44:未来

地を照りつける陽の光が陽炎を作り出す。ジィジィとけたたましく鳴く油蝉がこの時節を主張していた。
処暑を迎える頃だった。もうじきこの暑さも和らぎ涼風が肌を撫ぜる。秋虫がりんりんと夜のしじまに色を添えるだろう。


昭和20年、8月15日。その日は午前中から浮き足立った人々が多く見受けられた。なんでも、正午のラヂオで特別な発表があるんだと。いよいよ決戦なのかと鼻の穴を広げた男達が獅子奮迅の働きをしてやると息巻いていた。
何も知らぬ者も居た、関心のない者も居た。彼らはただ、普段と変わらぬ日を過ごそうとしていた。
その発表の意味は全てのものに等しく、確実な変化を与えるものだった。

ジージーとひどく耳障りな雑音が耳につく。小さな箱から聞こえてくる難解で実に不明瞭な言葉は、はて、と多くの者に首を傾げさせた。
しかし、一部の者は泣き出した。一部の者は憤怒の表情を浮かべ叫んだ。流れてくる音の受け取られ方は様々だが、それはひとつの事実を伝えた。



『日本が、戦争に負けた』






遅きに失した。千歳は燃え盛る学び舎を見ながら嘆息した。
正午に流された放送を千歳は聞いていない。否、その必要がなかった。
これは既に、先日行われた御前会議におい決定されていたものだった。

猛火の熱風が肌を撫ぜる。猛々しく燃え盛るそれに千歳は一抹の侘しさを覚えた。

「済んだか」

低く地を這う、しかし良く通る声が耳に届いた。
千歳は緩慢に声の主を見遣った。

「言いつけ通り、全てに火を付けました」

黒を纏い闇に同化する魔王を緋色が暴き出す。燃え盛る焔をじっと見つめる魔王、結城中佐の相貌を千歳は黙って見つめた。
築き上げてきたこの場所を自らの手で壊す。陸軍内部に秘密裏に設立されたスパイ養成学校は創設から9年となる日を前にその存在を闇へと返した。
此処には何もなかった、此処には誰もいなかった。もともと見えない存在なのだ、どうということもない。

しかし、千歳は蕭然とした想いを抱かずにはいられなかった。

思い起こされる記憶の欠片には確かに彼らが居た。決して、見えない存在、ではない。己が瞳に焼き付けてきた彼らの一挙一動は揺るぎない事実として其処にあった。
場所に記憶が留められるわけではない。
しかし、はじまりから終わりまで千歳の記憶と共にあり続けた学び舎が呆気なく塵と化していく光景は自分という人間の一部を削り取られて行く感覚を与えた。

「巣がなくなってしまいましたね」

ぽつりと声が漏れた。猛火に掻き消されてしまいそうな声音だ。
しかし魔王の耳には届いていた。

「そんなものは、初めから存在しない」

千歳は微笑した。
予想の範疇の答えだった。それ以外の言葉はあり得ない。囚われるな、その教えを設立当初から言い続けてきた結城中佐が此れ以外の言葉を言う筈もない。
分かりきっていたからこそ千歳は、でも、と口を開いた。

「矢張り此処は巣ですよ、中佐」

ぴくりと魔王の眉が動いた。刹那的な動きで直ぐに仮面を深く被る。
構わず千歳は続けた。

「この巣で雛鳥たちは学び、巣立ちました。例え帰郷しなくてもその記憶と事実は確かにあります」

千歳は鮮やかに蘇る彼らとの記憶に思いを馳せた。
女給として身の回りの世話をした、共にゲームに勤しんだ、時には街へと出掛けた。行われてきた訓練の中で彼らという人間を改めて見つめ直し、その人間性を尊く感じた。任務に赴く彼らを見送り、還る彼らを見守った。

此処からはじまったのだ。此処から、彼女の世界は色を帯びた。灰色の魔王との世界は、開け放たれた扉から流れ込むあらゆる色に変えられた。
鮮やかなその事実は確かに此処にある。


千歳は魔王へ向き直った。


「確かに此処は、貴方の手で作られた巣だったんです、中佐」


例えこの世のすべてから忘れ去られたとしても、此処にあった確かな存在は本物なのだと。


結城中佐の瞳は揺らがなかった。変わらぬ双眸は彼女を見下ろし、真意の読めない漆黒の瞳が彼女を捉えた。
パキパキと炎が散る音がする。視線が交錯した。


「巣がなくなればどうなる」


それは、ひどく優しい声音だった。燃え盛る炎に不釣り合いな声だ。黄金色に照らされた魔王の表層は変わらぬ能面を貼り付けている。
千歳は答えた。

「巣立ちます、雛鳥も…親鳥も。何処へでも行けます。だって、」


ーー何者にもならないのでしょう?


