42:相愛

まるで聖母の様だと、波多野は彼らしからぬ思いに捉われた。
柔らかな色彩に照らされ、両の手を組み祈るその姿は儚くそのまま何処かへ消えてしまいそうな危うさを秘めていた。

目深に被った船帽を取り、己の姿を光の下へ晒せば丸く大きな瞳が更に見開かれる。
儚さを纏っていた彼女の身を俗世に留めるように彼は紡いだ。


「千歳」


これまで応えの無かったその言の葉に、彼女が応えた。破顔し、泣きそうになりながらしかし己の喜びを表すように、彼女は紡いだのだ。


やっと会えたと。




「波多野さん、私…っ、」


聞き間違いじゃない。彼女の口から放たれた言葉に波多野は飛び出した。
全身を駆け巡った衝撃に思考する間もなく、波多野の体は弾かれたように飛び出し彼女を抱きしめた。

「千歳」

その小さな身体を抱きすくめる。此処に彼女が居るのだと身体に認識させ、その温もりを感じた。
あの日すり抜けた、こぼれ落ちた、哀切の色を秘めて己と離れた彼女が今ここに居る。自分の腕の中に、その存在が在るという事実を波多野は噛み締めた。


数分だろうか、もっと長かったかもしれない。暫くの間、互いの存在を確認する様に抱き合った。


「波多野さん」


波多野の背に回されていた手がするりと抜ける。改めて彼らは互いに向き合った。
真っ白なワンピースを纏った千歳は別れた時と変わらない相貌を携えている。しかし、幸甚に満ちた面持ちは彼女の心情を如実に表していた。


波多野は彼女の頬にそっと手を添えた。



「遅いんだよ、お前は」



口の端を釣り上げ、彼特有の小生意気な表情を作る。


「待ちくたびれたから来てやった」


波多野の言葉に、千歳は瞳を揺らす。目尻に薄っすらと雫を浮かべ、眉尻を下げた彼女は苦笑した。
その頬に添えられた波多野の手に彼女の掌が慈しむように重ね合わせられた。


「もう、こうなる事はないと何処かで諦めていました…でも、やっぱり貴方に会いたかった」


滔々とまるで懺悔のように千歳は紡ぐ。頬に触れる温もりを愛おしむ様に波多野は充足感に包まれる。重ね合わせられた掌からは彼女の熱が止めどなく加えられていた。
その温もりに波多野は目を細めた。
愛しい、嬉しい、正の感情が身体を支配する。

「会いたいと思うのが、何故お前だけだと思ったんだよ」

波多野は彼女の頬から掌を離し、肩をすくめてみせた。呆れた表情を浮かべて嘆息する彼に千歳は申し訳なさそうに俯いた。

「それは、……あの時私が拒んだから」

貴方が囚われる筈がない、そう決めつけ逃げて彼女は感情に蓋をした。
仕様がなかった、しかし千歳の中でそれは重い楔なのだろう。尻すぼみになった声音に波多野は続けた。

「あぁ、そうだな。お前が拒んだ、けどな」

波多野は、瞼を伏せた千歳を上向かせた。さらりと彼女の前髪を流すと、その額に祝福を授ける。
惚けて目を丸くさせる千歳に目尻を下げて彼は笑んだ。


「……それでも、置いていくことは叶わなかった」


心の内を、感情を、思考を伝えるようにコツンと額を彼女のそれに合わせる。


「囚われているのかもしれない、けどそれでも俺はお前を求めるよ。その上で、上手くやって見せる」


まるでマリアに告白する信者だ、と波多野は自嘲した。そしてその想いを己にも言い聞かせるように彼は紡いだ。

愚者の世迷言かもしれない、しかし愚者なりの真実の言葉だ。

囚われてはいけない、けれど囚われる矛盾を内包してみせる。その危うさを凌駕し調和へと導くことが己には出来る。

囚われていても、自分ならば出来て当然だ。


波多野の告白を受け止めた千歳は徐に彼の名を呼んだ。


「波多野さん」


面を上げ視線が合わさった刹那、今度は波多野の唇に彼女からの祝福が授けられた。
それは同時に、彼女の答えだった。
触れるだけの口付け、一瞬の出来事、しかしそれだけで十分だった。


