29:調査

日本帝国陸軍内に秘密裏にスパイ養成学校が設立された。
何とも奇妙な、そして荒唐無稽な話だとアルフレドは鼻を鳴らした。
海軍ならまだしも、スパイなどという卑怯極まりない下劣な集団は正道たる我が日本陸軍に必要なし、と宣う連中の巣窟にそんなものができる余地がどこにある。

街中にある、米国人マスターが切り盛りする夜はバー、昼間はカフェとなる店の一角でアルフレドはそんな話を聞いた。
昼下がり、カフェにいる人間の多くは暇を持て余した婦人などだ。
若い男はめっきり減っている。国民服令などという、正に思想統制の一環のような法令まで出される始末だ。

アルフレドは口を微かに開けた。
指向性を絞った独特の会話は、例え他の客がそばを通っても聞こえはしない。

「海軍の間違いだろ」

吐き捨てるように言えば、笑いをこらえるように情報提供者は喉を鳴らした。

「頭が堅いよ、お兄さん」

目深に被った帽子から覗く口元は弧を描いている。

「イギリスのスパイマスターから逃げ果せた奴はその学校の奴って話さ」
「スパイ国家が随分な体たらくだね」
「それだけの奴らってことだよ」

面白いだろ?、と相変わらずくつくつと笑う情報提供者にアルフレドは眉を潜める。
陸軍関係者の子息とやらはゲーム感覚で情報漏洩をするらしい、誇り高き日本男児が聞いて呆れると肩を竦めた。

1カ月ほど前からアルフレドが接触している少年は、とあるやんごとなき陸軍将校の子息だ。憲兵の動きや特高の配置図など、実の父親から掠め取ってきたその手腕はスパイ顔負けだが所詮は素人だ。
飽きが来ればこの手の奴らはあっさりと消えていく。

「お前はいつも楽しそうだな」

呆れた声を出せば、先ほどまで面白そうに笑みを浮かべていた顔が固まり、じろりとアルフレドを見た。
しかし、その横顔は直ぐに前を向く。

「あんたもだろ」

どこか小馬鹿にした口調だ。

「暇とちょっとばかし人と違う能力を持て余してるだけさ」

喉を鳴らして再び口元が弧を描いた少年にアルフレドは同じようにニヤリと笑った。


在日米国人、出版社で翻訳の仕事に携わっている。1937年入国。大学では日本文化について学んでいた。少しユーモラスだが仕事の納期は守る好青年。
これが米国諜報機関に属するアルフレドのカバーだ。
本来の目的は、この国の諜報技術の調査だった。
しかし、アルフレドが目をつけていたのはあくまで海軍だ。有象無象の陸軍とは違い、海軍は先見の明があったのか軍内部に諜報組織を内包していた。陸軍関係者から、すなわちこの少年からの情報はいつも、自分がうまく立ち回るためのオマケ程度でしかなかったというのに、

(面白い)

思わず胸が高鳴るのを感じた。


少年の言う通り、アルフレドは暇を持て余していた。
人より少しばかり頭の回転が速かった、話術が上だった、物事の何手先も読み通せた。
スパイとなったのも気まぐれだった。
これくらいがちょうどいいゲームだ。

「で、陸軍の諜報機関がなんだって?」

アルフレドは高揚を抑え切れないように上機嫌な声で彼に紡ぐ。
その声音を聞いた少年はさらに帽子を深く被ると口を開いた。

「通称、D機関。お堅い軍人ばかりじゃない。聞いて驚け、陸軍士官学校からじゃない一般の大学から出た人間を採用しているんだとさ」
「それはたまげたな」
「だろ?父上がこいつらのこと吐き捨てるように言ってたの聞いたんだ」

あの時の顔傑作だったな、と少年は笑う。益々興味がわいたアルフレドは、で?、とその先を促した。

「そこを率いているのが、とある陸軍中佐なんだけどさ、正直ここまでは、良くある話だと思わないか?」
「十分面白いじゃないか、少なくともこの国では」
「そうなんだけどさ、ここまでならどこかの小説でもありそうだろ?本題はここからだ」

少年は一等声を潜めて、辺りを見渡した。歪められた口元が、更に高く弧を描いた。

「そこにさ、女がいるんだとさ」
「女スパイってことかい?」
「それが不明なんだよ。いくら探ってもその女のことは分からない。奴らを率いている陸軍中佐のこともだけど、調べやすそうなその女のことも不明なんだ」

探りがいがあるだろ?と少年はアルフレドに問いかける。
アルフレドは彼の言葉に笑みを深めた。肯定の意だ。

秘密裏に設立された諜報機関を率いる陸軍中佐、その彼の元で働く謎の日本人女性。
どう考えても、普通、ではない。

アルフレドは思わず舌舐めずりをした。

他人の存在、特に自分と同類を暴くその行為はまるで麻薬のように甘美だ。ギリギリの駆け引きと、得た情報の使い方次第で相手を窮地に追い込み、逃げた先に自身が待っている時の快感。

