33:夢現

朧げながらも覚えているのは父親の横顔だった。手を引かれて歩いたあの時、彼はとても無表情だったけれど不思議と怖くはなかった。

「とうさま、どこへ行くの?」

父は答えなかった。ただ、こちらを見て微笑んだ。あぁ、この顔だ。ひどく安心したのを覚えている。

煌びやかな都会とは違う片田舎。物心ついた頃にはここにいた。父親は月に一度会えるかどうか。自分の世話をしている侍女や使用人達は千歳の素性について言及するどころか寄り付きもしなかった。

度々会いに来てくれる父親が千歳は好きだった。表情をなかなか変えない彼だったがその分笑みを見せたときの嬉しさは倍増した。


ある日、千歳が父親に手を引かれて向かったのは小さな社だった。村の外れにあるそこは村民でもあまり訪れない。
長い階段を登り鳥居をくぐった先、拝殿のそばに人がいた。

「とうさま、人がいる」

父と同じくらいの男性。身嗜みは整っていて纏うその雰囲気はとても片田舎に住む人間とは思えなかった。
ただ特徴的だったのは、戦地へ行っていたのか片腕を吊り足を引きずるその姿。
思わず千歳は目を奪われる。
自分の手を引いていた父はその手を離すと彼に歩み寄り何やら話をし始めた。

何だろう、と千歳は彼らの姿をぼぅと見つめる。父親と話す人物の瞳はとても冷たく、暗く、底知れぬ畏怖感を覚えた。

「……ふざけるな」
「本気だ。いずれ役に立つ」
「必要ない」
「なら、」

自分の眼の前で2人は言い争いを始めた。
大人はいつも誰かと争っては傷つくくせに、と千歳はつまらなさそうに周りへと視線を移した。

社には神様がいる。そう当たり前に話す大人達に、冷ややかな気持ちを千歳はいつも感じていた。下らないものを信じてるから人の心を読み誤る。
神なんてどうだっていい。本質はそれを利用する輩の心の奥底だ。

神は争いを止めてはくれない。



「おい」

呼びかけられ、千歳が体をそちらに向けると先程まで数メートルは離れていた男性が目の前にいた。
いつの間に、と目を瞬かせる千歳を見下ろし彼は抑揚のない声で話しかける。

「貴様が登ってきた階段は何段あった」

千歳は訝しげな視線を送る。頭でも打っているのかこいつは、と後方に控える父親に抗議の目を送れば、我関せず、と視線を逸らされただけだった。

何がしたいのだろう、そう冷ややかに思いつつも問いには答えた。

「42」

覚えようとして覚えていたわけじゃない。ただ見ていただけだ。

千歳のこの記憶力、洞察力、子供離れした思考力は度々周囲の大人から君悪がられた。
仕方がないのだ、目に入り耳に入る情報を脳で処理する速度が他と違うだけだ。
しかし、それに対する選民意識はなかった。ただ、少し違うだけ。


唐突に、目の前の男が数字を羅列した。ぽかんと阿呆のように口を開けた千歳を一瞥し、再び問う。

「先ほどの数字を逆から言え」

あぁ、この人は自分を試しているのか。千歳はストンとその意図を飲み下して挑戦的な目を彼に送った。

「61、2507、935、463……あと」
「遅い。回答に詰まるな」
「っ、……26と84…」
「その2つは逆だ。貴様の頭には何が詰まっている」

歯に着せぬ物言いの男に、千歳は勃然とした態度を示した。そもそもお前は何なのだと。

しかし同時に感じたのは、自らを軽んじられたこと以上に、その程度のことに反応できなかった自分に対しての苛立ちだった。
この男は、年端もいかない小娘を自身と対等に扱い試している。それは周りの大人を冷めた目で見る千歳にとっては新鮮だった。


(…くやしい)


奥歯を噛み締め鬱屈した気分となる千歳を男はじっと見つめる。
視線を逸らすものかと千歳は負けじと身震いするようなその眼光を受け止めた。



「……良いだろう」



男の口元が歪み、高く弧を描いた。その笑みに目を瞬かせた千歳を他所に男は父に顔を向けた。

「好きにするぞ」
「最初からそう言っているだろう」
「………そうだな」

2人の会話に千歳は思考を巡らす。答えを導き出す前に、千歳の目線と男の視線が交錯した。
千歳は思わず姿勢を正した。
自分と同じ高さまで腰を低くした男に千歳の心情は穏やかではなかった。今度は何を言われるかと身構える。
彼の瞳は暗く、深いその闇に吸い込まれそうな、そんな感覚に陥る。

男は視線を逸らさず、千歳の瞳を捉えていた。常人なら思わず目を背けたくなるようなその瞳。
しかし千歳はその場でじっと彼を見据えた。
決して口を開かず、相手が言葉を発するまで口を噤む。




