20:泡沫
ここ数日の雨とは打って変わって快晴となった。雲1つない晴れ間が広がり、大東亜文化協曾から広がる景色も見違えるほど美しい。青空のもとそびえる、ここ東京の象徴とも言える立派なビルディングは自然的な空の美しさと対比してよく映えた。
三好はそんな青空の下でのんびりと過ごしていた。休日の昼下がり、屋上には洗濯物が干してあり生活感が滲み出ている。こんな場所でも、人の根源的な生活というものは変わらないのだと三好は苦笑した。
先日、波多野が結城中佐に呼ばれた。その意味は即ち、彼は近いうちにここからいなくなるということだ。
もう会わないかもしれない、会ったとしても『波多野』として会うことはないのだろう。仮面を被り、偽りの経歴を纏い、自分達は世界に紛れていく。
この景色が見納めになる日も近いかもしれない。三好は眼下に広がる街並みに少しばかりの侘しさを覚えた。
「珍しいですね、こんな所におられるなんて」
背後から聞こえた声に三好は振り向く。はためく洗濯物の合間から顔を出したのは、これを干した人物だった。
真っ白なブラウスに青みのあるスカート、纏められた髪は家事をするためだろうか、干し残しの洗濯物を抱えた彼女、千歳は三好の存在が意外だったのか目を瞬かせた。
「夜酒の時くらいしか利用されないと思っていました」
よいしょと洗い終えた洗濯物を入れた籠を置くと手際よく干し始める。こう見れば何処にでもいる女性だ。
「ここにいれば貴女に会えると思いまして」
気取った声でそういえば、そうですか、と淡白な返事が返ってきた。相変わらず、と三好は肩をすくめる。
ちらりと三好が籠を見れば、布タオルや福本のものだろうか、割烹着などが見えた。
「いつもすみませんね」
「嫌いではないですから。手間でもありませんし」
「手伝いましょうか?」
「いえ、少しだけなので」
彼女の言葉通り粗方の物は干し終えていたらしく、布タオルと割烹着を干せば終了した。
「お疲れ様です」
三好がそういえば、千歳はありがとうございますと返して、徐ろに髪留めに手をかける。パチンと音がして纏められていた髪が風になびいた。
この時期に吹く風は肌に心地良い。暑すぎず寒すぎず、穏やかな天気の日は特に気持ちの良いものだった。
両手を組んで前に出し、一仕事終えたという風に伸びをする千歳に三好は近づき、風になびく髪を梳いた。
「三好さん?」
ぽかんと目を丸くして疑問の声を上げる彼女に、三好は微笑む。
「綺麗な髪ですね」
「甘利さんにも言われたことありますけど、普通です」
「絡まっていない髪は綺麗なんですよ」
そういうものなのかと、自分の髪を梳いて確かめる千歳に三好は再び笑う。
『彼女は僕たちと違う』
数日前、波多野に放った言葉を思い出して三好は自嘲した。自分も随分と矛盾しているものだと。
目の前にいる女性は、普通であって普通ではない。境界線が曖昧で、不確かな存在だ。彼方でもなく此方でもない彼女は、自分達とも普通とも違う。
心の持ちようと能力のアンバランスさ故に先の任務以降思い詰めていた彼女だったが、どうやら乗り越えたらしい、顔つきが違う。
(諦めたわけでもない、受け入れたのか)
「綺麗な髪といえば」
自分の髪を弄っていた千歳が唐突に、三好を見た。彼女を見つめていた三好は視線がかち合い、お互いがまっすぐ見つめ合う。
「三好さんの髪も綺麗ですよね。細くて柔らかそう」
まるで女性みたいです、と薄く笑みを見せた彼女に三好も微笑した。
穏やかな日々だ。何事もなく日常が過ぎていく。
彼女とこんな平和な会話を交わし、軍靴の足音など聞こえないように、聞かないように過ごせば自分も、普通、になるのだろうかと、らしからぬことが頭の片隅を掠めた。
だがそれだけだ。
三好は笑みを崩さぬまま、視線をそらして街並みを眺めた彼女に言葉を投げた。
「近々、波多野が行くらしい」
流れていた穏やかな空気に投じた波紋。
穏やかな表情を浮かべていた千歳は三好を見遣るとすぐに視線をそらし、そうですか、とその目線を落とした。感情は読めない。抑揚のない呟きだ。
「まぁ、いずれ皆いなくなりますけどね」
そして三好も抑揚のない声音で呟く。事実だ、ここにいる者の宿命、そして生きる意味そのものだ。
自分こそは自分ならば、何年何十年になろうとやり遂げる自負心の元、巣立っていく。それが、遅いか早いかの問題だ。