波多野は今一度、己を見つめる彼女と視線を合わせた。愛しい色を映す漆黒の瞳に応えるように、彼は、彼らは、両の手を広げる神の下で互いに口付けを交わした。



ーーーーー





「中佐が…?」
「1人でやろうとしたんだけどな。カバーを用意されてた」


グリップスホルム号がゴアへ入港して約1週間後。日本からの交換船、帝亜丸へ乗船した波多野達は、米国からの交換員として船舶内の自室に居た。

「名目上は、あの二重スパイを本国へ帰還させることを任務に充てていたところが魔王様らしかったがな」

波多野はベッドの縁に腰掛ける千歳に事の経緯を説明していた。




帝亜丸に乗組員として乗船し、二重スパイであるアルフレド・ブラウンを本国へと帰国させる。
珍妙な任務を波多野が言い渡されたの
は、彼が渡米を決意したその日のことだった。
魔王の執務室に呼び出された彼に投げ渡されたのは、カバーとなる人物の詳細と帝亜丸の船舶情報。数十ページに及ぶ紙の束を一読した彼は丁重にそれを揃えて彼のデスクへ返した。
波多野を一瞥せずに結城中佐は指令を下した。

「グリップスホルム号には既に協力者がいる。そいつに引き渡せ」

波多野は訝しんだ。何故なら、自分が赴く必要性のない任務だったからだ。
二重スパイ、アルフレド・ブラウンなら身一つで交換員として帝亜丸に乗船したところで何一つ不都合がない。日本で働いていた出版社員、という明確なカバーが彼にはあったのだ。

ふむ、と思考を巡らせた彼の心情を見透かしたかのように魔王は口を開いた。

「ついでに、こちらの人形も回収してこい」

たった一言。しかし波多野はその一言に瞠目した。恐らく、表情を隠し切れなった。それほど衝撃的な一言だった。さも、本題ではないという口調で宣う魔王の言葉だったが、それが本来の任務であることは明々白々だった。
魔王を凝視していた波多野に彼は畳み掛けるように問うた。

「出来るか?」

その計らいに答える様に波多野は口角を上げた。





「だからアルフレドが居たんですね」

波多野の説明に千歳は合点がいった様に頷いた。

交換船に乗船していた互いの国の国民の移送の際、ちらりと視線が交錯した二重スパイに千歳は目を見張った。何故、と思案する間もなく彼はふいと視線を逸らすと人の波に呑まれ姿が見えなくなった。
恐らく、彼は今後の和平交渉における米国側の情報を集める任に着くのだろう。


波多野は椅子から立ち上がると、経緯を会得した千歳の横に腰を下ろした。波多野さん?、ときょとんとする彼女の手を見遣ると己のそれを被せる。
彼女の瞳が僅かに揺れた、が直ぐに目尻を下げ口元を緩めると、頭を彼の肩へと寄せた。


穏やかな時だ。しかし、刻一刻と悪化する戦況は、この時を許しはしないだろう。波多野は先のない戦いに苦い思いを抱いた。悪化する戦局に蓋をし、勝利するという根拠のない世迷言を吹聴するこの国に未来はない。

暗然たる面持ちになった波多野は己に身を預ける千歳に意識を遣った。
この航海が終われば、彼女も自分も、再び、見えない存在、としての役目を負うだろう。任が解かれるその時まで己を高めることに対して、互いに惑いはしない。
ただ、と波多野は目を細めた。


ーーすり抜けさせはしない。


ニヒルな笑みを浮かべる同期の面影に応える様に、波多野は重ねた掌に力を込めた。





その年の11月4日。
日本からの交換船、帝亜丸は横浜港に帰港した。


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相愛


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