1:疑問

「おはようございます、佐久間中尉。」
「…あぁ、おはよう。」

機械的な挨拶を交わせば軽く会釈をして炊事場に立つ女性。少女と呼ぶには大人びている彼女の実際の年齢は佐久間には分からない。
否、年齢だけではなく、此処、大東亜文化協曾で学ぶ訓練生と同じく、彼女の年齢、経歴、名前すら、本当である確証などない。
ただ分かっているのは、結城中佐の秘書をしているその事実だけだ。

(秘書といってもあの中佐が秘書などを必要としているとは思えないが。)

黙々と己の業務をこなす彼女を見遣りながら、佐久間は魔王と呼ばれる上官の顔を思い浮かべた。

千歳。それが彼女に与えられている此処での名だ。
聞くところによると、結城中佐がD機関を設立する遥か前、それこそ中佐がまだ第一線でスパイとして活躍していた頃からの知り合いだというが、それすら本物の情報であるか定かではない。
佐久間には彼女に関してその程度の情報しか入っていなかった。
結城中佐の傍らに常に存在する異質な女。不気味などと形容できるのなら可愛げがある。
陸軍内部に秘密裏に設立された諜報員養成機関、通称D機関に武藤大佐の連絡係として赴任した当初から、佐久間は彼女の存在は確認していた。

昭和13年春、軍人刈りだった髪を伸ばし背広を整え、傍目からは軍の人間と悟られないよう外見を繕った佐久間は、初めて此処大東亜文化協曾へ足を踏み入れた。
第1期生を迎え入れる準備段階のため、建物内部に人影は見えなかった。
がらんと静まり返った廊下を進んだ先での邂逅に呆然としたことは記憶に新しい。佐久間はその時の光景を鮮明に思い出せた。
外光を背に、黒い影と化していた結城中佐に目を奪われ息を詰めていた佐久間は、傍らの存在に意識を遣ったと同時に眼を見開いた。

――どういうことだ。

佐久間の視界に入ったのは、佐久間より年若い娘だった。
女がいる、それは佐久間が居る場には不釣り合いな事象だった。
目の前に佇む黒い影、結城中佐は、かつては優秀なスパイだったと佐久間は聞いていた。仲間の裏切りにあい、身体を負傷しながらも、本国へと敵国の情報を持ち帰ったまさに怪物だと。

――ならば何故、此処に女がいる?

佐久間の疑問は至極当然のものであった。
男所帯の陸軍に、ましてや機密性の高い諜報機関に何故女がいるのだ。佐久間は不躾にも彼女を凝視してしまった。
しかし、動揺を隠せない佐久間に彼女は一瞥もくれてやることはなかった。

(結局、いまだに何一つ分かっていないのか。)

佐久間は視線の先の彼女を見つめた。
あの日の邂逅以来、第1期の訓練生を迎え、講義が施され、日が過ぎていく中で彼女の過去を拾うことが出来るのではと微かな期待を抱いていたが、その期待は泡沫となって消えてしまった。
結城中佐の元にいる奇妙な女性。男所帯に咲く紅一点。佐久間が知り得ている情報などそれだけだ。
だからこそか、改めて彼女と対面しているこの状況でふつふつと湧き上がったのは、彼女に対する単純な興味だった。

「君は、なぜ此処に?」

彼女の用意した朝餉の食器を洗い場に運ぶついでに、佐久間は問いかけた。
純粋な疑問だ。他の訓練生、三好や神永などに問えば、薄ら笑いを浮かべてさらりとかわされるだろう。
彼女はどう答えるのか、と逸る気持ちを抑えて、じっと佐久間は彼女を見つめる。
当の本人はというと、朝餉の洗い物の作業をしていた手を止め、ちらりと佐久間を一瞥した。視線が合わさったと思えば逸らされ、すぐにまた、興味なげに作業を再開する。

「成り行きです。」

にべもない答えは訓練生と同じだった。彼女もやはり何も答えない。
理解していたとはいえ、機能的な答えに佐久間は僅かに肩を落とした。
結城中佐は女性を機関に加えない。その噂を佐久間が耳にしたのはつい最近のことだ。何でも、女は感情的になり意味もなく人を殺すという。愛情、友情、取るに足らない情のために動き、それは時に激情となり己の首を締めて行く。

だがもしそれが本当なら、彼女は一体何だというのか。

佐久間の興味は益々増して行く。噂話など下らぬ与太話、と一蹴する佐久間らしからぬ考えだった。
他の訓練生は知っているのだろうか。その思考に佐久間はしかし首を振る。
恐らく彼らは、知っていてもそれを気にも留めない。

