41:祈念

開戦を迎えた日本と米国を結ぶ交換船。両国に滞在していた外交官や学生、ビジネスマンなどの非戦闘員の交換のために派遣された船だ。直接両国の船着場を経由はしない。主にポルトガル領のインドシナ、ゴアなど第三国を経由点としそこで人の交換が行われる。


日本では残暑も過ぎ去り秋の足音が近づいてきている季節だった。高温多湿、典型的な熱帯の気候のゴアに近づくにつれ湿った熱風が肌を撫ぜた。

千歳は照りつける太陽に眼を細めると輝きを放つ水面を見つめた。
もうすぐ、もうすぐ到着する。
あの絶望を前にした瞬間から既に数ヶ月経過していた。



ニューヨークから出航する交換船には言わずもがな非戦闘員しか乗り込むことはできない。開戦前の旅客船は、スパイの諜報活動の温床だったが、それを防ぐために第3国、主に中立国の外交官が監視員として乗船していた。

独房から脱出した千歳は新たなカバーを用意して交換船に乗り込んだ。
偽の入国証明書、パスポート、カバーとなる人物のコピー。
その過程で開戦後の両国の戦況も耳にしてきた。

破竹の快進撃を遂げた日本は先に太平洋、ミッドウェイ島周辺で繰り広げられた海戦で空母を失う打撃を受けた。後にソロモン諸島、ガダルカナル島へと連合軍の反攻作戦が開始され、制空権制海権共に掌握されるのは時間の問題だった。


愚かな策を選んだ軍部へ忌々しい感情が沸き上がり、千歳は深く息を吐く。
どす黒い想いを晴らすように頭を上げた。

雲ひとつない蒼天の空が広がっている。
戦火に巻き込まれていない穏やかな時を噛みしめるように、千歳は大きく深呼吸した。

既に日本からの交換船、帝亜丸はインドシナ、ゴアへ入港している。千歳の乗るこのグリップスホルム号が到着すれば数日の間に交換員の手続きが済まされて本国へと帰国できるだろう。

千歳は徐に胸ポケットから守り袋を取り出した。脳裏に浮かぶ小生意気な彼と自身を繋ぐ唯一の代物。
神などついぞ信じたことはない。この布切れに彼と己を結び合わせる霊的な何かがある訳でもない。物としての価値しかそこに見出していなければこれはそれ以上の意味を持たず、ここで海の藻屑としても問題はない。
ただ、この守り袋は彼から貰い受けたものだった。
それだけで千歳にとってこれは長い旅路を耐え抜くに足る物に昇華された。
結城中佐の元で訓練を受けた自分が、不確かで情緒的な価値を物に見出している。

千歳は苦笑した。しかし同時に現在の戦局を思い出し再び顔に暗い影を落とした。
一刻も早く本国へと帰りたい。
先の見えない泥沼化する現状だからこそ、早くーー


(会いたい…)


1人の人間を想うことはこれ程胸が締め付けられる事なのかと、千歳はその情愛を戸惑いながらも享受した。
かつて、自身が結城中佐に抱いていた物とは何処か異なる感情。声を聞き、姿を視界に収めたい。自分が待つのではなく、飛び出してその手を掴みたい。

己の中に生まれた、魔王の人形、らしからぬ想いを胸に畳み千歳は陽の光に輝く港町を見つめた。




ーーーー




16世紀からポルトガル領となっているこの地にはその歴史をなぞる建造物が散見される。
キリスト教の布教拠点としても機能し、その教会群はここが熱帯地域の土地であることを忘れさせるように至る所に建造されていた。

出航までの数日間、交換船の乗組員は一時の間周囲を散策することを許可された。日曜を含むことから、主に礼拝を行いたいという米国側からの申し出であった。

千歳は薄い白地のワンピースをたなびかせて町を歩いた。
目的はない、がどこか1人で物想いにふけたかったのだと納得し、歩みを進める。照りつける太陽に白帽子を被り直した。
視界の端に映る荘厳さを備えた教会、空の蒼によく映える純白の修道院、歩けばそこらかしこに見受けられる西洋の文化。見れば、多くの西欧系の一般人から軍人までが足を運んでいる。

祈りを捧げる場が随分と多いことだと、呆れ声を漏らした彼女の目に一つの教会が留まった。
古びた建物だ。白い外壁には所々ヒビが入り他の教会に比べて整備が追いついていない。

千歳はポケットにしまいこんだ守り袋にそっと手を当てた。


ーー全く違う神だけれど。


自分も随分と薄情なものだと自嘲しながら、しかし吸い込まれる様に足を進めた。



外観から推測された通り、教会の内部はお世辞にも整備が行き届いているとは言えなかった。古びた礼拝堂の眼前にはキリスト像が掛けられているが、塗装が剥がれおちている箇所が見られる。
しかし意外な事に、清掃は行き届いている様だった。塵一つないとまでは行かなくとも人の出入りが感じられる。
天井は高く外光を取り入れるためかガラス張りとなっている部分がある他、礼拝堂の窓はすべてステンドグラスで彩られていた。
キリスト、聖母マリア、聖ヨハネ、大天使。それらを信仰する人々の姿を色とりどりのガラスで表現している。それは外光に照らされて礼拝堂に淡く柔らかな色を落としていた。

古びた教会、しかし歴史の感じられるその作りに千歳は思わず息を呑んだ。亜細亜的な祈りの空間とは違う、彩色に満ちたしかし何処か清純な空気に千歳は背筋を正した。
白帽子を取り、長椅子へそっと置く。

祈りを捧げ信仰を体現する為に多くの人が此処の建造に携わったのだろう。その想いと、此処へ来る人々の願いを肌で感じながら千歳は礼拝堂の真ん中をゆっくりと進んでいった。

千歳はひとつひとつの歩みに己の軌跡を重ね合わせた。此処が人の想いを汲み取り祈りを聞き届ける場なのなら、と自分らしからぬ思考に支配されながら、しかし歩みは止めない。

多くの想いを受け取り、そして感じてきた。苦しみ、戸惑い、絶望。負の感情に押し潰されそうになりながらも、それでも光を見出せたのは己だけの力の所為ではない。

ピタリと千歳はキリスト像の前で止まった。己を見下ろす像を見つめる。
両手を広げ祝福を授けるその姿は、この地で生きる信仰者たちの希望となっているのだろう。

信仰者でもない、神を信じているわけでもない。

それでも、と千歳は頭を駆け巡る彼らの面影を想い両の手を組み頭を垂れた。
この祈りを聞き届けてもらえるのなら


ーー願わくば、









カタンと音がした。
礼拝堂の扉が閉まる音に、千歳は頭を上げた。
振り返った先に見えた光景に時が止まったかの様な感覚を覚える。


声を発することもできなかった。
光の当たらない扉から淡い光の落ちている箇所に立った人物は目深に被った白地の船帽をゆっくりと取った。



「千歳」



聞くはずのないその声に千歳は目を見開いた。
目の前に佇む彼はあの頃と変わらない姿で其処に居た。

彼と千歳の目が合う。会いたいと希求した、求め恋い焦がれた姿とその視線に彼女は眉尻を下げ、瞳を揺らして呟いた。



「……やっと、会えたっ…」



くしゃりと破顔し今にも泣きそうになりながらしかし千歳は、心の底からの喜びを体現するように笑った。





ーーーー



祈念


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