31:白日

まさかこんな近くにいたとは、とアルフレドは上野行きの列車の中でキヨとの会話を思い出していた。

『明子様の字は貴子様によく似てとても達筆なんです』

キヨから見せられた手紙を見てアルフレドは思わず自分の目を疑った。
筆跡というものは個人を特定するのに非常に重要なファクターだ。故にアルフレドは、会社に届くファンレターから社員の筆跡まで、自分の周りにいる凡その人間の筆跡の特徴や書く癖を記憶していた。

『お変わりありませんか、こちらはー』

手紙に書いてあったその筆跡は見間違えようがなかった、それはここ最近、毎日自身の翻訳作業のアシストをする彼女の筆跡そのものだったからだ。

あまりにも近くに居たのだ。一瞬体を駆け巡った動揺は、直ぐに高揚感へと昇華された。
恐らく、D機関は自分に目をつけていた。そして持っているスパイ網を探るために彼女を潜入させたのだ。
しかし、一歩遅かった。



片山明子、そう言った途端目の前の女は身体を震わせた。見開かれた目は、何故、と訴えている。アルフレドは冷笑を浮かべた。

「バレないとでも思ったのかい?」

トンと彼女の顔の横に手をつけば、怯えたようにその身体が震えた。

「何を言ってるんですか…私は」
「この状況でまだそれを言うのか。君なら分かっているだろう?」
「意味がわからな、」


「あの結城という男の元で働いている君なら、この状況を理解出来ないはずがない。D機関のスパイの一員なんだろう?」


結城。D機関において、魔王、と呼ばれる彼。彼の名を出せば言い逃れはできない。
さてどう料理しようか、アルフレドが舌舐めずりをしたその時だった。




「結城、て誰のことなんですか」




思わず耳を疑った。
まだとぼけるかと聡子の顔を見れば今度はアルフレドが目を見開く。
これが演技ならば、彼女は相当優秀なスパイだ。


「私は、確かに片山明子です。でも、結城という人と会ったことなんてありませんっ。私はただ、母が愛したこの地に住みたいと出てきただけですっ!」


不安と恐怖からか上ずった声で叫ぶ聡子にアルフレドは頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。目の前の出来事を理解しようと考えを整理する。

片山明子はカミシロマコトの娘だ。それは使用人のキヨに確認したことだ間違いない。そして、結城は確かにあの場所へと向かった。彼女と結城は接触しているはずだ。定期的に届く手紙も彼女の筆跡。
身寄りのない彼女は結城の元で働いている。だからこそ、わざわざ名前を変えて自分に近づき……


アルフレドはそこである疑問にぶつかった。


「なら、何故名前を」


早鐘を打つ心臓を落ち着かせるようにアルフレドはひとつ息を吐いた。

片山明子は本城聡子と名前を変えていた。アルフレドは、片山明子はいずれ結城を追跡するために自分に接触してくるスパイが出てくることを予期し、わざと偽名を使っていると読んでいた。

本当に彼女が結城を知らないのなら何故名前を偽る必要があったのか。

絞り出した声に、聡子は下唇を噛みアルフレドを睨みつけた。

「そんなことを、どうして貴方に…?」

警戒している瞳だ。アルフレドは苦虫を噛み潰したような面持ちになった。

しかし、直ぐに彼女の警戒心の原因に行き着く。

口を噤む聡子に促すように彼の名を出した。

「カミシロマコト」
「!」
「俺は別にあの家の回しモノじゃない」

そう言えば、聡子は観念したように口を開いた。


「片山の名で働いていれば、何処かで感づかれるかもしれない。それだけは嫌だったんです。これ以上、父には…」


聡子はぎゅっと口を真一文字に結んだ。


考えれば簡単なことだった。アルフレドは己の浅慮さに舌打ちをする。
いくら母と自分を追いやったカミシロの家が嫌いでも、彼女は父親を好いていた。
しかし、当たり前だが正妻と実子である息子がいる立場の人間がそういつまでも妾の子に手をかけることなど、家、としてよく思うはずもない。

彼女は自身の存在を消そうとしていたのだ。片山明子としてではなく本城聡子としてこの地に根付こうとしていた。



(だが、ならカミシロマコトというキーワードは?彼女は結城を知らないのか?)