「……良い判断だ」


ふ、と目の前の男が破顔した。その顔に千歳は面食らった。

(笑った……)

しかし一瞬だ。男は再びあの凍てつくような眼光と人を寄せつけぬ気配を纏った。

男は緩慢に立ち上がると、父を見遣る。
父はその視線に肩を竦めた。
男と交錯していた視線を落とし、伏し目がちに千歳を見る。

千歳と視線が合わさると、眉尻を下げ微笑した。
その様子に千歳はきょとんと首をかしげる。

父は、再び男に視線を戻した。



「何処へでも行けばいい。どちらにしろ何者にもなれない子だ」



放たれた言葉に千歳は息を呑んだ。
しかし、彼らはそんな彼女を気に留めることもなく続ける。

「……あの娘はどうする」
「そのままさ。白河はいい土地だ。それにいずれこの子と為る時も来る」
「…相変わらず、食えない男だ」
「お前に言われたくはない」

会話の意味が分からないほど、愚かではなかった。けれど、耳に入る父と男の言葉は何処か現実味がなかった。言葉として入ってくる情報を整理するとどうやら自分はこの男に買われたらしい。


千歳は父を見た。いつものように優しく自分を包み込む相貌を変わらず向けられる。
きっと父は……彼は、実の娘にも同じ感情を向けているのだろうと、幼心にそこまで思い至った。



千歳はゆっくりと目を閉じた。




幼い自分の一番古い記憶には常に彼がいた。寡黙で、その笑みはしかし安心する。
千歳は彼の妻のことは知らない。
そして自分の出自も、名も何もかも分からずじまいだった。ただ、物心ついた時には此処にいた。周りの者は腫れ物を扱うように自分に接した。

彼は千歳の父となった。けれど千歳は知っていた、彼にはきちんと家があることを、家族がいることを。

千歳は苦笑した。




ーーーこの人が新しいとうさまになるのかな





「おい」

闇が支配していた視界に光を入れ、千歳は上から降ってきた声に顔を上げた。端正な顔つきの男は淡白に言葉を発した。

「これから貴様は俺のもとに来ることになる。依存はあるか」

瞳に感情を映さない男は申し分程度にそう聞いてきた。だが意味のない問答だ。答えなど決まっている。

千歳は先ほど、彼が言った言葉を思い出した。


『何者にもなれない子だ』


あぁ、そうだ。



ーー何者にもなれないなら、何処へだって行ける



「何処へだって行くよ」

するりと口を出た言葉。男が微かに目を見開いた。
千歳は感情の焔が灯らないその瞳に自分を映すように、しっかりとその目を見据えて放った。



「私を、連れてって」








ゆっくりと目を開ける。視界が朧げな中、辺りを見渡して状況を把握しようとしたら聞きなれた声が耳に入ってきた。

「起きられましたか」

顔の作りに比べて幾分か低い声。カツンカツンと自分の座る椅子の後ろから目の前に立った彼の顔を、千歳は気怠げに見つめた。

「実井さん」
「あぁ、ひどい顔だ」

目の前の彼、実井は椅子に座る千歳の前にしゃがみ込み彼女を軽く見上げた。

「すみませんね」

よく言う、と千歳は心の中で毒付く。D機関の中でも実井は顔の割にえげつない。可愛らしい顔をして、爽やかな笑みを浮かべて、その内実はひどく冷徹だと千歳は感じていた。

彼女の両腕は座った椅子の後ろで拘束されている。
ちらりと床を見れば、空になった注射器が二本無造作に捨ててあった。

「意外と喋らないので痺れを切らしてしまいまして」

眉尻を下げ、微笑む彼だがその目には光がない。やはりこの人は恐ろしい人だと千歳は自分の認識の正しさを再確認した。

「それにしても、貴女と中佐の関係は意外でした」

朗らかな笑みを浮かべる実井は立ち上がると彼女を一瞥した。探るようなその瞳に千歳は口を閉じる。
そんな彼女を他所に彼は彼女の周りを歩きながら楽しそうに喋り続けた。

「随分と前から共におられることは知っていましたけれどね」

ぴくりと千歳はその言葉に反応する。実井はその反応を見て密かに口角を上げた。

「貴方の心はやはり彼に囚われているということがよく、」
「実井さん」

気を良くして饒舌になる実井に千歳が声をかける。
何だと彼女を見つめ立ち止まった実井に千歳は、

「無意味な問答です」

つまらなそうに言い放った。

楽しそうにしていた実井の表情が微かに歪む。千歳はそんな彼を睨みつけた。
サディスティックな面を見せるのは結構だ。けれど彼の言葉から見るに、自分は何も喋っていない。
自分と中佐の関係性を話していれば、彼は嬉々としてその情報を前出しして動揺を誘うはずだ。
回りくどく、勿体振るくせに核心に触れないということは何も話してはいない。

