27:哀別

「千歳」

物思いに更けていた千歳の意識が現実へと引き戻された。
扉を開けて自室へ入ってきたのは、ここ数ヶ月、忙しなく此処と外を行き来している波多野だった。

卒業以降、千歳は機関員と会う回数がめっきり減った。当然といえば当然だ。もう彼らは、真っ黒な孤独を進んでいるのだから。
それでも、偶に帰還して、結城中佐のために作り置きしていたご飯がいつの間にかなくなっていた光景は可笑しいものがあった。

「どうされましたか」

しかし、こうして部屋を訪ねてくることはない。
最後の会話という会話はあの神社で交わしたものだけだった。

「中佐からの伝言だ」

訝しむ千歳に波多野は此処へ来た理由を述べた。なるほど、と千歳は納得する。

「2週間で整えろ、とさ」

波多野の言葉に千歳は、そうですか、と呟くと目線を外に戻した。
2週間、その間にカバーも含めた準備をしろということだ。
日頃彼らがやっていることを自らも求められたことに千歳は緊張した面持ちを浮かべた。

常に彼の側でサポートを行ってきた自分も外へ行くことになる。

外へ向けていた視線を波多野に戻すと、千歳は苦笑した。

「今度は私の方が外地に行くことになってしまいましたね」
「……そうだな」
「お守り、貰っておいて良かったです」

千歳はデスクの引き出しから赤い布袋を取り出した。
金の刺繍の入ったそれは、波多野が初めて外地への任務、卒業する前に贈り贈られたそれだった。
内地にいるであろう自分には不要と言ってしまったが、今度は逆だ。波多野は内地での任務を、自分は外地での任務となる。

「そんなもんに意味なんてないだろ」

吐き捨てるように呟いた波多野に千歳は苦笑する。

「意味ならありますよ」

そう答えたが、いや、と千歳は内心首を振った。
意味は自分で付け加えるのだ。物に対する意味はそれ自体にない。常に人の心が意味を付与する。

初めは何気なく渡したそれだった。その意味を理解したのは、奇しくも、彼を失ったその時だ。
千歳は彼に渡した赤い布袋に、お守り、の意味を与えた。このただの袋は、意味を与えることで新たな価値を生み出した。

千歳は彼に送られた赤い布袋を見つめる。そしてそれに込めた自分の意味を考えて苦笑した。


(繋がっていられる)


思い返すのは、ぶっきらぼうにそれを渡してきた目の前の彼だった。
だからこそ、この守り袋は彼女にとって唯一無二のものだ。これがあるおかげで心持ちは違ってくるだろう。


手にしたそれを摩り目を閉じ、一呼吸置くと千歳は波多野に向き直った。


ここからは、彼らと同じように完璧に任務をこなす必要がある。
何があるか分からない。想定される最悪のケースに対応し、生き延びて情報を送り届ける。

ただ、自分が信じる者の為に、
ただ、自分が信じる自身の為に、
それが自身を孤独へ誘おうとも、

任務を完遂させる。



「報告ありがとうございます。了解しました」


ひどく落ち着いた、色のない声に波多野が一瞬目を見開いたのが見えた。



ーーーー


結城中佐からの呼び出しで彼の元へと足を運んだ際、与えられた任務の他に言伝を頼まれた。


『2週間で準備をしろと伝えろ』


女の千歳に任せられたことのない外地での潜入任務。女を使わないはずの中佐が初めて彼女に与えたものだった。

波多野は訝しんだ。今まで国内での任務は確かにあった。しかし、連絡手段も限られる外地での、しかも曲がりなりにも現在立場上はあくまで中立の国だ。
三好のように優秀なスパイなら未だしも、女の千歳を行かせることは些か不可解だった。

『不満か』

見透かしたような声に、思わず肩を震わせる。見れば、表情一つ変えない鋭く凍てつく眼光が波多野を捉えていた。
波多野は目を閉じ、一呼吸置くと目の前の魔王に向き直った。

『いえ、失礼します』



(こいつ)

淡白な千歳の声音に波多野は一瞬目を見開いたが、直ぐに表情を戻しじっと彼女を見つめた。

波多野が見てきた千歳はひどく不完全な人間だった。能力はあるのに、そこに心が追いついていない。
彼女は自分達に、かの魔王に心を奪われすぎている。そんな心持ちの人間が外地での任務など務まるはずがない。

仄かな笑み、演技ではない仕草。色のなかった彼女がほんのり色付き、そしてそれは度々彼女の首を絞めた。
その甘さをかの魔王が懸念しない訳はないと思っていたが、目の前の千歳の表情に波多野は内心驚いていた。

