32:顛末

「二重スパイ、ですか」


米国へ出立する2週間前。千歳はカバーとして与えられた経歴の確認をしていた。
栗林フミ。渋谷に本店のある商社、日本物産のニューヨーク支店で通訳士として派遣される25歳。
本物の栗林フミは今頃親が躍起になって用意した縁談の席に座らされている。外国、しかも関係が悪化の一途を辿っている米国になど両親が反対するのも無理はない。

そんな千歳を結城中佐が呼び出したのは、米国への潜入任務を言い渡されてから数日経った時の事だった。


「アルフレド ブラウン。表向きは深川の出版社で翻訳の仕事をしているが、米国のスパイだ」

束ねられた紙の資料が無造作に投げられ散らばった。千歳はそれらを手に取り机上で揃えるとパラパラと捲り始めた。
精悍な顔つきの青年は、年は機関員達とそう変わらないだろう。1937年入国、米国の大学での専攻は日本文化。中でも日本の文学者についての研究を進めていたらしく、それが高じて出版社の翻訳家という現在の職歴に繋がったと。

一見極々一般的な米国人男性だ。しかし、結城中佐の調べで既に化けの皮は剥がれている。

千歳は彼に視線を戻すと指示を仰いだ。

「それで、どうしますか」
「奴のスパイ網を利用しろ。あれは既に抑えてある。やり方は任せるが、」

結城中佐はそこで一旦言葉を区切った。
眉を顰めた千歳の瞳を見つめる。

「片山明子は現在職を失っている。カミシロのことが気になるのか、相変わらず本城聡子として動いているらしい」
「……使えということですか」
「お前の好きにしろ」

選択権はお前にある、そう口にする中佐に千歳は小さく唇を噛んだ。

ーーあってないようなものじゃないですか。

中佐がそう言うのだ、それが最善であり最短のやり方なのだろう。

千歳は一読した資料をデスクにそっと置いた。

「お前が発つまでのおよそ2週間の間に事を運べ。必要なら田崎をやる」

話は終わりだと、向けていた視線をデスクに落とした中佐に千歳は短く返事をすると、その場を後にした。




片山明子は自分のカバーだ。
結城中佐が有崎晃の経歴を使いイギリス人スパイを炙り出したように、カバーに食いつかせるやり方は他国のスパイに非常に有効だ。
アルフレド ブラウンは彼らと似ていた。
恐ろしいほどの自負心、スパイという行為もちょっと危険な娯楽程度なのだろう。写真で見た彼の顔には誠実そうな米国人男性ともう1つ、酷く野心的な顔を見ることができた。

自分自身のカバーの使い所、結城中佐は暗にそう言っている。

千歳はアルフレド ブラウンのスパイ網を整理した。
葉書を介した情報のやり取り、それとは別に彼独自のコネクトとして接触していた軍将校の子息、そして片山明子、それらを組み合わせれば自ずとやり方は見えてきた。


外光の入らない薄暗い廊下を歩いた先、千歳はとある部屋の扉を開けた。
雑多に積まれたり、所狭しと並べられた書物と紐で括られた資料。訓練時代はよく此処に来て講義資料を集めたものだと懐かしさに目を細めた。

「どうしたんだ?」

部屋の奥、乱雑に積まれている本の間から顔を出したのは千歳が探していた人物だった。

「お願いがあって来ました」
「何?逢引?」
「間に合っているでしょう」
「そんなことはないさ」

本を片手に千歳に近づいてきたのは切れ目の好青年。
田崎は薄く笑みを作ると肩を竦めた。

「ここ最近、女性と過ごすことなんて大っぴらに出来なくなったからね」
「産めよ増やせよ、のはずなんですけどね」
「ごもっとも。なんなら相手してくれるか?」

流れるような動作で頬に手を添えた田崎の手をつまらなさそうに払うと、千歳は彼を見据えた。

「女性に飢えている田崎さんに朗報です」
「その言い方はなんか嫌だな、神永みたいで」
「本城聡子という女性をある出版社に誘導して下さい」

眉尻を下げた田崎に構わず、千歳は用件を手短に伝えた。爽やかな笑みを携えてきた田崎の目が細められる。

「どういう意図がある?」
「米国のスパイを炙り出して引き入れる為です。出版社の場所は深川、マトはそこを拠点に活動しています」
「女は何故餌になるんだ?」

至極最もな疑問だ。千歳は視線を下に落として一瞬逡巡した。
カバーである自身の経歴を無闇に話すのはあまり得策ではない、が、どちらにしろ彼には最後の仕上げをやってもらう必要がある。
千歳は彼を見据えた。

