39:希求

任務が失敗した、それはあってはならない事態だった。
独房で協力者からその報告を聞いてからというもの千歳は、魂の抜けた人形のように過ごしていた。瞳からは光が消え、絶望が支配している。

戦争が始まった。それはスパイの活動がもはや意味をなくすことを表していた。
千歳はそれを阻止するために此処まで来たのだ。見守るべき彼らが己の羽を伸ばすことが出来るように、敬愛する魔王がその差配を滞りなく出来るように。

千歳はそのためならどのような闇路も歩くことが出来た。例え、この任務が長きに渡ろうともその為に孤独にその身が呑まれようとも、そんなことは些細なことだった。

しかし、その想いも決意も一瞬にして崩れ去った。


千歳は途方に暮れていた。出口の見えない迷路に迷い込み、藁にも縋りたい思いを抱く。

(無様…)

囚人用のベッドで膝を立てて己の体を抱え込む。居場所のない捨て子が己の身を守る様に、ぎゅっと肩を抱いた。

開戦を回避しようとしていた結城中佐は、今は和平工作への道筋を立てるために忙殺されているだろう。各国の散った機関員たちを使い、戦局の分析を行うはずだ。


――では、私は?


千歳は自分の現状を認識し、その身の不甲斐なさに辟易した。


ひとたび戦争が始まればスパイは無用の産物となる。敵国では自分が日本人だという、ただその一点の為に拘束され尋問されこうして独房に入れられる。この国に居る多くの日本人、或いは日系人は今頃家畜のように集められていることだろう。

人の命など時世によって価値が変わる。

今、千歳の命の価値は結城中佐という稀代の優秀なスパイマスターとの繋がりという、外的要因によって高められているだけだ。


(どうしようもない…)


初めて、千歳は恐怖を覚えた。出口の見えない闇路を前に足が竦み、呆然と立ち尽くす。

千歳は瞳を閉じた。

暗く先の見えない空間の先に魔王が消えて行く。後に続き、見慣れた彼の使い魔達も次々と姿を消していった。


その中に居たある人物を千歳は見つめた。
置いていった、拒んで消し去った面影がその背に重なり思わず手を伸ばした、が直ぐに力なくその手を下ろす。


(違う)


ーーこの想いは捨てたもの。




ギィと独房の扉が開いた。
カツンカツンと音が近づいてくる。
見張りでもやって来たのかと顔も上げずに蹲っていた千歳の独房の前で、音がピタリと止まった。



「久しいな」



聞くはずのない声だった。それは此処に居るはずのない、居るべきでない人間の声だった。
恐る恐る千歳が顔を上げた先に、幼い頃、その顔を仰いだ男の姿があった。


「……とうさ…、神城誠大佐」


既に捨てた呼び名を口にしかけて千歳は口を噤み、言い直した。

「驚くことはない。開戦した時点で在米軍管は捕らえられるのだからな」

彼、神城大佐は眉ひとつ動かさずにかつての我が子を見据えた。

久方振りにの再会にもかかわらず凡そ親子と呼べる雰囲気ではない。

淡々と両者は言葉を発する。

「此処は他の囚人とは離れた施設の筈です、ましてや日本人の貴方が入ってこれるはずは」
「お前のスパイマスターの子飼いが此処にいるだろう」

呆れたような声音に千歳は、今頃見張り役をしているだろう協力者の顔を思い浮かべた。
となると、此処に彼が居ることのできる時間は限られている。


(なら何故、此処に)


結城中佐と繋がりのある彼ならそもそも此処に来る必要は無かった筈だ。
収容施設に連れて行かれるか、若しくは彼ならそれを免れる術を持っていたかもしれない。

いや、そもそも


「……本国へ帰る算段はあった筈ではないのですか?」


結城中佐のスパイ網を恐らく彼は把握している。
個々に独房が割り当てられたこの場所のように、監視の目が行き届いている場所でなければ脱出は不可能ではない。
曲がりなりにも、彼は


