死は苦手だ。


毛先から落ちる雫が床に跳ねる。
迷いを掻き消すように、千歳は頭に手を当ててくしゃりと髪を掴んだ。


「何しているんですか」


唐突に呆れたような声が耳に届く。
千歳がそちらを振り向くと脱衣所の扉を開けて千歳を見る人物。

「実井さん…」
「いつまでもシャワー浴びている人がいると思えば貴女ですか」
「…すみません」

つまらなさそうにこちらを見遣る実井に、失態だと、千歳は彼から目を背ける。

千歳は実のところこの実井という人間がこのD機関の中で一番食えない男だと思っていた。
朗らかな笑み、佐久町中尉を心配する言動。しかしそれはカバーだ。千歳から見ることのできる彼は、何にも心を動かされない、冷静で、そして恐ろしく冷徹な人物だった。

故にあまりこの姿を見られるのは好ましくない。
早くここから出よう、そう思い千歳はタオルを1つ掴み頭に被せ、実井の隣をすり抜け部屋に戻ろうとした。

「…酷い顔ですね」

あと一歩で彼の隣まで来るというところで、実井は目を細め、皮肉に口を歪めて千歳にそう言った。その冷たい視線に、歪められた口元に千歳は思わず立ち止まる。
互いに視線を合わさず、実井は続けた。

「貴女の大切な人のためにしたことだ、満足でしょう?」

本当に、この人はどこまでも冷静だ。
千歳は拳を握りしめた。

想われない相手を想い、虚構の存在を拠り所にする。その虚構のために、人間的な感情に反したろくでもないことをやる。
任務のためなら感情を切り捨てる。
それができていれば、今こうして彼に嘲笑されることもなかった。

返す言葉もないのだ。事実を淡々と突きつけられる。
何も言わない千歳に実井はようやく彼女に視線を向けた。ひどく、呆れた目。

「ガッカリさせないで下さい」

吐き捨てるように言われた言葉に、千歳は奥歯を噛み締めた。彼は取り繕わずにストーレトに物を言う。

「貴女が選んだ道なら、どちらも完璧にこなしてみてくださいよ」

虚構の相手を想うことも、その為に人間的な感情を捨てて人を切り捨てることも両立してみろ。

実井の言葉に千歳は彼を見据えた。相変わらず暗く冷たい瞳だ。

「言われなくても分かっています」

彼の反応を見ずに、千歳は歩き出す。
正論は時に人を殺す。
彼の言葉は最もだ、理解も納得もできる言葉だ。
けれど、


(抗えない)


感情を知ってしまったら、もう戻ることはできない。


ーーーーーーー


混沌


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