「彼女は、私のカバーです」

田崎の瞳が見開かれ、暫し彼女を見つめた。そしてひとつ溜息をつくと肩を竦める。

「なるほどね、大胆な作戦を考えるものだ」

ちらりと田崎から見定めるような視線を送られたが、千歳はその視線に眉ひとつ動かさずに締め括った。

「あまり時間がないようなので、お早めにお願いします」

相変わらずの彼女の対応に、仕方ない、という風に肩を竦め、困り顔を向けた田崎に千歳は頭を下げる。

用は済んだと回れ右してその場を離れようとした彼女に、そう言えば、と田崎がひとりごちた。


「何かあったのか?」


ドアノブに手を掛けた千歳の身体がピタリと止まる。何気ない言葉であるにも関わらず、否応無しに千歳の脳裏に思い出されたのはかの青年のことだった。

交わした口付け、汗ばんだ肢体、絡め取られた身体。たった一度、一夜の交わり。ただひたすら自分を求めた彼の熱の籠った視線に捉えられ、そして置いていった。


ーー過ぎ去りし過去は皆美しく


千歳は瞳を深く閉じ、そしてゆっくりと開いた。
くるりと振り返り田崎に視線を遣り笑みを貼り付けた。



「いえ、何も」



ーーーーーー



『君に働きには感謝しているんだよ?けれどその、ねぇどうしてもあの方のご息女を受け入れないわけにはね?』


程の良い足切りにあったのが1週間前。2年勤め上げた商社ではタイピストとして重宝されていたと自負していたが実際はいつでも廃棄処分できる粗大ゴミだったようだ。

片山明子は盛大な溜息をついた。自身を、ゴミ、と表現できるほど今の自分は廃れているらしい。
間借りしている質素な一軒家に白河から移り住んだのは高等女学校を卒業して直ぐだった。母親の影を追うように移り住み、大学校へと通い、白河の使用人達に心配を掛けた事だけが心残りで定期的に手紙を書いていた。
卒業後、やっとの事で掴んだ仕事。それは恐慌の煽りと大人の事情というものに、吹けば飛ぶ塵の如く消えていった。

明子は盛大な溜息をつき間借りしているアパートの一室で新聞を眺めていた。

(大学校まで出してもらっておいて、こんなことじゃあね…)

ちらりと頭の片隅に懐かしい顔を思い浮かべる。もう何年も会っていない実の父親だが、学費の一部を負担していたと使用人からの手紙では知っていた。
母は父を好いてた。それがあるからだ、明子が家を選んだ父親を慕っているのは。


(だからこそ、断ち切らないと)


思い浮かべた顔を振り払い、何か良い求人はないかと紙面に目を通していた彼女の瞳に、ピタリと止まった文字。
明子は目を見開いた。




「…えぇ、英語は大丈夫です。問題はありません」
「それなら良かった!いやぁ、僕らも参っていたんですよ」

飯田橋駅、東京府職業紹介所。
紙面を見た明子は直ぐさま電車を乗り継ぎ向かった。
紙面に小さく掲載されていたのは、翻訳の補助の仕事。国内の英国人や米国人向けの翻訳を手がける翻訳家の手伝いだった。
紙面を見たと伝えれば、切れ長の目の好青年が案内をしてくれた。
聞くところによれば、昨今は珍しくない外国人でもその仕事の補助となると中々人が集まりにくいと言う。特に、今は憲兵や特高の姿を街中で見かける回数も増え、面倒ごとに巻き込まれるのでは、という不安な空気は人々に伝染していた。

「英語が堪能な方は何人かおられたんですけれど、如何せん、米国人相手だと腰がひける人が多くてですね」
「何の為の知識なんでしょうね」
「いや全くです」

邪気のない笑みを向けられ明子は頬に熱が集まるのを感じた。年は20代半ばだろうか、若い男が減っているこのご時世に珍しい。

仲介役を担ってくれるという彼の申し出に明子は素直に応じた。

「そうしたら僕の方から連絡を入れておきます。仕事始めは、」
「直ぐにでも!お願いします!」

手早く書類整理を済ませた男は明子の必死の様子にポカンと目を瞬かせる。しかし直ぐに眉尻を下げてクスクスと笑い始めた。

「そんなに必死にならなくても大丈夫ですよ」

穏やかな笑みを携えてそう言われれば、明子の顔は頬だけではなく耳まで真っ赤に染まった。
何せ金がないと給金を送るどころか生活すらままならない。そんな必死な形相を見られ明子は罰が悪そうに俯いた。

しかし、熱を冷ますようにかぶりを降り、改めて男性と向き直る。

「よろしくお願いします、えっと」

ちらりと貰った名刺に目を遣ると同時に、男がにこやかに口を開いた。



「瀬戸礼二です。こちらこそ宜しくお願いします、本城聡子さん」








(お父様に頼らずに、私は……)


微かに聞こえてきた声に明子の沈んでた意識が浮かび上がってきた。


「……さん、本城さん」
「…ん、」

ゆさゆさと揺さぶられる身体に眉を顰める。薄っすらと目を開ければ朧げな視界の中に彼の姿が入ってきた。

「あれ…私、」
「良かった、急に倒れられたから驚いてしまって」

彼、瀬戸の言葉に明子の意識が漸く覚醒した。そして蘇ってきたのは、必死の形相で自身に詰め寄った精悍な顔つきの彼とのことだ。
明子は目を見開いた。震え始めた身体を両腕で抱くと、瀬戸を見上げる。

