37:閑話

その一報を聞き、男は静かに目を閉じた。手にしていた万年筆をそっと置き、肘つき椅子に深く背を預けるとゆっくりと天井を見上げる。
慌ただしく扉を開けて報告してきた下官は直ぐに下がらせた。館内が騒がしくなる中、男の執務室だけが異様に静けさを保っていた。

起こるべくして起こった事態だと、男は嘆息した。

肉を切らせ骨を断つ。その想いで差し出したカードに望みを掛けていた。男の脳裏に浮かんだまだ幼いころの少女の面影に、男は眉を顰めた。

最善の、唯一の選択だった。彼女の存在はどちらの陣営にとっても疎ましく、それは共通の仮想敵として機能するはずだった。否、機能していたのだ。

読みを誤った。

男は緩慢な動きで立ち上がると、レースの隙間から朝日が漏れる窓へと足を運び、外へと視線を走らせた。

もうじき彼のいるこの館にも屈強な男たちがやってくる。彼らは、このたび敵国となった日本の民に関係するあらゆる人間を監視し拘束していく。
この国でもはや男に出来ることは残されていなかった。

男は窓際から離れて再び肘かけ椅子へと腰を下ろした。深く息を吐き、この度のことの顛末を整理した。


真珠湾への奇襲作戦、即ちこの国への開戦は他ならぬこの国に誘導されたものだった。
開戦へ消極的だったこの国を動かしたのは、盟友イギリスだ。そしてそのイギリスを動かしたのは、


(支那人か)


男はデスクの中から煙草を一本取り出すと、火をつけ深く吸った。紫煙をゆっくりと吐き出しながらその煙を見つめる。煙の中に、憎々しい顔が見え隠れして思わず顔を歪めた。

蒋介石。
祖国を救おうとする彼は、日本と妥協点を探ろうとする米国の動きを阻止するべくイギリスへと近づいた。そしてイギリスは、対独戦線へとアメリカを引きずり込む口実として彼を利用した。
彼の動きを見誤った結果、両国の妥協点は完全に失われた。


男は己の立場を改めて再確認した。軍属の自分は遠からず拘束されそしてその末路は目に見えていた。
煙草の先を灰皿に擦りつける。

男は囚われの身となっている彼女に思いを馳せた。同時に、その奥に見え隠れするのは灰色の存在として彼女を導いた旧友の顔だ。
男は薄く笑みを浮かべると、深く目を閉じ俯いた。


(最後の仕事だ)


刹那、男の執務室のドアが乱暴に開かれた。大柄な男たちが無遠慮に彼へと近づき何事か書かれた紙を突きつける。



「神城誠だな」



男は笑みを浮かべていた口を真一文字に結ぶと、ゆったりと顔を上げる。
男たちが彼に差し出された両手に冷たい手錠をかけた。


―――――


閑話


トップページへ リンク文字