19:清澄
天気予報では曇りのち晴れだと言っていたのに、と千歳は曇天の空を見上げて溜息をついた。晴れではなく雨という天気に気象台に文句を言いたいところだ。しかしこの時期の天気は変わりやすい。そして雨が降ると長雨にもなりやすい。
買い出しの帰り。幸いなことに傘を持ってきていたことに安堵しつつ、千歳は手に持った布袋を抱え直すと雨の中に繰り出した。跳ねる水がスカートの裾を濡らす。
ジメジメした空気は鬱々とした自身の心を体現しているようだと自嘲した。
あの時ーー
「報告しろ」
大東亜文化協曾と書かれた建物。そこにあつらえられた執務室に千歳はいた。彼女の目の前に鎮座する魔王こと、結城中佐は表情1つ変えることなく彼女を見据えた。
低く地を這う様な声が体に響く。
姿勢をただして千歳は口を開いた。
「建物内にいた赤旗のうち子息を除いた者達は憲兵のもとに。子息は死亡しました」
事実を端的に報告する。
結城中佐は彼女を一瞥すると、つまらなさそうに口を開いた。
「他殺、だったのか」
ジロリと彼女に視線を向ける。
千歳は目を伏せ、彼の間際の姿を思い返し、そして言った。
「子息は自らのけじめをつけるために、自決されました」
迷うことなく目の前の人物を見据える。
結城中佐は、ふむ、と喉を鳴らした。そして薄っすらと笑みを浮かべる。
「所持していた銃からは彼の指紋しか検出されなかったそうだ。彼は友を巻き込み、父を欺いた罪悪感からその銃を使って腹を切った、そういうことだ」
なんて下らない物語だろう、と千歳は眉をひそめた。しかし、これは千歳がお膳立てした物語だった。
これは彼の結末だ。
「中松の奴は、この件でお咎めはないそうだ」
ぴくりと千歳がその言葉に反応する。結城中佐はその様子を気に留めることなく続けた。
「飼い犬に手を噛まれたのは自分だと吹聴しているようだ、馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるようにそういう彼の言葉を、千歳は黙って聞いていた。
分かっていたことだ。彼の望む結末は、厄介な少将にとって都合が良くそして隠れ蓑になる。自分がD機関の情報を息子に話していたことなど、そんな事実は存在しなくなった。
「だが牽制にはなった」
カタンと結城中佐は立ち上がり千歳の側へ杖をつきながら近づいた。床を見つめ、彼の言葉を待つ千歳の前に立ちに結城中佐は囁いた。
「失敗だと思うか」
何の意図も含まれていない無色の声音だ。
その言葉に千歳は口を固く結んだ。あの時の1つ1つの出来事を反芻し、そして彼と視線を合わさずに口を開く。
「死なせました」
漸く吐き出した言葉に千歳は悔しさをにじませた。不要な死だった。そして自分が招いた死だった。
ふと、実井に言われた言葉を思い出す。
『どちらも完璧にこなしてみて下さいよ』
行動に対する結果について、想いの強さが比例しないのがD機関。いや、そもそもそこに何の想いもないのだろう。
感情を持てば持つほどろくでなしの行動に対するツケは心を蝕む。
(わかってる)
甘い考えは捨てないといけない。
拳を握りしめた千歳を見遣り結城中佐はひとつ息を吐くと、彼女に背を向けた。
「後悔しているのか」
相変わらず意図の読めない声音だ。そのまま彼は窓際へと足を運んだ。
結城中佐の言葉に千歳は俯いていた顔を上げる。
「していません」
だからこそ苦しいのだろうと。
窓の外を眺める結城中佐の表情がガラスに反射して伺えた。
この人のためなら後悔などしない。命令ならどこまでも落ちることは出来る。
けれど、生まれた心の変化は気持ちまで落ちることを許さなかった。
「彼はお前が殺したのか」
唐突に結城中佐が千歳に問うた。
「お前が手を下したのか」
「いえ、違います」
「それはお前が死なせたことになるのか」
「その環境を作ったのは自分です。止めることもできなかった」
「なるほど、確かに死は不要なトラブルを招く」
ジロリと結城中佐は千歳に視線を向けた。