一瞬にして、彼女から柔らかな雰囲気が消えた。今目の前にいるのは、あの自分達をその瞳に写していなかった頃の彼女だ。ひどく落ち着いたその瞳に波多野は眉をひそめた。


「まだ何か?」

その場を動かない波多野に千歳は疑問を投げかける。要は済んだはずだと、その声色には含まれていた。

波多野は三好の姿を思い浮かべた。



『手にしたいものが、すり抜けないようにな』



波多野はゆっくりと彼女に近づいた。
ピクリと千歳は身体を強張らせる。彼女の目が見開くのが見え、逡巡したようにその瞳が揺れた。

徐に、その頬に手を添える。



「、っ!!」



パシリと、波多野の腕が払われた。
呆然としていた千歳が弾かれたように彼と距離をとる。

あと一寸、波多野が彼女に口付けするまでのその僅かな距離。それが埋まる直前に彼女は我に返ったようにその手を振り払った。
距離をとった千歳は焦りを殺すようにひとつ息を吐いた。

「遊びたいなら他を当たってください」

平静を装う声音の中に微かな動揺が見て取れる。波多野は肩を竦めた。



「からかっているわけじゃない、て言ったらどうする?」



目を見開いた千歳を波多野は強引に引き寄せてベッドに縫い付けた。
何事かと固まった彼女に波多野は表情を変えずに言い放った。


「今ここで、孕めば行けないかもな」


先ほど見せた、色のない彼女の瞳とは違う。明らかな動揺が見え、波多野は目を細めた。

組み敷いた彼女の顔を見つめながら脳裏に浮かんだのは、見事にスパイとしての任務を全うした同期だ。そして彼はもういない。
彼と重なる彼女の姿に顔を歪めた。
選択を間違えれば、失うものがある。


無言のまま、互いの視線が交錯する中、最初に口を開いたのは千歳だった。


「……出来ないですよ、波多野さんには」


ひどく落ち着いた声だ。
波多野の下で組み敷かれている彼女は、纏う雰囲気が先程までとは打って変わって冷静だった。

「私をここで抱くことなんてするわけないです」
「何でそう言い切れる」

波多野の問いに、彼女は真っ直ぐ彼を見つめて返した。


「貴方が何かに囚われるはずがない」


キッパリと、しかしその言葉はまるで波多野に、自分自身に言い聞かせるように紡がれた。


囚われるはずがない、囚われてはいけない。
貴方は囚われてはいけない。



(あぁ、お前はそういう奴だよ)


波多野は目を細めて彼女を見据えた。

波多野は分かっていた、彼女は決して自らが囚われていても、相手が囚われることを許さない。自分への純粋な感情をつぶさに感じ取りそれを拒否するのだ。

一線を超えないように、それが枷とならないように

囚われることは愚かなことだ、それは弱さに繋がり己の首を絞める。
だから、ここにいる人間が何かに囚われてはいけない。


ギリ、と波多野は彼女を縫い付けていた腕に力を込めた。顔を歪めた彼女のことも気にせずに言葉を吐き捨てる。

「随分と勝手だな、お前は」
「……そうですね」

目を細めた彼女はか細い声で肯定する。波多野はその瞳をじっと見つめた。


きっと三好はそれを分かっていて尚、彼女をーー


波多野は徐に、組み敷いている千歳の髪を梳いた。
行為に驚いたのか千歳の目が瞬く。

彼女は自身の信じる者の為なら何にでもなれる。どんなことでも出来る。
必要なら自らの色を無くし、無色の存在となって任務に臨む。


それでも、


「千歳」
「……波多野さん」

紡がれた自身の名前。波多野が彼女の中に見たのは、瞬かせた瞳に映る哀愁の色だった。
波多野は目を細め、髪を梳いていたその手を頬に当てた。
ぴくりと千歳が反応する。


「臆病だよな、ほんと」
「え」
「俺も、お前も」


千歳の目が見開かれた。その顔を見て波多野は苦笑する。

あってはいけないというしがらみに翻弄され、自分を騙し顔を隠し、それでも心を殺すことを出来ず、臆病者はすれ違い手を伸ばすことを諦めた。


選択を間違えるな、と誰かの声が聞こえた気がした。



「なぁ、千歳」

囁くように彼女の名前を呼ぶ。


「波多野さん」
「今だけだ」


持て余す感情も、想いも、囚われることも。この時だけだ。


「これから先は何もない。だから、今夜だけだ」


千歳の目が見開かれ、そして苦しそうにその瞳を閉じた。

これから、互いに己の任を果たすのだろう。己の為に、誰かの為に、目的は違えど個々に旅立っていく。
感じていた想いも、この感情も全部此処に置いていく。


(悪いな、三好)


『手にしたいものが、すり抜けないようにな』


(俺は、ここまでだ)


哀愁も、情愛も、必要のない感情を全てこの日に留めるように、ゆっくりと口付けを交わした。


ーーーーーー

哀別


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