25:愚鈍
「千歳に振られた」
唐突な三好の言葉に声も発することができずに波多野は持っていたタバコを落とした。幸い灰皿の上だったが、暫くそのまま固まってしまった。
随分と間抜けな顔をしていたのだろう、三好は波多野を見て呆れていた。
「なんて顔してるんだよ」
「お前が突拍子もないこと言うからだろ」
灰皿に落ちた吸いかけのタバコを再び手に取り波多野は一服すると、ジロリと三好を睨みつけた。
「事実を言っただけだ」
何でもない風に肩を竦めた三好を波多野は訝しげに見つめる、そもそも何の話だと。
その視線に三好は口角を上げると楽し気に語り出した。
「といっても少し前のことだけどな。案外彼女は真正面からの好意を嫌うみたいだ」
三好は手に持っている上質なウイスキーの入ったグラスを揺らし、喉へと流し込む。酔っているのかこいつは、と波多野が益々不審そうな目を向けるのに対して三好は一つため息をついた。
「口づけをしようとしたら拒否されたよ」
「は?」
「俺じゃないんだとさ」
「それ、千歳が言ったわけ?」
「まさか」
そんなわけないだろうと三好は小馬鹿にしたように喉を鳴らして笑った。
相変わらず三好の話の意図が分からず波多野は更に顔をしかめたが、ふとその三好の口づけを拒否した彼女のことを思い浮かべた。
脳裏に浮かんだのは、互いに渡しあった赤い布袋のことだ。
意味のないものだ。それ自体に何か特別な力があるわけでもなく寧ろあっても邪魔なだけな物。神の力とやらを残念ながら波多野も、ここにいる人間も信じてはいない。
しかし、捨てることもできず結局スーツの内ポケットにしまい込んでいた。
『ここに来る人の想いは本当だと思うんです』
仄かな笑みを浮かべた千歳のそれは自分達が身につけた仮面ではなかった。
何者にもとらわれてはいけない。感情も愛情も、全て取るに足らないものだ。
それに囚われたら、ここを去った人間のようになってしまう。
ここは自由だ。何者にも囚われないということは全ての自由が保障された空間。
スパイとして何者にもならず、灰色の存在として生きる限り波多野は自由なのだ。
波多野は内ポケットに入れていた赤いそれを取り出した。
「それは?」
三好が不思議そうに波多野に尋ねる。
「あいつからの餞別」
端的に答えると、三好は目を見開いた。
そして、驚きに薄く開いていた口に小さく笑みを浮かべ、波多野のその布袋を眺める。
「なんだよ」
その様子に波多野は訝しげな視線を彼に向けたが、いや、と三好は肩を竦める。
「随分と俺と扱いが違うんだな」
「お前はまだ行く予定がないからだろ」
「そういう問題じゃないと思うが」
ならどういうことだよ、と不服そうに眉をひそめた波多野に三好はやれやれと溜息をついた。
「愚鈍」
目を細め、口角を上げて三好は波多野にその言葉を送った。
はぁ?と不服そうにしていた波多野の顔に明らかな苛立ちの表情が浮かぶ。
波多野のその様子に、三好は面白そうに歪めていた口元を引き締めた。
諌めるような視線を彼に向ければ、反論しようとしていた波多野の口は閉じられる。
「なぁ、波多野」
カランと氷が溶けてぶつかる。
橙色に染まったグラスを手にした三好は、その色を眺めて問いかけた。
「囚われるなよ」
三好の言葉に波多野は目を瞬かせた。何を言ってるのだと眉をひそめる。
以前、血に濡れた千歳を連れて帰ったあの夜。結城中佐に呼ばれて部屋を出る直前、同じような言葉を彼は波多野に言ったのだ。
囚われるな。あまりにも自分達にとってはごく普通の当たり前のことなのだ。
小田切は1人の女に囚われた。佐久間は己の価値観に囚われた。
波多野は手の中の赤い袋を見つめる。
囚われるな。
「別に囚われてなんかねぇよ」
脳裏に浮かんだ仄かな笑顔に闇を塗りたくる。
馬鹿馬鹿しい、そう吐き捨てれば三好は目を閉じ俯くとひとつ溜息をついた。
その行動に波多野は違和感を覚える。
伏せていた瞳を三好は上げた。
「本当に愚鈍だなお前は」
「は?」
「彼女に、じゃない。お前自身の固定観念に囚われるなと言ってるんだ」
三好の言葉に波多野は言葉を詰まらせた。鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。
射抜くような彼の瞳に思わず心が見透かされる感覚に陥る。しかし、直ぐに同じような凍てつく視線を投げつけた。
「意味わかんねぇよ」
吐き捨てるように呟いた。けれど、射抜くような彼の視線はどうも居心地が悪かった。
自分達は、自分の感情さえ隠し騙し、相手を欺いてそれを表に出すことはない。
そう訓練された。そう生きてきた。そしてこれからもそれは変わらない。
自分が囚われるはずがない、たとえ自分自身でも、だ。
射抜くような視線を向けていた三好が伏目がちに笑みを作った。
「何かを断定してしまうことほど、囚われてしまうことはないだろう」
囚われてはいけないと断定して、その固定観念に縛られる必要がどこにある。
笑いながらそう囁いた三好に、波多野は神社での千歳の言葉を思い出す。
『そうであるはずがないと、断定することに意味がないんです』
