35:苦悩

深夜。大東亜文化教曾の屋上で波多野は煙草を吹かしていた。
茹だるような夏の暑さは、昼間だけでなく夜もこの地を襲う。暑さのせいで冴えきった思考を落ち着かせるように、波多野は郊外の下宿先から此処へと足を運んだ。

D機関を卒業した波多野達一期生は現在、近場の下宿先を拠点としている。
訓練時代はこの大東亜文化協曾で寝食を共にしていたが、現在は各々が結城中佐から指令を受け取り活動する。
一堂に会することは2度とないだろう。しかし、こうして任務の合間に此処へと寄れば互いに顔を会わせることもある。

波多野は紫煙を吐き出すと目を細めて屋上から見える街並みを眺めた。


千歳の任務が滞りなく進んでいる。
その情報が上がってきたのは先日だった。しかし、情報の送り主は彼女自身じゃない。


在米駐在武官、神城誠大佐。


結城中佐宛に送られてきた秘密電報に綴られていた内容によると、現在、『首尾通り』米国諜報機関に尋問を受けている、ということだった。

電報を受け取ったのは波多野だ。その内容に面食らったことを覚えている。


外務省の秘密電報は既に数ヶ月前から解読されていた。即ちそれは、米国国務長官とこちらの駐米大使の内容に対するこの国の政府の意向、譲歩策まで筒抜けになっているということだ。

しかし、陸軍並みにエリート意識の強い外務省は頑なにその事実を否定した。
曲がりなりにも、開戦回避の為の交渉は進んでいる。開戦促進派の陸軍側にその事実を指摘されても、首を縦に振るなどあってはならない。
犬も食わないプライドだ。下らない足の引っ張り合いに埒があかないと判断した参謀本部から指名されたのが、D機関だった。


波多野が聞かされていた任務は、あくまで米国の経済動向と資源備蓄状況、そしてそれを分析した結果だ。頭の固い陸軍開戦派に明確なデータを突きつける、その為の渡米だと。

しかしそれこそが、カバーだった。

外務省が打電した、秘密暗号を用いた文書。それを解読されていることを明確な事象を持って証明する。それこそが、この任務における最大の目的。


千歳が収集した情報は逐一結城中佐へと送られていた。それは陸軍の秘密電報などではない別のチャンネルだ。

波多野は数ヶ月前から結城中佐の執務室で度々見かける青年を思い浮かべた。

コードネームはリベルタス。

元は米国のスパイだった男を引き入れたこの一件には千歳自身も関わっているらしい。


波多野は鬱屈した想いを吐き出すように息を吐いた。
虚空を眺め、昼間行われたやり取りに想いを馳せる。






「餌として行かせたということですか」

胸に湧き上がる不快感を押し殺して波多野は目の前に鎮座する魔王に尋ねた。
暗い影を面に落としている為、その表情は窺い知れない。

結城中佐宛に届いた暗号電報をD機関独自のコードブックを基に解読した内容に波多野は驚愕した。
彼女がカバーとして遂行していた任務は、言うなれば取るに足らないものだった。ただ囮となる為に、下らない身内同士のいがみ合いに彼女は利用された。

囚われたスパイの末路など想像に難くない。何をされるのか、なにが待ち受けているのか、理解しているからこそ波多野は目の前の魔王に問うた。


ゆらりと鎮座していた影の面が波多野に向けられ僅かだがその表層を覗かせた。
変わらぬ鋭い双眸が彼を捉えた。

「不満か」

声音を変えず、感情を読ませない。波多野は眉を顰めた。

「現在の米国との関係を考えれば、今捕らえられれば必然的に脱出は困難になります」

あくまで冷静に淡々と言葉を紡ぐ。眉ひとつ動かさない魔王の顔にまるで全てを見透かされている感覚に陥り、居心地の悪さを感じざるを得ない。

しかし、それよりも確かめたいのだ。彼の真意を、彼女をどうしたいのかを。


波多野の探る様な視線に結城は薄く笑みを浮かべた。

「今更だな」

地を這う様な声が波多野に向けられた。




「あれを手離したのは貴様自身だろう」




鋭いナイフのような言葉が波多野を切り裂いた。じわりじわりと広がる焼け付くような痛みが胸を締め付ける。

ーー分かっている。

己の爪が深く食い込むほど波多野は拳を握り締めた。



千歳が出立する前、波多野は彼女と一夜限りの夜を過ごした。艶のある声、凄艶なその姿の中に彼女は悲哀の色を秘めていた。
今宵だけは何者でもない。ただひとりの男と女として波多野と千歳は交わった。けれども、その事実こそが彼女にあの顔をさせていたのだろう。


『波多野さん…』


手を伸ばすこと、求め合うこと、受け入れること、享受する現実とそれを受け入れ難く思う心の矛盾に彼女は泣きそうな声で波多野の名を呼んだ。

今も反芻されるその声に波多野は頭を抱えていた。

分かっている。枷となる感情を削ぎ落とす為に彼女と交わった。あの時を境に波多野は千歳を手離した、否、手離す為に交わったのだ。



「取るに足らない任務だろうと失敗は許されない」

結城中佐の言葉に波多野は我に帰った。
視線の先の彼は変わらぬ相貌で彼を見つめていた。

「あれが適材なことは貴様も理解している筈だ」

その言葉は確信を持ったように放たれた。波多野は僅かに目を見開くと、その視線から逃げるように瞼を伏せた。

失敗は許されない、しかし、D機関の人間をやる程人員に余裕はない。白羽の矢が当たるのは必然だった。
その先に如何なる困難が待ち構えていようとも、今ここで彼が手駒を1人失うわけにはいかない。


苦い思いに唇を噛み締めた波多野に、結城中佐は最後に吐き捨てた。



「忘れるな、ここはスパイ養成学校であり貴様はここの一員だ」



瑣末な感情に囚われるな。言葉に込められた意味に、波多野は閉口するしかなかった。




波多野は鬱屈した想いを吐き出すように紫煙を吐いた。脳裏に浮かぶのは、異国の地で灰色の存在となっている彼女の姿だ。
首尾よく任務を遂行している彼女は確かに優秀なのだ。任務を完遂させるまでその優秀さは衰えることがないだろう。

しかし、纏わり付く想いは消えない。


「千歳…」



(俺は)



ーーーーー


苦悩


トップページへ リンク文字