アルフレドは眉間に皺を寄せた。
新たな疑問が湧き出てくる中、聡子が震える声でボソリと呟いた。


「こんな目に会うなら、他の会社を選んで貰えば良かった」


アルフレドはその言葉を聞き逃さなかった。そして目を見開く。


ーー彼女にこの会社を斡旋した人物がいる。


アルフレドは呆然とした様子で聡子に尋ねた。

「君は、どうしてここに来たんだい」

身体から冷や汗が落ちる。震えた声に、聡子は気付かない。そのまま、彼女は口を開いた。


「職業紹介所の方からの紹介です。今はどこの会社も恐慌の煽りで火の車でしたけれど、ここはその、外国の方のアシスタントはあまり好まれなくて…人出がないと」


アルフレドは息を呑んだ。

(やられた…)

全てが計算されていた。アルフレドが彼女へと行き着くように、彼女も此処へと誘導されていた。
打ちひしがれる様に頭を抱える。

「待ってくれ…、なら、君は彼の何なんだっ!何故あの家で彼が出てくるんだ」
「彼…?さっきから、貴方は誰のことを言っているんですか…っ」
「君は、昔会った大怪我をした男について何も知らないのか!」

アルフレドは縋るような思いで聡子に詰め寄る。かの男の足取りすら掴めていない。いや、それどころか女のことさえまだ何も分かっていないのだ。

聡子は怪訝そうにアルフレドを見遣ると、戸惑いながら続けた。

「……大怪我をした人…、おじ様のことですか。何で、貴方がおじ様のことを」
「おじ様…?どういうことだっ」

聡子の肩を掴んだアルフレドに、彼女はびくりと身体を震わせた。

「知ってるも何も、父のご友人の陸軍の方ですっ、でも、もう何年も会っていませんっ!それ以上も知りません!もういいでしょうっ」

そこまで言った聡子から、堰を切ったように涙が溢れ出す。気丈に振る舞っていた心が限界を迎えたようだった。

その場に泣き崩れた彼女の姿にアルフレドは現実を突きつけられた。



本城聡子、いや片山明子はD機関の人間などではない。それどころか、彼女もまた利用されていた。
追い詰めたと思っていた。しかしそれは全くの間違いだった。

誘導されたのは自分だ。

いつからだ、どこまで知られている?
完膚なきまでに敗北したアルフレドは、それでも必死に魔王への道筋を模索し始めた。

思案していたアルフレドに、啜り泣いていた彼女はふと顔を上げた。


「結城…スパイ…」


そうひとりごちた彼女とアルフレドと視線が交錯した。
怯えた瞳が彼を捉える。


「アルフレドさん、貴方はいったい…」






「御免下さい」

闇が深まる時間帯に似つかわしくない、明るい声が響いた。
明子とアルフレドの間に流れていた張り詰めた空気に亀裂が入った。
弾かれる様に明子は立ち上がり、扉へと向かう。逃げる様に、ドアノブへと手をかけた。

「はい、どちら様ですか」

無用心にも、こんな時間に尋ねてくる人間を確認もせずに明子は扉を開けた。

扉を開けた先、立っていたのは若い男だった。

「あ、瀬戸さん」
「夜分遅くにすみません、本城さん。少し用事を思い出して」
「用事、ですか?」
「はい、実は」

次の瞬間、明子の身体がぐらりと揺れた。脱力した身体を、瀬戸なる人物が抱き抱える。

アルフレドは咄嗟にデスクの2段目の引き出しを開けた。護身用に持っていた銃だ。
手に取ると同時に彼へと向ける。しかし、彼は何も動揺する素振りを見せなかった。

「やめておけ、無意味だ」

明子を抱えた男はアルフレドにそう言うと彼に背を向け、外へと足を進めた。

入れ替わりに入ってきたのは、目深に被ったハット、白い手袋に、不自由そうに動かす足。

向けた銃口に怯むことなく、アルフレドの元へと近寄る男に彼から乾いた笑いが漏れる。
あれ程まで何の手がかりも掴めなかった男が今目の前にいる。鋭い眼光、身体の芯から凍る様に凍てつく視線だ。ギロリと睨み付けられれば、背筋が思わず張り詰めた。



「結城…」



低く呟いたアルフレドに、魔王は口元を歪める。弧を描いた口元から地を這う様な声が響いた。


「どうした、会いたくて堪らなかった顔だろう」


小馬鹿にする様に鼻を鳴らした男、結城はアルフレドを見据えた。
その結城の姿に、アルフレドの顔に思わず笑みが零れた。震える腕を掴む。
彼が感じているのは、畏怖の念だ。
魔王、目の前の男がそう呼ばれる理由がよく分かった。