「陸軍の特務機関で訓練を積んでいた貴方が、むざむざ捕まるとは思えません」


千歳のその言葉に、能面を貼り付けた表層を保っていた神城大佐は目尻を下げて薄く笑みを浮かべた。

「俺のことを調べていたのか」
「結城中佐は何も話されなかったので」
「だろうな。奴がそんな事を話す筈もない」

くつくつと笑う神城大佐に千歳はかの魔王の面影を重ねる。

対中諜報の拠点となっていた工作機関、通称土肥原機関。
数年前に機関自体が廃止されて以降その機関員の動向は軍内部でも公にはされなかった、否、出来なかった。


「経歴を偽り、駐在武官となった貴方程の人がこの事態に対処出来ないなんて思えません」


此処に居るべきではない人間の存在に千歳は戸惑いを隠せていなかった。


神城大佐は格子越しに彼女を見つめるとふと息を吐いて苦笑した。

「買い被り過ぎだ。前線から退いて俺は随分経つ。現役のスパイマスターとは違う」
「でも、」
「それに、俺自身は奴と違って曲がりなりにも帝国軍人だ」

彼はそう言うと、肩を竦めた。



「この事態の責任の一端くらいあるだろう」


諦めたようなその物言いいに千歳は薄く唇を噛んだ。
この事態、それは無策な開戦のことだけではない。
今、この場所のこの状況のことも含まれていることを千歳は理解していた。


「私を笑いに来たのですか」


俯きながら千歳は低く問うた。
その声音に神城大佐は表情を変えずに彼女を見つめた。


「貴方の思惑通りに動くことができず、中佐の役にも立てずに此処で立ち止まっている私を、笑いに来たのですか」


込み上げる煮え繰り返る想いは決して目の前の人物に向けられるものではない。それは任務を遂行出来なかった己に向けられているものだ。

今回の任務を結城中佐に依頼したのは他ならぬ彼だった。そして、その彼自らがわざわざ此処へ出向いているという事実が彼女の苛立ちを、彼自身へも向けさせていた。


彼はひとつ溜息をついた。



「千歳」



ひどく優しい声音だった。
千歳がその声に目を見開くと同時に、彼女の目の前に落ちた物。それを見た刹那、千歳は勢いよく彼を見上げた。


「どうして…」


戸惑い、震えるその声に神城大佐は口元を緩めた。目尻が下がり慈愛に満ちた相貌に千歳は息を呑んだ。



「奴からの贈り物だ」



その言葉に、千歳の脳裏に魔王の姿が掠める。


千歳の手元に落ちているそれは赤い守り袋だった。
それは、千歳があの時、日本にいる彼への思いと記憶と共に置いてきたものだった。
任務の為に置いてきた、切り捨てた物。


「中佐……」


どうして、と呆然と独り言つ。

彼からの要請で自分を此処へと遣わした敬愛する魔王からの餞別。
それはあまりにも彼に似合わない。
囚われるな、常にそう言い続けている魔王が渡すはずのない物。自分が勝手に想いを込めていた代物をそもそも何故彼が知っているのか、しかしそこは問題ではなかった。


「中佐が…こんなことされるはずがない」


自分の知る彼は常に冷徹な双眸を向けてきていた。それは、決して意味のないものではない、彼は常に己の教え子が滞りなく任務を遂行しそして、生き残ることが出来るように知識と技術を教え込んできた。

