34:覚醒

突然、眉を顰めるほどの刺激的な光が当てられ目が眩んだ。微睡んでいた意識はそれだけで否応なく覚醒させられる。

身を捩ればギシリと木椅子が軋む音が響いた。千歳は項垂れていた頭を上げ、顰めていた目を開いて真正面を向いた。


「気が付いたかい?」


中背中肉。無駄な肉など一切付いていない体つき。欧米系にしては筋肉の着いていないその体だが、結城中佐と同じく、必要な筋力は保持してあるのだろう。
千歳は目を閉じると今一度目の前の人物を見据えた。
柔和な笑みを浮かべた彼の目に光はない。当たり前だ。


――米国諜報機関のスパイマスター


自分が今置かれている状況が如何なるものかは理解していた。




栗林フミ。渋谷に本店のある商社、日本物産。そのニューヨーク支店で通訳士として働く25歳。1940年12月入国。

千歳はひとつ溜息をつくと笑みを携えながら冷眼を向ける男に語り掛けた。

「随分と女性に対する扱いがなってないのね、アメリカのスパイは」

僅かに口角を上げれば、男の目元がぴくりと動く。人の良さそうな笑みが嘲る様に歪められた。

「生ぬるいことをしていても意味がないのでね」
「余裕がないのかしら」
「そうじゃない。だが、あのイギリスのスパイマスターを出し抜いたスクールを出ている人間に加減をするのは失礼だろう?」

今度は千歳の目元が反応した。ニヤリと男は笑みを深めると、傍に控えていた屈強な男に顎で指示を出した。頷いた男が茶封筒から紙束を取り出し、彼と千歳を隔てているデスクに無造作に投げた。
十数枚の紙にはびっしりと英文が記されている。

「よく調べたものだ」

目の前のスパイマスターは右手の指で木製のデスクをコツコツと叩き始めた。

「我が国のドイツへの軍事輸出。各種資材の統計資料から見る備蓄状況。日本の大陸貿易における貿易額の試算と対アメリカの貿易額の試算を鑑みた今後の経済動向。あぁ、あと経済界における反ユダヤ勢力の確認か」

左手に持った資料を読み上げていく男の声に千歳は静かに耳を傾けていた。
事実だ、全て自分が栗林フミとして渡米してからこの国で調べ上げたこの国の国力の調査結果だ。
そして、あとはこの情報を自分が指定されている打ち癖を用いて本国へと打電することが今回の任務だった。

男は眉一つ動かさずに言葉を聞いている千歳を見遣ると、目を細めた。


「D機関と言ったかな」


その言葉に千歳は彼に眼差しを向けた。

「君はそこのスパイマスター、結城中佐の秘書であり、そこの生徒と同じ訓練を受けたスパイだ」
「随分とはっきり言うのね」
「おや、意識が混濁していた理由が分からないほど愚かではないだろう?」

千歳は小さく舌打ちをした。
余裕のない狩人は何をしでかすかわからない。

「昨今はああいう薬がとても便利でね、おかげでお宅だけではない、他の危ない連中も随分と喋ってくれたよ」

くつくつと笑う男に千歳は眉を顰めた。危ない連中、即ち共産主義圏のソ連あたりのことか、自由主義との相性はつくづく悪いものだと閉口した。

千歳は伏せていた目を探る様に彼に向ける。自分が今どこまで喋ったか、それは彼女にとって大した問題ではなかった。


――そんなことはどうでもいい。


千歳の視線に気づいた男は先ほどまでの笑いを消すと、軍人面へと表層を整えた。

「君は自分の置かれた状況を冷静に判断できているようだね」
「あまり考えたくはないけれど」

肩を竦めて見せれば男はふむと唸った。窓硝子、恐らくこの向こうには数人の軍関係者が待機しているはずだ、男がそちらを一瞥すると先ほど千歳の前に資料を投げた男とは別の男が入ってきた。
手にしているのは先ほどと同じ紙、そして羅列してあるのは暗号化された文字。