断定する、可能性を切り捨てる行為は必要だ。正しい選択をすることはスパイにとって最も必要な技術と言っても過言ではない。
しかし、人の感情、確かめようのない事象、そのようなことをあるはずがないこうであるはずだと断定し、切り捨てていくことに意味などない。
断定できないことを、躍起になってそうであるはずがないと決めつけることこそ囚われていると。
「……三好は、千歳のことどう思ってたわけ?」
自分から話題をそらすように波多野はそっぽ向きながら三好に尋ねた。
振られた、ということは想いがあったということだ。
三好は息を吐き出して笑うと目を細めた。
「少なくとも、恋ではなかったな。ただ、気になっていただけだ」
「気になる?」
「あの他者に等しく向けられる感情が、自分に向けられたらどうなるだろうと思ってな」
ただの興味本位だと三好は肩を竦める。
「囚われてるんじゃねぇの?それ」
からかい半分、呆れ半分、波多野は三好に問う。自分に囚われるなと言っておきながら、囚われているのはお前ではないかと。
しかし三好はそんな波多野の言葉にニヤリと笑って言い放った。
「それならそれでいいさ」
思わぬ返しに波多野は目を見張る。
そんなわけない、と嘲笑でもするかと思っていた波多野の予想は大きく外れた。
その顔に満足いったのか、三好は喉を鳴らして笑った。
「囚われていようといまいと関係ないからな」
三好はそう言うと半分ほどに減ったグラスの酒を一気に流し込んだ。
この男はそれすら意に介さないのだろう。囚われていようと関係ない。自分ならばそんな状況でも完璧に任務を遂行できるという自負心。
波多野は舌を巻いた。この男のプライドは他の追随を許さないほど高い。
(俺は、)
波多野はふと三好が囚われた彼女に思いを馳せた。手に持つ赤い布袋を指でさする。
彼女が自分にこれを渡した意味は他でもない、彼女は囚われているのだ自分達に。そしてそれを理解しながらも曲げようとはしない。
それは彼女が結城中佐に砕いてきた想いそのものなのだろう。
恋や愛などという取る足らない感情。それがどんなものか波多野には分からなかった。
「波多野」
カタリと椅子を引き三好が立ち上がった。時刻は日付を回った。床に入るのだろう。
三好に呼ばれた波多野は物思いに更けていた思考を呼び戻し彼を見遣る。
「お前にも出来るだろう」
挑発的な、人を品定めするその視線と声音は三好特有のものだ。
気取った様子で三好は続ける。
「要は選択を間違えなければいいだけだ、簡単なことだろう」
三好の言葉に波多野は目を見張った。あぁ、その通りだと思わず口元が弧を描く。
散々、彼の言葉に振り回されたが要はそこだ。やるべきこと、その選択を見誤らない限り、心の持ちようなどは関係がない。
三好はそこをよく分かっていた。
「そうだな」
目を伏せ同意すれば満足そうに三好は鼻を鳴らした。
「あともう一つだ」
「今度はなんだよ」
今度こそ扉を開けて部屋を出ようとしていた三好は思い出したように波多野に声をかけた。
苦笑しながら波多野が彼に視線を投げれば、返ってきたのは思わぬ顔だった。
「手にしたいものが、すり抜けないようにな」
どこか悲哀を含んだ瞳。その表情に波多野は目を見張った。しかし、すぐにその顔はいつもの、三好、に戻される。
じゃあな、とヒラヒラ手を振りその場を後にした三好の後ろ姿が、波多野が彼を見た最後となった。
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(満足か、三好)
あの日の夜を思い出しながら、波多野は大東亜文化協曾の屋上で月夜に照らされた街を眺めていた。
手にしている煙草を吸ってはゆっくりと息を吐く。
夜風が涼しい季節となった。彼と談笑し、また彼らと時を過ごしてから数年程しか経っていないがもう長らく会っていない、会うことのない人間もいる。
此処を辞めていった者は何人かいた。しかし、逝ってしまう者が出てくるとは、少なくともこれ程早いとは想定外だった。
波多野は目を閉じ常に気取ったポーズを見せていた彼を脳裏に思い浮かべる。
三好は任務に人一倍拘っていた。他の追随を許さない程、己の充てがわれた仕事にプライドを持ち完璧にやり遂げた。
最大の誤算である事故さえなければ今頃ドイツで暗躍していただろう、しかしその最大の誤算すら彼の花道を飾る最高のステージとなった。
完璧だったのだ、スパイとして彼は非の打ち所がない仕事をこなした。
しかし、波多野は眉をひそめた。
(死は最悪の選択、だろうが)
あの日、一瞬だけ彼が見せた悲哀の色を波多野は忘れられなかった。
あの色の意味を知る術は永久に失われた。しかし、憶測で判断するならそれは、
「お前が死んでどうするんだよ」
吐き捨てるように紡がれた言葉は秋空に消えた。
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愚鈍
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