「いつからだ、いつから俺のことを」
「いつから?その問答に意味はあるのか」
「っ、あんた…」
「貴様が使っていた葉書のネットワークなら既に抑えてある。貴様が動く前から、あれは既に機能などしていなかった。葉書などという他を介したネットワークに頼った貴様のミスだ」
「なっ、…ならあの葉書は…」

アルフレドの脳裏に浮かんだのは、協力者『女神』から送られたあの葉書だ。
結城はニヤリと笑みを深めた。

「俺からのフアンレターは気に入ったか?」

やられた。アルフレドはギリと歯を食い縛る。
最初から自分の築き上げてきたものは相手に筒抜けだった。スパイ網は全て抑えられているだろう。
完全な敗北。ミイラ取りがミイラとなった瞬間だった。



「中佐」



互いに視線を外さない中、ひどくこの場に不釣り合いな声が響いた。
扉の外側から結城の後ろ隣に立った女。少女という程幼くはない、しかし女性という程大人びてもいない。強いて言うなら、印象に残り辛い顔立ち。

「片山明子は瀬戸さんが送り届けます」
「後始末はどうする」
「カミシロに絡む話題を出せばもう此処には戻らないでしょう。瀬戸さんのことは職業紹介所の職員と思っていますから、彼に任せます」

淡々と話す女にアルフレドは目を見張り、そして俯いた。


ーー結城どころか、こんな女にすら俺は届かなかった。


片山明子は彼女のカバーだ。いずれ自分の様な追跡者が出てくることを確信していた彼女が用意したダミー。
与えられた情報を自分は生かしきれなかった。

「お前が、D機関の女スパイか」

吐き捨てる様にそう言えば、意外にも彼女は目を丸くした。「驚き」その表情を浮かべた彼女にアルフレドは違和感を覚えた。
しかし、間髪入れず結城が呆れた口調でアルフレドに話しかける。


「貴様、まだ気づいていないのか」
「は?」


何のことだと、アルフレドは怪訝な視線を結城に送った。結城は彼女に顎をしゃくり指示を出す。
彼女は一歩、結城の前まで来るとアルフレドにニヤリと笑みを向けた。



「数日ぶりだね、リベルタス」



これで何度目だろうか。アルフレドは頭を抱えた。頭を駆け巡る衝撃。

あの時から既に絡め取られていたのだ。
面白い情報を持ってきたと目深に被った帽子から笑みを浮かべていた、少年。

幾つにも張り巡らされた、自分を絡め取る糸。辿っていくうちにそれは自分に絡みつき身動きが取れないところまで追い込まれた。

「貴様は分かっていたはずだ。あの様な子どもは飽きればすぐ手を引くと」

結城の言葉にアルフレドは目を細める。

「D機関の情報がただの子どもに分かるほど、ウチは開かれてはいない。飽き性な子どもがわざわざ気を利かせて士官学校の卒業者リストを用意し、俺の情報を与えることなど、そんな可能性は限りなく低い」

淡々と的確に放たれる言葉をアルフレドは受け入れることしかできなかった。
疑いもしなかった。そうだ自分は、


「貴様は囚われていたのだ。」


結城の言葉に顔を上げ、アルフレドは彼に鋭い視線を遣った。

囚われていた。英国のスパイマスターを出し抜いたという陸軍のスパイ養成機関、そのスパイマスターに。
自分ならこのゲームに勝てると、その過信から見誤っていた、相手の力量を。


何手先も読まれていたゲームに彼は負けた。



「俺を憲兵にでも引き渡すか?」



米国と日本の関係が悪化の一途を辿る現在、在日米国人がスパイ活動をしていたという事実は少なからず両国の関係に1つの波紋を投じるだろう。

アルフレドは戯けた調子で肩を竦めた。



「馬鹿か貴様」



呆れた様なそんな声音が響き、アルフレドは首を傾げる。怪訝そうに眉が潜められた。

「何がだよ」
「貴様を憲兵に引き渡すのなら、わざわざこんな大それたことをする必要はない」

カツンと結城が手にしていた杖をひとつ鳴らした。
そしてそのまま真っ直ぐ、彼に杖先を向け言い放った。



「貴様、ウチに来る気はないか」



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白日


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