千歳は目を細めた。

「これが何かは、わかるかね」

男は糸目を更に細めて口元を歪ませた。
千歳はきつく唇を噛みしめて項垂れた。



切迫した対米外交を打開し、開戦を回避しようと外務省は動いていた。
大陸から手を引かない日本に対しての経済封鎖による影響は、国内産業に大きな打撃を与えていた。日本の主な輸出品は絹などの布製品、対して石油などの地下資産は皆無。米国からの輸入に頼らざるを得ない経済情勢だった。
加えて問題として挙がったのは、英国である。
ドイツとの戦線に米国を引きずり込む算段を整えている西側の大国は、確実に日米の関係悪化に付け込む。ドイツと同盟を組んでいる日本、そして米国を戦禍へと誘うだろう。


千歳の前に置かれた資料には、開戦回避に動く外務省の駐米大使充てに送られているはずの、極秘電報の内容が記されていた。それが意味するところが分からないほど、愚かではない。


「君たちの国の暗号文は何故こうも単調なのか理解に苦しむ。」


男は鼻を鳴らして口角を上げた。返す言葉もないように、千歳は口を閉ざしたまま瞳を閉じた。


『せいぜい国際政治くらいなものですよ』


甘利の言葉を思い出し千歳苦笑する。
手札の分かるゲームなど一方的な試合にしかなりはしない。
米国国務長官との数か月に及ぶ会談。それに対する内閣の反応、今後の方針は全て筒抜けだった。
陸軍とは別の秘密暗号文を採用していた外務省もこの体たらくなのだ。



そして、暗号文に記されていたのは何も外務省の情報だけではなかった。



「余計なことを」



吐き捨てた千歳の言葉に男は肩を竦めた。


「こちらとしては、それのお陰だったんだがね」


トントンと資料のある個所を男が指で叩く。記されている暗号を読み解き、千歳はため息をついた。

「ご丁寧に、君が潜入した時期や所属会社まで記しているとは、日本人は足の引っ張り合いが好きなのか?」
「権力の中枢と軍は仲が悪いものでしょう」
「違いないな」

心底可笑しそうに笑みを零した男を尻目に千歳は改めて内容を整理した。


開戦回避を望むのは何も日本国の総意ではない。経済封鎖の鬱憤から開戦路線へと舵を切りたい連中は、残念ながら少なからずいるのが現状だ。
そんな開戦派の温床となっているのが、結城中佐率いるD機関の親元、大日本帝国陸軍だった。

千歳は決してそんな下らない連中のために任務に当たっていたわけではない。
外交とは常に一つの情報が物を言う。使える手札を用意しておくことは往々にしてあることだ。開戦準備の為の国力調査などではない、真逆だ。
米国との膨大な輸出入額に対して、統治下の満州、そして朝鮮との輸出入額は微々たるものだ。加えて、この国が仮に開戦した場合の資材備蓄状況は日本の数倍に及ぶ。

千歳の試算した結果は、如何に米国と一戦交えるかの材料にされる為のものではない。
米国を切り捨てた場合の日本経済の損害の大きさと開戦後の経済動向を図り、引いては戦争回避の材料とする為だ。

しかしながら、軍を忌み嫌う外務省は、そんな考えなど露知らない。


秘密電報に打たれていたのは、千歳の所属機関、米国での任務内容、任地。
そして、それらをご丁寧に書き連ねた後に記されていたのは、内閣から駐米大使への警告。

この女に妙な事をさせるな、会談が台無しになる。

そもそも妙な事など考えてないというのに、千歳はひとつため息をつき、項垂れた。
開戦準備の為に陸軍のスパイが動いている、誤った事実に基づいてこの電報を打ったのだろう。


「国に売られた気分はどうだね」


至極楽しそうに男は目尻を下げて千歳に問うた。
千歳は項垂れたまま掠れた声を発した。

「さぁ、何も」
「君の任務は失敗した。それも、自国の人間によって暴かれた」

男はカタリと立ち上がると、2人を隔てているデスクを回って千歳の真後ろへと移動した。
そして千歳の肩に手を添えて耳元に顔を近づける。

「君は優秀だ。情報の調べ方、量、それらから推察される統計データ。なるほど、全て完璧だ。オマケに足が付いている様子もない」
「褒めても何も出ないのだけれど、現にこうして捕まっているのだから優秀ではないでしょう」
「いいや、これは思わぬ誤算だろう。君にとっても、私にとっても」

男はニタリと笑うと、まるで逢い引きに誘うような艶やかな声音で囁いた。




「君を勧誘したいのだよ、レディ」




ーーー


覚醒


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