「だが、それだけだ」
鋭い眼光に千歳は息を飲んだ。有無を言わさない瞳だ。
「お前はその死をカバーした。中松にも牽制となった。任務は失敗してはいない、それが全てだ」
「しかし」
「事象だけを受け入れろ。そこにそれ以外のものは不要だ」
千歳は口を開こうとして、しかしすぐに閉口した。
無意味な問答だ。彼の言う通りだからだ。事象だけを切り抜けば問題はなかった。
そんな千歳を確認した彼は、これ以上話すことはないと再び視線を外して外を見た。
「失礼します」
ここに居ても意味はない。
千歳は一礼するとその場を離れた。
(後悔しているわけじゃない)
ポタポタと傘の淵から絶え間なく落ちる雫を見つめて千歳眼を細めた。
この気持ちの正体も、何故それを感じているかも、そしてどうしようもないことも理解している。だからこそ、それを整理しなければ自分はここから先へ進めない。
千歳は帰路に着いていた足を伸ばしていつか佐久間と歩いた、あの桜並木へと歩みを進めた。桜は散り、緑が茂り季節の移り変わりを感じさせる。
季節は巡る。軍靴の足音は近づき不穏な空気が陸軍内にも立ち込めている。
惑い、立ち止まれば彼の隣にはいられない。
足を止め、千歳は深くその眼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、かの魔王の後ろ姿。
(中佐)
「何やってんだ、こんなとこで」
聞きなれた声に思わず目を見開く。
緩慢に声の主の方へと視線を向ければ、不思議そうな表情が伺えた。
「少し考え事です」
「お前でも悩むことあるのか」
「頭の中が女性のことでいっぱいの神永さんとは違うんです」
「お前人によってほんと辛辣になるよな…」
「人を口説くゲームを開催するような方ですから」
「……すんません」
謝る神永に、気にしてませんよ、と千歳は淡白に返す。
神永の格好を見ればいつものスーツにハット姿。
何をしに街に出てきたのだろうと見れば、視線に気づいた神永は千歳の隣に立った。
「訓練もなかったから街中散策に来てたんだよ」
「女性を引っ掛けるの間違いでは?」
「お前、本当に減らず口だよな」
苦笑する神永を見遣り千歳は、よく言う、と内心ため息をついた。
ただの散策をするほど彼らは時間を無駄にしない。女性を引っ掛けるのすらジゴロの訓練みたいなものだ。彼らの遊びは一般人から見れば訓練みたいなもの。大方、散策と言いながら隈なく街の様子を観察してるのだろう。
「で、先日酷い顔して帰ってきたことと関係があるわけ、悩み事ってのは」
何気ない雰囲気を装い核心を突いてきた神永に千歳は目を見開く。しかしすぐに視線をそらした。
「分かってるなら聞かなくてもいいでしょう」
はぐらかしたところで意味はない。
淡々と返す千歳に神永は肩をすくめた。
「可愛くないね」
「今更でしょう」
「相談なら乗るけどなー」
神永の言葉に千歳は彼を見遣る。
可愛気な姿を彼らに見せたところで何にもならない。
けれど、自分の中で消化しきれない感情の処理のし方を、何か見つけられないかと、ふと手を伸ばした。
「神永さんは、どうしようもない壁にぶつかったことはありますか」
神永が目を見開いた。自分は今どんな顔をしてるのだろう。
こんなことを聞くなんてやっぱり自分は変わってしまったのだと、千歳は自嘲した。
どうしようもない壁なんて彼らにあるわけがない。そんな人間ここにはいない。
自分だけなのだ、魔王とも彼らとも違う、異端児は。
「どうしようもない感情の割り切り方を知っていますか」
そんなものを感じたことがあるはずの無い人間に、それを聞くことはひどく滑稽だ。千歳は脳裏に浮かぶ、魔王が語りかけたような気がした。
それは、人に囚われた人間の感情だ。
(貴方は、私にどうあって欲しいんですか)
人通りの少ない並木道に雨音だけが聞こえ、沈黙が2人を支配する。
神永から視線を逸らし千歳は俯いた。無意識に傘の柄を握りしめる。