「わたし、あのっ、その」

言葉が喉元まで来ているのに紡がれない。
何から話せば良いのだろうと口をパクパクさせていると瀬戸は穏やかな表情で彼女を抱きすくめた。
明子の強張っていた体を解すようにその腕は優しく彼女を包んだ。

「大丈夫、怖いことはもう何もありません」
「あ、の、アルフレドさんが急に変なことを、私何も知らなくてっ」
「落ち着いて、大丈夫だから」

後頭部を撫でられ、腕に一層力が込められれば明子の身体の強張りは自然と抜けていった。
身を任せられる男性に守られているという安堵から、明子の目から思わず涙が溢れ出す。
瀬戸はそんな明子をあやすように頭を撫でた。

「怖かったでしょう、もう大丈夫です」
「わたし、わたし」
「あの男は憲兵が連れて行きましたから」

だから安心してください。

瀬戸の口から紡がれたその言葉に明子はピクリと反応した。涙に濡れた目を瞬かせ瀬戸を見上げる。

「あの瀬戸さんはどうしてあそこに」

そもそも、何故タイミング良く瀬戸があの場に来たのか。
明子の問いに、瀬戸は先程までの穏やかな表情から一転、神妙な面持ちを見せた。


「実は、…うちの紹介所に連絡が入ったんです。あの男は米国のスパイだと」
「!」


明子は、スパイ、という言葉にハッとした。

アルフレドは明子が何らかのスパイと関わりがあるようなことをしきりに言っていた。
勿論、思い当たる節は明子にはない、が、一つあるとすれば自分の実の父親とその家のことだった。彼は自分の本当の名と家の事を知っていた。

顔を強張らせた明子に瀬戸は目を細めると声を低くして囁いた。


「本城聡子というのは、偽名ですね?」


明子の大きな瞳が更に見開かれた。何故それを、と顔に書いてあったのだろうか、瀬戸は「やはりですか」とひとつため息をついた。

「詳細は申し上げられませんが、あの男は貴女の経歴を調べていたようです。貴女の本当のお名前やご実家のことなどを」

ドクンと明子の心臓が跳ねる。体から血の気が引き握りしめていた瀬戸のシャツに更に皺を作った。

米国、スパイ、そして実の両親、家。
嫌でも点と線が繋がっていく。

「そんな、私は」

口を開きかけた明子に瀬戸は畳み掛けるように囁いた。


「連絡を下さったのは、カミシロという方でした」
「!、ぁ…」


カミシロ、その名を聞いた明子の脳裏に浮かんだのは明子を愛してくれていた父親の姿だった。
名を聞いた明子は一層目を見開くと、諦めたように力なく項を垂れた。

結局自分は何時までも庇護されている小鳥だったのだ。親鳥に餌を与えられる、守られるか弱い雛鳥。


(お父様は、きっととても危ないことをしていらっしゃるんだわ。だから私を、)


明子の胸に父親への一抹の不安がよぎる。
しかし、同時に考えたことは、自分自身の身の振り方だ。あのまま米国のスパイの彼と一緒にいたらどうなってたかと思うと身の毛がよだった。

そんな明子の不安を見透かすように瀬戸が諭すように彼女に囁いた。

「ここにいる限り、もしかしたら何か良からぬことに巻き込まれるかもしれない。」
「瀬戸さん…」
「帰る所があるのなら、そうした方がいい」

貴女のためです、とそっと手を握りその瞳に見つめられれば、思わず視線を逸らす。

名前を変えカミシロの家を気にしながらここで暮らすか、居所の分かる白河へと戻るか。

(選択肢なんてあってないようなものじゃない)

明子はひとつゆっくりと息を吐き、瀬戸を見つめると意を決したように頷いた。




ーー




『米国のスパイを二重スパイに仕立て上げる』

潜入捜査前に言い渡された任務は田崎や結城中佐の計らいもあり滞りなく終えることができた。
調教は彼の役回りだ。

千歳は自室で荷造りを終えるとベッドの上に横たわった。そのまま身体を上向かせ天井を仰ぎ、今頃白河へと帰り使用人に迎え入れられているだろう彼女に想いを馳せた。


『親鳥小鳥共ニ健ヤカカワリナシ』


(少なくとも健やかではなくなりましたよ)


手の甲を瞼に当てて溜息をつく。

自身のカバーとしての機能を果たしていた片山明子と千歳には接点などなかった。ただ、カミシロの忌み子として生を受けた彼女はカバーとしての役割をもう10数年前から与えられていた。
結城中佐が彼女に会ったことも事実であり、彼とカミシロマコトの関わりも事実だ。
彼女にとっては、大切な父親とその友人程度にしか記憶されていなかったことも、彼らの中では計算されたことだった。

千歳は深く息を吐いた。



(できれば、貴女には)



そこまで思い、千歳は首を振った。



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顛末


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