千歳は己の胸の内を穏やかな笑みを携えて吐露した。

「私はずっと惑っていました。何者にもなれない、歪で不確かな存在の自分に。何処に自分が居るのか、その立ち位置が分からないままの状態に戸惑っていました」

普通であって普通じゃない。化け物になれない半端者、それが千歳だった。
色付き始めた時から、灰色の世界から脱した時からどちらにも行くことの出来ない不確かな存在。
故に惑い、立ち止まり、傷つき、多くの差し伸べられた手を突き放した。

「でも、ひとつだけ確かなことがありました」

光を灯した真っ直ぐな瞳が彼を捉えた。



「私の中に生まれた想いと此処で過ごした現実は矢張り本当なんです」



何者であっても、何者でなくても。
虚構の世界、偽りの日常、全てが作られたものであってもー



「此処に確かにあった現実は、私という存在を証明してくれたんです、中佐」



己の見てきた、本当、は確かにまがい物ではない。
地に足をつけ、己の存在そのものを肯定する迷いのない姿を千歳は結城中佐にぶつけた。
己の存在に不安を抱えていた迷い子は巣立ちの時を迎えたのだ。



日本は、戦争に負けた。
酸鼻を極めた現実は目をそらすことが出来ない。抉られた心も、残る傷跡も癒えることはないのだろう。
しかし、時は進む。無情に、それは前を歩いて振り返らない。まるで、前に進めと叱咤しているように。

巣は消えた。あとは巣立ちの時を待つだけだ。雛鳥も、親鳥も此処から始まる彼方への旅路。



「……随分と物を言うようになったな」



口元を歪めた結城中佐が、ニヒルなその笑みを千歳に向けた。千歳はそれに応えるように目尻を下げた。
魔王は揺らがない。しかし滔々と言葉を綴った。


「お前は俺とは違う人間だった。」


深淵が千歳を見つめる。彼女の中にある在りし日の思い出を懐古するように、魔王は目を細めた。

「どれだけ囚われるなと言おうが囚われたままだった。その危うさを内包したままなら其処までの器だったということだが、それすらお前は受け入れた」

魔王に囚われた少女は世界を見た。想いに囚われた少女はそれを受け入れた。囚われてはいけないという枷を壊し、彼女は彼は、帰郷した。


「それはお前の価値だ」


魔王の言葉に千歳の瞳が大きく見開かれた。 血の通わない魔王に似つかわしくない温もりだった。


千歳は一度目を伏せた。
脳裏を掠める彼との邂逅から今までの記憶の欠片。
彼は常に前を見ていた。常に先を見た上で雛鳥達を導いてきた。


しかし彼も、巣立ちの時なのだ。



『私を、連れてって』



その手を引くのはもう彼じゃない。


千歳はゆっくりと目を開いた。伸ばした背筋、向き合った視線は敬意の表れだ。
魔王を前に居住まいを正した1人の女性は、もうあの幼き子ではない。

「中佐」

凛と気高く、通る声が空気を震わせた。


「私は、貴方と共にいてーー、」





ーー幸せでした。




巡る記憶が言葉を紡ぐ。偽りのない、彼女が見て感じて来た想いが言の葉に乗り彼に届いた。たった一言の、何とも安直なしかし全てが詰まった言葉だった。


煌々と炎は燃える。その色に照らされる結城中佐は深くハットを被り直した。
口を閉ざし、ただ千歳を見つめていた彼は徐に彼女へと近づいた。思わず肩を震わせた千歳の肩に、ポン、と冷たいぬくもりが伝わった。


「行ってくる」


魔王は直ぐに振り向かず、前を向いて歩き出した。
たった一言。地を這うようなひどく低い声音。しかし、彼は言った、行ってくる、と。


「中佐っ!」


ぐっ、と千歳は溢れ落ちようとする雫を堪えて、勢いよく振り返った。
視線の先の彼の背に、魔王の、そして敬愛する彼方の存在に届けた。



「お気をつけて…っ」



照らされた闇は、再びその姿を闇へと返した。






昭和20年、8月15日。
終戦を迎えたその日、帝国陸軍内部に秘密裏に組織されていたスパイ養成機関はその任を終えた。



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