これだからこのゲームは止められない。

アルフレドはカタリと立ち上がった。情報の受け渡しは終わりだ。後は、ごっこ遊びに興じていないプロの領域だと。

先ほどまで弧を描いていた口元から、一瞬にして笑みを消したアルフレドを横目で見遣り、少年は目深に被った帽子を更に深く被り直した。

「またね、リベルタス」

ぼそりと呟かれたその声に答えるように、テーブルを3回叩くとアルフレドはその場を後にした。



――――



リベルタスとは、アルフレドのコードネームだ。
多種多様な人種が入り乱れる本国においての象徴を意味している。
なんと安直なコードネームだろう。



少年との邂逅から数日後、アルフレドは仕事先、兼潜伏先である深川の小さな出版社のデスクで紙面とにらめっこしていた。

D機関とやらの情報は意外なことにすんかりと手に入った。当然かもしれない、その諜報機関は設立されて数年経っているというのだ。今の段階で気づいたことが遅すぎだと言える。

張り巡らせたスパイ網は出版社に届く読者ハガキで管理していた。執筆者へのファンレター、その執筆者によって情報の重要度を分けている。
しかしはたから見れば、そのハガキの整理を外国人ながら真面目にやっているただの若い青年だ。

「精が出ますね」

ハガキの整理、もとい情報の整理をしていたアルフレドのデスク上に小皿が載せられた。藍色の釉薬が独特のここら辺では有名な窯元が製作した上等な小皿。その上には羊羹。砂糖が切符制になってからはめっきり見なくなった品だ。

「ありがとう、聡子」
「いえ、お得意様から頂いたものです。お口に合うか分からないけれど」

上品に笑みを零す女性は、本城聡子。アルフレドの翻訳活動のアシスタントをする若い女性だ。歳は20半ば、本来ならば嫁いで然るべき年齢だが、地方からの出稼ぎでこの地へ赴いたという。この出版社では1週間程前から働き始めた。

気立ての良い聡子はこの小さな出版社の花だ。多くものが配給制となり贅沢は敵だと陳腐な看板が立ち、女は色気付くだけで後ろ指を指されるような風潮がじわりじわりと広がりを見せているこの国で、その風をひらりとかわしながら、ある時は茶菓子をある時は薄っすらとした化粧を。
彼女の前では時代の波などまるでさざ波のようだ。華やかさはないが貧相でもない、美しい女性。

アルフレドは彼女が運んできた羊羹を手に取りパクリと一口で食べた。

「あら、大きなお口ですね」

ふふ、と口に手を添えて笑う聡子にアルフレドも釣られて笑う。

こうしてこの国に出入り出来るのも果たしていつまでかとアルフレドはふと、朗らかに笑む聡子を見てこの国の進む先に思いを巡らせた。


日本、ドイツ、イタリアの3カ国で結ばれた同盟。ドイツ軍のフランスに対する電撃作戦の成功はこの国に妙な自信を与えたらしい。
中国大陸での泥沼の戦争状態は、米国が抗日戦線を組んだ蒋介石政権を支援することで長期化していた。
互いの反感感情が高まりを見せる中、この国は対米戦争を視野に入れたという。

避けられるか避けられないかは、この国がどこまで他国の戦況と利権を把握しているかにかかっている。


ーー戦争なんて始められたら、俺たちは用済みじゃないか。


楽しいゲームが出来なくなると、アルフレドは眉を潜めた。


「そういえば、あの方からまた届いていましたよ」

聡子の言葉でアルフレドは現実に引き戻された。聡子はどうぞ、と彼に1枚の絵葉書を差し出す。

差出人の名前を見て、アルフレドは目を細めた。


『女神』


「いつも思いますけど、随分なフアンネームですよね」
「彼の小説がよっぽど気に入っているんだろうね、貴方の女神、てところかな?」
「あら、熱烈なファンレターですこと」

クスクスと笑みを零す聡子を一瞥し、アルフレドはその葉書に目を落とす。

執筆者、Kへのファンレターはアルフレドが調べていた、即ちD機関についての情報。そして『女神』とは、この協力者の呼び名だ。自分からこんなふざけた名前を提案してくる変わり者。
しかし、その顔をアルフレドは知らない。
達筆な字で葉書一面に書かれた文章。普通に読めばただのファンレターだ。しかし、この葉書はある一定の間隔の文字を抜き出すとその意味を為す。

アルフレドは文字に目を通した。


『カミシロ マコト』


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