そんな彼がこんな、自分を惑わせるものを寄越すはずがない。

現実が歪む。直視できずに千歳は頭を抱えた。


ガチャリと音がした。千歳がぴくりと肩を震わせ面を上げれば独房の扉を開けた神城大佐が目の前に居た。
呆然としている彼女に変わらぬ瞳を向けて語りかける。

「奴はこの事態を予想していた。そしてこの事態に陥った時それをお前に渡せとも」
「そんな…なんで」
「その袋は、やつの答えでありそして、」



「お前の答えじゃないのか、千歳」



心を見透かされるようなその瞳に千歳は捉えられた。その視線から逃げるように目を逸らし、自身に言い聞かせるように吐き捨てた。

「違う」
「何がだ」
「それはあの時、全部置いてきたもの、だから」
「捨てきれてないんじゃないのか」

神城大佐の問いに千歳は勢いよく顔を上げた。わなわなと肩を震わせ叫ぶ。


「置いてきたから私は此処まで来ることが出来た!それを捨てたから私は、あの人の役に立てたのにっ!今更、いまさらなんでっ」


ひどく狼狽し、怒りの色を放ちながら、しかし最後には言葉に詰まり苦しげに顔を歪めて頭を垂れた。


「どうして、私を迷わせるの……」


震える彼女は、ひとりの女性だった。
結城中佐の傍でのみ存在していた人形ではない。
人を想い、希求する、ごく普通の女性だった。

行き場のない感情を己の内に閉じ込めて苦しみもがく、その人間としての一面に彼は目を細めた。


「千歳」
「……っ、!」


唐突に人肌が触れた感覚に千歳は目を見開いた。
震える彼女の身体を神城大佐が抱き締めていた。幼子をあやすようにゆっくりとその背をさする。

「心に従えば良い。縛られる必要はない」
「そうしたら私は私でなくなる…」

優しいしかし残酷な言葉に千歳は首を振る。

自分は結城中佐と、D機関の為だけに生きている。国も、民も、何も関係がない。ただ、彼と彼らの礎となる事だけに価値を見出している。
任務に失敗した自分に残されている価値は、ただ彼の為に動く人形となり続けることだ。


誰かを希求してはいけない。


己に課した鎖を解くように彼は言葉を紡いだ。


「それでいいんだ」


彼の言葉に千歳は肩を揺らした。
千歳をさすっていた手がなくなり、身体が離れると、真っ直ぐ互いが向き合う。



「あいつは、これを望んでいた」



放たれた言葉に千歳は息を呑んだ。
走馬灯のように彼の魔王の姿と、そして機関が設立されてからの出来事が鮮やかに蘇る。


彼らの世話を任されてから、彼らの人間性を垣間見て来た。
触れ合い、惑い、苦しみながらも感じてきた感情を彼もまた理解し、その上で今を迎えている事実。

全てを分かった上で、全てを計算した上で、彼は自分と彼らを引き合わせていた。



ーー囚われるな。


(貴方に…ですか)


千歳はひとつ息を吐いた。悩ましげに揺れていた瞳にはどこか諦めの色が見えていた。


「全部分かった上でだなんて、本当に酷い人……」



千歳はそっと、守り袋を手に取った。赤色の布袋は数年前と変わることなく鮮やかな紅色を帯びている。

想いを断ち切り、それを背にして進もうとしていた。



「波多野さん……」



ひとつ言葉が漏れた。

同時に堰を切ったよう雪崩れてきたのは置いてきたはずの感情と想い。
内から湧き出る希求の強さが、彼女が彼女であり続けようとした決意を凌駕した。



ーー会いたい。



押し込めていた想いは留まる事を知らずに溢れてくる。


「会いたい、もう一度…」


ただ彼に会いたい。年齢の割に幼いその顔、皮肉屋でしかし何処か温かみのある姿、低く名を呼ぶ声。

笑われても良い、呆れられても良い。

また、その姿をこの目に焼き付けたい。


「波多野さん……」


彼が愛しいのだと、止めていた想いを心に沁みさせていく。
敬愛する魔王の為に捧げてきた身に被せられたベールを取り払い、裸の自分がもう一度彼に会いたいと希求した。
殺してきた感情は互いの為だった。枷となるものを互いに置いてきた。それはあってはならない、取るに足らないもの。

それでもと、彼女は紡いだ。




「会いたいです…貴方に」




心からの願いだった。


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希求


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