「何をしているんですか?佐久間さん。」

思考の渦に飲まれていた佐久間に、気配もなく声をかけてきたのは三好だった。ぴくり、と緊縮した躰を悟られないように佐久間は振り向く。
三好はというと、男にしては赤すぎる唇を三日月に曲げて妖艶な笑みを浮かべていた。
相変わらず此処の連中は神出鬼没で気味が悪いと、内心苦い思いを佐久間は抱く。

「いや、その…」

やましいことは聞いていないが、居心地が悪くなり佐久間は言葉を濁した。
自分の先にいる人物に三好の視線が映ると「見惚れていたんですか?」と見当違いな発言をされたため「そんなわけがあるか!」と思わず語気を強める。

「それはそれで失礼な発言ですね」
「う…」

呆れたような馬鹿にしたような三好の笑いに閉口したのは、実際確かに女性に対して失礼ではあったからだ。
佐久間自身、軍人として女性と話す機会はあったものの、このような状況には慣れてはいない。
艶聞など露ほども立たない佐久間を知りながら厭らしく笑む三好に、佐久間はじとりと視線を送る。が、気まずさに内心ひやりと心の臓を縮こまらせた。

「三好さん、あまり佐久間中尉をからかわないで下さい。」

洗い物を終えた彼女が、近くの布巾で食器を拭きながら三好に苦言を呈した。
先ほどと変わらず無機質な声だが、若干呆れがかっている。

「おや、千歳さんは佐久間中尉がお気に入りなんですかね。」

茶化すように三好がそう言えば、彼を一瞥することも、器を拭く手を止めることもなく彼女は返す。

「少なくとも、貴方よりは。」

鋭利な声音で牽制球を投げた彼女に佐久間は目を見開いた。
昨今は家父長を立て一歩下がる女性が多い中、三好相手に引くこともなく言い放つ。その姿勢は今まで佐久間が出会ったどの女性にもないものだった。
そんな彼女のことを三好も嫌いではないのか、「おや残念。」と、彼女に言い返すこともなく肩を竦めるだけで、特段気を悪くした様子は見受けられない、が当の彼女は三好に視線一つ寄越そうとはしていない。
会話を続けることを拒むような彼女の纏う空気にたじろぐ佐久間に、三好が目配せした。

「それじゃあ、僕らはこれで。佐久間さん行きましょう。」
「あ、あぁ。」

これ以上ここにいても仕方がない。
部屋を出る三好に続いて佐久間もその場を後にした。

「突然どうしたんですか?佐久間さんが千歳さんのこと知りたがるなんて。」

心底不思議そうに疑問を呈する三好の声は珍しい。
廊下を歩きながら次の授業へと赴く三好に聞かれた佐久間は、先ほど考えていたことを彼に話した。
佐久間の話を聞いた三好は、なるほど、と合点がいったように口元を歪める。

「僕らも知りませんからね、彼女の経歴は。」
「やはりそうか。」
「随分と前から中佐と知り合いということしか。それと、彼女自身も中佐の訓練を受けてきたこと、とかくらいしか情報はありませんよ。」
「は?」

さらりと三好の口から溢れた言葉に佐久間は素っ頓狂な声をあげた。
凝視する佐久間の双眼に、おやご存知なかったんですか?、と相変わらずの笑みを浮かべながら三好はくつくつと喉を鳴らす。
こいつは今何と言った。佐久間の中で収束しかけていた疑問が再びむくりと首をもたげた。

「それじゃあ、彼女もこの訓練を?」
「だからそう言っているでしょう?」

同じことを何度も聞くな、そう言わんばかりに肩を竦める三好だが、それを聞いても佐久間には俄かには信じがたかった。

D機関の選抜試験と今行われている訓練。
わざとある島が消された地図を見させられそこから消えた島の名前を問われたかと思えば、地図で隠した机の上の物を尋ねられる。更に、会場までの街灯の数、階段の数、窓ガラスの数を答えるような一見何の意味もない試験。
武術、体術、薬学、医学、物理学。プロの金庫破りからダンスや馬術まで、およそ常人ではこなせないような訓練。
この機関が設立されるまでに、彼女もそれをこなしてきた、と三好は言ったのだ。
それが本当なら、ここにいる化け物はあと1人増えることになる。

「本当かどうか疑わしいなら、本人に直接聞いてみればどうです?」

信じられないという顔をしていたのか、三好は嘆息してそう言うと、講義室へと姿を消した。

(直接聞く、か。)

佐久間の脳裏に彼女の姿が浮かぶ。
三好に言われたこと自体は癪だが一理ある。
佐久間は来た道へと振り返ると、食堂へと足を進めた。


トップページへ リンク文字