当たり前だと千歳はほくそ笑む。

自身と結城中佐、そして彼のことは深層にしまい込んでいる。殺されるまで喋ることはない。
それぐらいの自負心は自分にもあった。
2本使おうが何本使おうが、彼がこの訓練で探ろうとした自分の過去は決して外部に漏らすことはない。

「少し、不満ですね」

声音に確かにその色を滲ませた実井は、部屋の隅にあるデスクからもう1本注射器を取り出す。千歳を一瞥してニコリと笑うと彼女に近づいてその首に指を這わせた。

「貴女のプライドが折れるところを見てみたい」

妖艶に笑うその姿はいつもの彼からは想像がつかない。けれどこれも彼なのだろう。相手を惑わし感情を操り、最後にはそのプライドをへし折る。

彼の指が首筋から顎へと伝い、千歳は必然的に顎を持ち上げられた。彼と目線が合えば笑顔だけれど目は笑っていない、そんな表情を拝むことができた。

「もっと、違う顔を見せてくれるかと思ったんですけど」

顔色1つ変えず彼を見返す千歳に実井はつまらなさそうな声を出す。
そんな彼を見つめて千歳は口を開いた。

「実井さん」
「何ですか」
「惑わされすぎです」

千歳の言葉に実井はぴくりと眉を動かす。

「私情を持ち込んだら尋問じゃないでしょう」

とどめを刺すような彼女の物言いに実井は訝しげな視線を彼女に送る。しかし、ハッタリでそう言っているわけではない彼女に肩をすくめた。

「貴女は、人によって甘かったり厳しかったりしますね」
「?、どういう」
「そのままの意味ですよ」

実井は苦笑すると、左手に握っている自白剤をおもむろに彼女の首筋へ持って行った。あと少し、力を加えれば針が刺さり薬が注入される位置だ。

「三本行けばもう少し優しくなってくれますか」
「実井さん」

ゆっくりと力がはいる。





「何をしている」



尋問室のドアが開き、地の底を這うような低い声が部屋に響いた。
千歳が視線をそちらに向ければ鋭い眼光を向ける男がそこにいた。

「中佐」
「時間をかけ過ぎだ、実井。限られた時間内での尋問だ」
「……はい」

彼にそう言われれば、実井は大人しく手にしていたものを元の場所に戻す。
結城中佐が目線で彼に下がるよう命令すると、彼はすんなりとそれを受け入れた。長居は無用だ。
今回の訓練はそもそも、時間内に相手から情報を聞き出す訓練だった。

実井は訓練相手が千歳と知るや否や、引き出す情報を決める際に間髪入れず『過去』を指定した。

D機関の人間は一切の経歴を捨て去っている。そして互いにそれを探ることもしてこなかった、無意味だからだ。

しかし、一本目の自白剤に耐えた千歳に二本目を使った時点で彼の負けは確定していた。
本数の問題ではない。彼女は能力においては彼らと同じ化け物だ。


部屋を出て行く実井に目もくれず結城中佐は千歳の側へと寄ってきた。

「結果は?」
「まずまずですが、少し熱くなり過ぎです。意外と不満を出される方です」

パラリと彼女は縛られていたはずのロープをいとも簡単に外した。多少のふらつきがある彼女に結城中佐は手を差し伸べようともしない。
その必要がないからだ。
そんなことをすれば、彼女の自負心は砕かれるだろう。

「相手が簡単に喋るような輩なら適材ですけれど、少なくとも私やここに身を置く者相手にはよろしくないかと」

表情1つ変えずに報告を聞く結城中佐を見て、千歳は相変わらずだと感心する。

彼は自分と同等の人間を求めている。しかしそれは、全員が彼と同じになればいいわけではない。
遜色なく任務をこなす人材育成、しかし適材適所だ。任務は誰でもこなすことができないといけないが、適した人間は必ずいる。
それを見極めるのも彼の役目だ。

「分かった。下がれ」

一言。結城中佐は千歳にそう告げた。訓練は終わりだと。
その言葉に無言で彼女はその場をあとにしようとした。

「千歳」

歩き出そうとした千歳に結城中佐が声をかけた。

「次は明日の二二○○だ」

無機質な声。しかしその声に千歳は口角をわずかにあげて振り返り、分かりました、と答えた。



『私を、連れてって』



振り返った先に見えた彼の顔、薄い、しかし満足そうな笑みを彼女は目に焼き付けた。




(何処までも、何時までも)




ぐらりと揺らいだ視界。
意識が深淵へと落ちていく。


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夢現


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