23:巣立
ここにいた期間は長かったようで短かった。自分と同じ強烈な自負心を持つ同類の人間と出会い、共に学び、過ごした日々もきっと色褪せていくのだろう。
小田切は今まで自分が羽織ってきたスーツに腕を通し、部屋を見渡す。
ここの風景も見納めかと若干名残惜しい気持ちがしている自分に苦笑した。
ちずネェを捨てることができなかった。それが全てだった。
避けてきていたそこを理解したことにより、ここに居ることはできない理由が明確になった。自分はどうしようもなく彼らと違ってしまったのだ。
どうすれば彼らのように生きていける?
何者にもなれず、何者にも悟られず、とらわれず、裏切り欺き生きていく。そんな生活でどのようにして自己を確立できるのか小田切には分らなかった。
だからこそここには居られないのだ。
そんな人間は居ることができない。いずれ闇にとらわれて精神を壊される。
小田切は結城中佐から渡された辞令を読み返した。
任地は北支。無事で帰ることは許されないのだろう。そして誰もそれを望みもしない。
そこまで自嘲気味に笑ったが、小田切は首を振った。
『死ぬなよ』
(呪いのようだな)
吐き捨てるように自身に任地を告げた彼は最後にそう言った。
死ぬことなど許さないというのか。ここの人間であったならば、生きるということぐらいせめてこなしてみせろということか。
何のために―――
ハットと革のカバンを手に持ち、小田切は部屋を後にした。
廊下に響く自分の足音がやけに耳に残る。出て行きたくないのかと小田切は自嘲した。
階段を下り、外へ出る廊下を一歩一歩進む先に見慣れた顔が見えた。
「千歳…」
待ち構えていたかのように玄関の前に立っていた彼女の名を小田切が呼べば、千歳はひとつ息を吐き彼へと近づいた。
「どうしてですか」
全てを知っている上での質問だ。
小田切は不満そうなその表情に苦笑して返した。
「俺には無理だったんだ」
「忘れられないからですか」
「分かっているんだろう」
「理解したくはないです」
俯いて眉をひそめる千歳に対して、小田切は困ったように眉尻を下げた。
彼女は自分と似ている。
誰かにとらわれているところ、思いを砕いているところ。ここに居る限り、きっとそれらはいずれ彼女を傷つけ追い込んでいくだろう。
小田切はいつか彼女が自分に放った言葉を思い出す。
『小田切さんは、優しいですから』
それが本当なら、その言葉は彼女自身に帰るものだ。
「千歳」
顔を上げて自分を見た千歳に小田切は問いかけた。
自分と似ている、彼女はどう思うのだろう。
「もしお前が男であったのなら、お前はここに残るか」
質問に対し、千歳は眉一つ動かさなかった。
ただ、小田切の瞳をじっと見つめていた。
彼女が自分と似ていると思った時から、聞いてみたいと思っていた。
彼女なら今どうするのだろう。どう思うのだろう。様々な場面で頭を掠めた問いだ。
自分を映し出すような彼女の姿に自分自信、安心感を得ていたのかもしれない。今さらながら小田切は自嘲した。
千歳は小田切を見つめていた目を伏せると、口を開いた。
「私は貴方とは違います」
それは核心を突くような返しだった。
少なからず自分との近視感を覚えていた小田切の心臓は跳ねた。その反応が彼女に伝わったかはわからないが、千歳は淡々と続ける。
「例え男であっても貴方と同じ道を歩むことはありません」
「…理由を聞いていいか」
小田切の質問に、彼女は意思の強い瞳を彼に向け、きっぱりと言い放った。
「同じになれなくても、囚われてしまっていても、自分の信じる者のために生きることはできます」
あぁ、間違っていたと小田切は苦笑した。
そうだ、彼女は随分と前からわかっていた。自分の立ち位置も心も。それを理解した上でここで生きていくことを、全てを受け入れる選択をした。
答えを出していた人間と同じ選択を自分がするはずもなかった。
それに、と彼女は付け加える。
「此処のために生きることはできても、死ぬことはできません」
そう言って苦笑した千歳に小田切は息を呑んだ。
ちずネェ―――
思い出したのは、幼い自分に愛を注いでくれたあの笑顔だった。
生きることは死ぬことより難しい。
ちずネェの幻影を追い、囚われていた小田切にとってここでの生活はひどくアンバランスなものだった。全てを捨て去る教育をされながら、捨てられない自分と捨てていく同期。
そして、捨て去れずに生きることを選択しても尚、自分に残されたのは発揮することのできない自負心と纏わりつく想いだった。
生きる意味がどこにあるのだろう。何をもっていきるのだろう。
どこかで、生、に対する執着が薄れていた。
小田切は千歳を見つめる。
生きることはできても死ぬことはできない。
彼女はこれからも、かの魔王と此処の連中を想いながら、ここに居続けるのだろう。
彼女の命は、どこかの他人やましてや国のためでもなく、彼女が信じる者のために捧げられる。
それは決して死を捧げるのではない。
生きて、いつまでも生き抜いて貫いていくものだ。
「小田切さん」
千歳が諭す様な声音で小田切の名を呼んだ。
「生きることを諦めないでください」
真剣な眼差しには、小田切の身を案じるような色が含まれている。
自分の考えなど彼女はお見通しだった。
だからこそ、此処に彼女は立っていたのだ。
小田切は肩を竦めた。
「どこへ飛ばされるかは分かっているだろう?」
軍の上層部からのせめてものお情けだ。
死処を与えるための任地。
もう戻れない。
肩を竦めた小田切に、でも、と千歳は口角を上げた。
「小田切さんなら、切り抜けられるでしょう?」
何ともずる賢いことを言ってくるようになったと、小田切は舌を巻いた。
自分ならばそれくらいできる、できて当然だ。
今回の卒業試験で完膚なきまでに叩きのめされた自負心の中にも、そのプライドは砕かれず残っていることに小田切は自嘲した。
生きることを諦めなければ、それは自分にとって容易いことだ。
如何せん、自分は遠回しに殺されかけている人間だ。しかし、出来ないはずがないという強烈な自負心はこの数年で蓄積されていた。
そして今、その自負心と行動が試されている。
小田切は結城中佐の言葉を思い出す。
死ぬなよ――
生きることを諦めるな。潜り抜けて見せろ。
もしかしたら、彼なりの――――
「千歳」
小田切はハットを深く被った。
そしてニヤリと不敵な笑みを浮かべて紡いだ。
「行ってくる」
目をわずかに見開いた彼女の横を歩き去る。
玄関扉に手をかけ扉を押したところで、後ろから声が降ってきた。
「お気を付けて」
小田切は口元の笑みをさらに深めると、歩みだした。
―――――――
巣立
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