38:決意

晩秋の季節だった。時折ひゅるりと寒風が頬を撫で、道行く人々が肩を震わせるそんな季節。

紬色の着物を身に纏った千歳は籠を手に波多野の前を歩いていた。街へと足を伸ばした帰りに偶然見かけた彼女の後ろ姿に興味を惹かれて波多野は彼女を尾行した。

下町の市場で朗らかな笑みを浮かべて店主と話をする千歳の姿はあの能面を貼り付けた人形とは思えないほど色鮮やかだった。その変わりようは、表情を鍛える参考になると思えたほどだ。

店主と挨拶を交わし、一呼吸おいた刹那、笑みを貼り付けたその顔が一瞬、波多野を捉えた。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。
たった一瞬、射殺すように彼を貫いた瞳を彼女は瞬時に収めると何事もなかったかのように帰路へと着いた。




「いつから気付いていた」

活気ある通り。人混みをすり抜けながら波多野は彼女に近づいた。
つまらなそうに彼を一瞥した彼女は淡々と紡ぐ。

「最初から」

色のない瞳は矢張り彼を映さない。否、彼女の目には何1つ映ってなどいない。
朗らかな笑みも、凍てつく視線も、何もかも取るに足らない仮面でしかない。
彼女の目に映るただひとつの者は、結城中佐だけだ。

この時期は日が早くなる。雲ひとつない蒼天の空には、薄っすらと橙色が走りはしゃいでいた童達が家路へ向かう。夕餉の支度のために女達が井戸端話を切り上げ、彼方此方で別れの声が聞こえた。

何気ない、そして何の変哲もない光景。



ふと、千歳が足を止めた。



周りに気を巡らせていた波多野の視線が彼女へと移る。

波多野は、目を見開いた。



細められた目からは、あの冷たさは感じられない。
何者も映さないはずのその瞳に、光が宿っていた。
その視線の先に波多野は更に驚愕した。





ただの親子、父と娘が手を繋いで家路へと着いていただけだった。





波多野から見れば取るに足らない光景が、彼女にとっては鮮やかな情景に映ったのだろう。
ただ、幼い娘と父親が仲睦まじく歩くその姿に、彼女は在りし日を思い浮かべるように目を細めていた。懐古の念を胸に抱いたのか、僅かにその瞳が揺れる。

その姿に波多野は目を奪われた。

何者にも囚われず、ただ結城中佐という人間のみを信奉し、その手足となることを望んでいた彼女の、人としての一瞬がそこに垣間見えた。
その瞳に、D機関に在籍する誰もが入り込むことが出来なかったというのに、ただの通りすがりの父子がそれに叶ったという事実は波多野に動揺を与えた。


「お前…」


ぼそりと呟いた波多野の声に千歳はぴくりと反応する。彼の見開かれた目と色の入った瞳が交錯した。


初めて、波多野はその瞳に映った。


茶がかった瞳の中に阿呆の様な表情を浮かべる自分を見ることが出来た。
それは互いが、D機関に在籍する者として見せている姿では決してなかった。

茜色の空から射す陽の光が彼女の瞳に反射する。
揺らめいた水晶体が思い出したように瞬いた。


「……行きましょう」


止まっていた時が流れ始める。
カチリと始まりの音を鳴らし、ゆっくりと針は進み始めた。







取るに足らない情と言ってしまえばそうなのかもしれない。波多野はあの日歩んだ道に足を運びながら、その日々を追想していた。

あの日から随分と経っていた。そして随分と様々な感情を覚えてきた。
取るに足らない瑣末な情、それに囚われることがどのような結末を招くかを彼はその目で見てきた。それは真綿で首を絞めるように、ひどく優しくしかし無情に己を壊していく。


西陽が川面を揺らしていた。ゆらりゆらりと反射する光に目を細める。
あの日、彼女が揺らした瞳にその揺らめきを重ねた。


自分はD機関の人間だ。己の自負心を糧に何処までも何処にでも、何者にもならずに生きて行ける、そんなろくでなしだ。



『手にしたいものが、すり抜けないようにな』




波多野は胸の内ポケットから赤い布袋を取り出した。金色の刺繍を摩り、彼の地に縛り付けられている千歳に思いを馳せた。


彼女は優秀だった。結城中佐という絶対的支柱を前に彼女の意志は揺らがない。
しかし彼女はひどく人間だった。
人形に息吹が吹き込まれ、そこに生まれた生に惑い、傷付きながらも彼女は人間であることを受け入れた。


それは、とても美しかった。




同時に、愛おしかった。




ゆっくりと波多野は瞳を閉じる。

自分はろくでなしだ。ならば、
ろくでなしのままであるだけだ。


開かれた目には、固い決意の焔が灯っていた。




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決意


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