2:回答

佐久間が食堂に入ると既に食器を拭き終わりテーブルを拭いている彼女がいた。彼の足音に気づいた彼女は顔を上げ佐久間を見ると、不思議そうに首を傾げた。

「講義の視察に行かれたのでは?」

疑問を口にする姿はごく普通の女性そのものだ。佐久間は、やはり噂は噂でしかないのではと疑いの心を持たずにはいられなかった。
彼女は、ここにいる彼らのように高いプライドを持っている様子もなく、かといって引け目を感じている様子でもない。
しかしながら、あのような試験をパスできる人間など、自分ならばこれくらいのことは出来る、それは当然のことだという恐ろしいまでの自負心がなければ到底、不可能だ。絶対的な己への自負、矜持が化け物を化け物足らしめる。
だが、三好は佐久間に、彼女もそれをこなしたと言ったのだ。

(ありえない。)

佐久間の視線の先の彼女はその化け物足り得るとは佐久間には俄かに信じがたかった。

「少し聞きたいことがある。」

佐久間がそう言えば、「なんでしょう。」、とテーブルを拭いていた手を彼女は止めて、佐久間を見つめる。
ひとつ間を置き佐久間はゆっくりと口を開いた。

「君は、」
「何をしている。」

唐突に聞こえた声に佐久間は驚き振り返る。振り返った先には漆黒の魔王が居て、その姿を目にとめた刹那心臓がどくんと跳ねた。
いつの間に、と冷や汗が垂れるが、魔王、結城中佐は相変わらず感情の読めない顔を佐久間に寄越した。能面を貼り付けた相貌、居竦まる様な眼光が佐久間を捉える。
奴らと同様、彼も神出鬼没なのだ。
結城中佐は部屋の中にいた千歳と佐久間を見ると、

「貴様は講義の視察のはずだろう。」

ジロり、と佐久間を睨みつけた。
冷眼に佐久間は姿勢を正す。

「まだ時間があります」

直立不動の佐久間に、ふん、とつまらなそうに鼻をならした結城中佐は「それで?」と話を続けるように彼に促す。ここにいる理由はなんだ、と。
佐久間は、より一層姿勢を正した。

「彼女のことについて気になることを聞いたので」
「ほう、気になることだと?」

居竦まる様な眼光が鋭利さを増す。生唾を飲み込んだ佐久間はそれでも魔王に問うた。

「はっ。結城中佐は、彼女にスパイの訓練を施したのですか?」

一瞬、部屋の奥にいた千歳がピクリと反応した。その反応に僅かながら安堵した佐久間は問い正すような視線を結城中佐に向ける。
しかし、実直なその視線に彼はやはり表情を崩さず、無意味な質問だ、と言わんばかりに眼を伏せた。

「それを聞いて、貴様はどうする。」
「いえ、特にどうともなりません。」
「なら、それを聞くことに何の意味がある。」
「真偽を確かめたいのです。」
「確かめることで何を得る。」

そう詰められれば、ぐっ、と佐久間は言葉を詰まらせた。
所詮興味本位だ。聞くことで得られることなど何もない。聞くことで、佐久間自身が納得したいだけだ。そこを詰められれば、佐久間は二の句を継ぐことが出来ない。
無言になった佐久間に、結城中佐は「下らないことに時間を使うな。」と彼を一瞥するとその場を後にした。
その場に立ち尽くす佐久間は拳を握りしめた。

(知りたいという欲求に囚われるなということか。)

或いは、この程度の問いに返す文言くらい考えろということか。どちらにせよ、魔王に一蹴された事実は変わらない。
佐久間が苦虫を噛み潰したような顔をしていると、

「あの…」

澄んだ声に呼びかけられて、佐久間は改めて彼女がいたことに意識が戻った。
視線を合わせた先、佐久間の前で彼を見つめるその姿はやはりただの女性で、端麗な顔が佐久間に向けられている。

「あぁ、すまない。無意味に呼び止めた。」

中佐に言いくるめられた失態を目の前で見せてしまった。
居心地の悪さを隠すように、忘れてくれ、とその場を離れようとする佐久間に再び声がかけられた。

「待ってください。」

呼び止める声に何事かと佐久間が彼女を見れば、顎に手を添え考える素振りを見せた彼女が、佐久間に一歩二歩と近づく。
一体なんだ、と首を捻った佐久間の前、あと数歩で目の前まで来るというその時ー

「失礼します」

何を、と佐久間が聞く間もなかった。
端的にそう告げた次には佐久間の視界から彼女は消え、代わりに眼前に広がったのは埃被った床だった。
何が起きている、と目を白黒させながらしかし背中に感じるのは人の重みで、身動きが取れない状況となった、と自身が認識する間も無く、佐久間の身体は組み敷かれた。
ひとつふたつ間を置き、佐久間が呆然としていると、「失礼しました。」と声が降ってきた後に、自身に体に感じていた重さが消える。
そこで初めて、佐久間は己の身に起こった出来事を認識した

彼女は今、佐久間の腕を掴んだと同時に足を払い床に押さえつけた。

佐久間はその流れるような動作に驚愕した。
曲がりなりにも軍人として訓練をこなしてきた自分が、普通の女性に、いとも簡単に押さえつけられたのだ。無駄な動きなど一切ない彼女の技は、佐久間の認識の遥か外側にあった。
佐久間が起き上がり服を正すと、彼女は、今度は手を伸ばしネクタイを整える。

「無礼を承知でさせていただきましたが、ご質問の答えはこれでよろしいでしょうか。」

少し呆れたような、しかし薄っすらと笑みを零す彼女はやはり佐久間の目からも恐らく誰の目からも普通の女性にしか見えない。何処にでもいる、ただの人間だ。
だが、普通の女性は軍人を押さえつけることなどはできない。
微笑を浮かべる千歳に佐久間は、「半分はな。」と、苦笑する。
噂の真偽はこの行動で証明したようなものだ。少なくとも彼女が、ただの世話係、としてこの巣窟にいはしないことが証明された。
だがまだ謎は残る。佐久間は改めて彼女に視線を向けた。
彼女からは訓練生のような、恐ろしいまでの自負心が感じられない。あの、他者を寄せ付けない、絶対的な矜持を胸に世を、人を欺く、強烈な自負心の匂いが漂ってこない。
自負心のためにスパイとなった彼らと彼女の違いは何だというのか。
佐久間の、半分、の意味を理解したのか、千歳は肩を竦めた。

「私と彼らの行動規範は根本的に違いますから。」

できました、とネクタイを整えた千歳に佐久間は尋ねる。

「俺もあの試験と今行われている訓練を見てきた。女性があれをこなすのは男より大変だろう。」
「程度の差はありますよ。女の口説きなんて私には出来ませんし、体力的にも男性には敵いません。」

それは、逆に言えば女性というハンディキャップを除けば彼らに引けはとらないという言外の意味があった。
そして、そうであれば尚更、佐久間は疑問に思った。そこまでする理由は一体何なのか、と思案に耽る。

「……詳しいことは申し上げられませんが、あの人達が持つ、自身だけを拠り所とする強さは私にはありません。」

考え込む佐久間を見て、千歳は困ったように笑った。

「私は私の大切なもののためにしか動けませんから。」

佐久間中尉と似ていると思いますよ。そう話す彼女は笑みを浮かべる。
しかし、緩められる口元がどこか悲しげに佐久間には感じられた。


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