そうですね、と千歳は再度相槌を打った。
「寂しいですか?」
おどけた様子で三好は千歳に尋ねる。視線を三好に向けた彼女はくすりと、不敵な笑みを浮かべた。
「そう言えば可愛らしいですか?」
あり得ない、という風な回答に三好はひどく満足感を得た。いいえちっとも、と返せば彼女は分かりきっていたように笑んだ。
一抹の孤独すら感じない、そう答える千歳の姿を、他に心を砕き依存しがちな女性とは違う強さを三好は気に入っていた。
その千歳は三好から視線を外し一歩、前へ進み、ただ、と付け加えた。
「無事で居てくれればそれでいいです」
三好をふりかえり、そう言いながら眉尻を下げて薄っすらとえむ彼女に三好は目をみはる。風が吹き、さらりとその髪が揺れた。
寂しくも、孤独も感じない。
けれど、一抹の不安はきっと消えないのだろう。死を間近で見た彼女は、生の呆気なさもその儚さも知ってしまった。
死は最悪の選択だ。
死ぬな、生きろ、殺すな。
口で言うことは容易い、実行することも自分達ならば容易い。
そう思っていても、不安、というものはどこまでも纏わりついてくる。
「三好さん」
「何ですか」
「ずる賢く生きて下さい」
「誰に向かって言っているんです」
「自信家でいつも気取っておられる、色白の紳士に」
「まったく、貴女は」
やれやれと肩をすくめる三好に千歳はおかしそうに微笑んだ。釣られて三好にも笑みが広がる。
「千歳」
三好が敬語を外した。千歳は思わず固まり目を瞬かせる。
彼女の眼に映る自分は今どんな表情だろうと、三好は苦笑した。
ゆっくりと近づき距離を縮め、三好はその瞳を見つめる。
「三好さん」
自分を見つめ返すその瞳に、自身の姿を見る。
三好は徐ろに、顔を近づけた。
「…あ」
あと数センチ。自分と彼女の唇が触れかけた時だった。
千歳の両の手が三好の唇に当たっていた。
「あ、の」
自分でもよくわかっていないように千歳は目を右往左往させる。
任務ならば、訓練ならば、いとも簡単に互いがやることだ。貞操観念、というものはここに存在しない。
故に、その行為を自身が無意識に退けたことに千歳は感情の処理の仕方が分からないように焦りの顔を見せていた。
(やっぱりか)
ふ、と三好は笑みをこぼす。そして困った顔をする千歳の頭をくしゃりと撫でた。
「わ、三好さん」
「何を本気にしてるんですか」
「そ、うなんですけど、何というかすみません」
「やめてくださいよ、謝られても嬉しくない」
半分は本心だ。三好は肩をすくめた。気にしていないと涼しげな顔をする三好とは対照的に千歳は難しい顔を浮かべる。
(かなわない)
仄かに抱いていた、そして自覚していた気持ちだった。
恋と呼べるほどのものではない。強いて言うなら独占欲。囚われるほどでもないが手に入れてみたいという欲はあった。
他にはない、向けられる愛情に似た感情を掠め取ったらどんな気持ちだろうと。
それだけの感情だ。
三好は千歳に視線を向ければ相変わらず考え込む素振りを見せている。
無意識に拒否したのは、正解なのだろう。意識的な三好の行為を彼女は否定した、それはつまり
(俺じゃない、か)
本当にかなわない。三好は苦笑した。
彼女が見せた、自分達を想う姿を掠め取れたらと、欲を出した自分に自嘲する。
今はまだ千歳自身も、誰、などと思っていないのだろう。その感情はすべからく等しく自分達への想いだ。
(牽制したところで大した意味はなかったな)
瞳を閉じ、三好は苦笑した。
「さて、戻りましょう。昼食の支度があるでしょう」
「……そうですね」
考えても仕方ないと判断したのか、千歳はいつもの淡白な表情に戻ると三好の横を通り過ぎた。
扉へと歩みを進める千歳の背を見て三好は目を細め、心の内で問いかけた。
虚構に対して彼女はその想いを持ち続ける。そしてその反対の想いを拒絶する、あり得ない、あってはならないと。
けれど、いつかーー
(与えられる想いに貴女は応えられるのか)
あり得ない、と考えているその想いに答えを出すことはできるのか、と。
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泡沫
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