「割り切れない感情、か」
神永は自問するように呟いた。
無意味な質問だとかわされるだろうか、呆れられるだろうか。
彼らにはない感覚だろう、と千歳は目を細めた。
「ないわけじゃないさ」
思いもよらない言葉に千歳は顔を上げた。神永はそんな千歳の表情を予想していたかのように笑い、そして紡いだ。
「全く心が動かない人間なんているわけないだろ。感情があるのは当たり前だ」
当たり前のように神永は言う。しかし、千歳とってそれはとても意外だった。
三好なら嘲笑するだろう、波多野や実井もそうかもしれない。取るに足らない愚かなものと宣うのだ、彼女の敬愛する彼さえ。
目を見張る千歳に神永は苦笑した。
「ただ、その殺し方を覚えただけだ」
「殺し方…て」
問いかける千歳に神永は目を細めた。
「相手の中に自分を見つけないことだ」
わけもなくそう言ってのける神永を千歳は黙って見つめた。
きっと彼らは人の死すら利用できる。どんな状況でも、その自負心のためなら何でも利用する。
だからなのか、見誤っていたのかもしれない。千歳は息を呑んだ。
どんなものでも利用できるからといって、彼らには感情がないわけじゃない。
ただ、悲しいくらいにそれを押し殺す術を無意識に彼らは持っている。
彼らは全てを自負心の糧とする。
かの魔王を追いかけ、その背を見つめ、乗り越えようとするプライドの為に、人として抱く感情すら糧となるのだ。
怒り、悲しみ、憎しみ、悔しさ、愛しさ、凡そ人が持つ感情を人である彼らが抱かないわけがない。大なり小なり、彼らなりに抱くそれすら踏み台にするストイックさに千歳は畏怖の念を覚えた。
(囚われない、てこういうことなんだ)
絶対的なプライドだけのために生きることは、孤独の中で生きるということは、
囚われないこと。
痛みに流されれば己の首を絞める。自分を生かし、他人を生かすため。
死ぬな、生きろ、殺すな。
脳裏に浮かんだ魔王に千歳は微笑んだ。
自分の心の変化を分からない彼じゃない。生まれた感情と痛みを受け入れて、尚、ここにいることが出来るか。
千歳は思案する。
やはり自分は彼らと違う。
相手に向ける感情をコントロールできても、向けられる無垢な感情を、相手の中に見つけた自分を受け取ってしまう。
どうしようもなく、自分は甘くやはり同じにはなれない。
千歳はゆっくりと神永を見据えた。
「神永さん」
「ん?」
走馬灯のように、あの時の光景が脳裏に蘇る。招き入れた結末、生が失われていく感覚、彼の笑顔。
痛みは消えない。そしてそれを、つまらないものと割り切ることもできない。
彼の中に見た自分を否定もできない。
ただ、
「ありがとうございます」
受け止めることしかできないのだ。
千歳の表情を見た神永が息を呑むのが見えた。
「礼を言われるようなこと何もしてないけどな」
「気持ちの整理が、ついたので」
千歳の穏やかな表情に神永は、そうかい、と薄っすらと笑みを浮かべて返す。
ふと空を見上げれば、雲の隙間から日が差し込んでいた。雨が上がり、水たまりに光が反射して輝きを見せる。
「雨上がりましたね」
「だな、帰るか」
荷物を持つ、と神永は千歳の手から強引に買い物袋を奪い取った。たいした量ではなかったが、その心遣いに千歳は素直に感謝した。
先を歩く神永の背中を見て千歳は思案する。
ここで会ったのは偶然なのか、と。
三好でもなく波多野でも実井でもなく、面倒見のいい神永が来たことも、自分の迷いに答えを出すような返答が返ってきたのも、出来すぎてはいた。
千歳は頭に浮かんだ結城中佐の姿を思い浮かべて、そして首を振る。
どちらでも構わない。
自分の気持ちを体現するような晴れ間の覗く空を見上げ千歳は一歩踏み出した。
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清澄
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