26:転機
卒業試験が始まり次々と巣立っていた彼らを千歳は眺めてきた。ある者は、諜報と陰謀渦巻く地へ、ある者は同盟国へ、ある者は戦禍の地へ。そして誰もが有益な成果を上げて帰ってきた。
一ヶ月程度から1年以上かかる任務もあった。彼らは見事に他人へと顔を変え、完璧なカバーで敵を欺いていった。
一抹の不安も感じさせることのないその鮮やかな手腕にどこか安心感を覚えていたのかもしれないと千歳は顔を歪めた。
陸軍内に秘密裏に創設されたスパイ養成機関、通称D機関は設立から3年程が経過していた。千歳が初めて世話をした第1期生達は今も顔と名前を変えて世界各地で暗躍し続けている。
そのD機関が入るレンガ調の建物、大東亜文化協曾にあるとある部屋。
自身に充てがわれた部屋で千歳はベッドの縁に座り、手にしていた白く文字が書いてある縦長の紙、御籤を見つめていた。
迷い人来たる
巧妙に細工されたこの籤も外れることはなかった。迷い人の魂は帰り、そして還っていった。
千歳は白紙を握り締めた。
初めの頃は、お互い無関心だった。寧ろ、その感情は負の割合が大きかったかもしれない。
気取った態度、戯けるような仕草、小馬鹿にするような笑み。
相手の反感を買う行動はスパイとして如何なものかと何度思ったことだろうと千歳は目を閉じる。
脳裏に蘇ったのは佐久間中尉に対する態度だ。常に面白い情報を与えて反応を伺うそのやり方は、まるでイヌネコに対する扱いそのもので眉根を潜めたこともあった。
ゆっくと目を開け、千歳は窓の外を見遣る。月明かりが部屋に差し込み、照明の消している室内を自然光があの時と同じく優しく包んでいた。
彼との距離は変わっていった。
気取った、人を小馬鹿にした彼ではなく、他に対する純粋な興味と敬愛の念を纏った時の彼は、ひどく人間らしかった。
それがカバーなのか本心なのかは分からない。けれど、千歳にとってそれは心地良いものだった。
化け物であっても人である。彼らの中に見た一瞬の人間性は千歳の心をとらえた。
そして、2度と彼のその人間性を見ることは叶わない。
ぽっかりと、穴が開いたような感覚というのはこういうものなのだと千歳は胸の辺りを押さえた。
自身に近い人間を失ったというその喪失感はまるで自分の一部を失うような感覚だった。
けれど、最後に見た彼の顔は穏やかだった。
『幸せに』
(どこまでも勝手なんですね)
猫が嫌いなのは自身が猫のように気ままだからだろうと、神永に軽口を叩かれていたことを思い出す。そして、苦笑した。
幸せというのは、こんな軍靴の足音が間近でする時代に不釣り合いな言葉だ。
この国はいずれ世界の大局に巻き込まれる。戦火の渦中に自ら飛び込もうとすることは、避けることのできない事象となりつつある。
米国の経済包囲は大陸から手を引かない限り続けられる。交渉の余地を、軍部は用意していないだろう。例え秘密裏の交渉があってもそれが上手くいくとは到底思えない。
彼らが運んできた情報は有益にも関わらず、それは取るに足らなぬものと切り捨てられている。千歳はその現状に何度も唇を噛んだ。
戦火を交えることは容易だ。しかし、それを回避し交渉を有利に進めることこそ国の安寧に繋がることを理解しているものが少なすぎる。
今必要なのは状況を有利に進めるカードだ。
千歳は握り締めていた白紙を伸ばして再びそれを眺めた。
数年前までは月に一度のやり取りだったこれも、相手が本国から離れれば、それは数ヶ月に一度となった。
『親鳥小鳥共二健ヤカ カワリナシ』
暗号化された文字にしては至って普通の文章に千歳は困ったように笑った。
(本当に、律儀なんだから)
御籤を閉じ、千歳は今一度、自分の幸せを想った彼を思い出す。
彼は優秀だった。同盟国のスパイという一歩間違えればその関係を崩しかねない、危ういカードとなりかねない状況の中で見事その仕事を完遂させた。
幸せを運ぶ平和は手放しでは訪れない。御籤に書いてあった、変わらない健やかな日々は刻一刻と失われつつある。
有能な彼はもういない。喪失感に胸を痛めることよりやらなければいけないことがあるのだ。
腰掛けていたベッドから千歳が立ち上がればスプリンクラーが軋む鈍い音がなった。
千歳はそっと窓に手を触れて空を見上げる。
数日前に結城中佐より千歳に任務が通達された。
米国への潜入。女を使わない中佐がこれを千歳に命令したのは、それだけ戦局が複雑化していることの表れだ。
ドイツではナチスの台頭により近隣諸国の情勢が一変した。そして、それに対抗しているのは現在西欧各国のみで米国はあくまで中立だ。
特に経済界はナチスに寛容だと聞く。
戦争には金が必要だ。そしてそれは金を生むこともできる、ビジネスでもある。
あくまで中立の立場を崩さない国への潜入と任務に千歳はもういない彼の姿を思い浮かべる。
貴女にできるんですか?
そう、小馬鹿にしたように笑う彼が見えた気がした。
目を閉じて、その問いに無言で答える。
(やれるだけのことをやるだけですから)
瞼の奥の彼が、苦笑した。
ここでは人の死さえ虚構だ。結城中佐は常に彼らにこのことを言い続けていた。
外から入る情報も事象も虚構だと、自身を確立するのは己の判断力と知識であると。
とらわれるな。
(大丈夫ですよ、三好さん)
瞼の奥の彼が消えていく。千歳はゆっくりと目を開け、窓の外の月を見上げた。
その時だったーー
「千歳」
ゆっくりと、部屋の扉が開いた。
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転機
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