45:祝福
粗末な木製の椅子にはびっしりと大の男達が座っている。通路にもデッキにも人が寿司詰め状態の復員列車は、鈍い音を立てながら東へと向かう。
車窓から見える田園風景、時折見える荒廃した街並み、流れていく光景を波多野は、ぼう、と見つめていた。幸いにも座ることが出来た。粗末な木椅子でも身体を休めるには充分だ。
静岡からの復員列車に波多野は乗っていた。戦争の激化に伴い昭和19年に設立された特殊戦スクール。D機関のように純粋なスパイ養成機関とは毛色の違う其処で、波多野は教官として後進を教育していた。
終戦の報せが来たのは8月14日。D機関で用いられていた暗号電報を介して伝えられた内容に波多野は自室で胸を撫で下ろした。
ーーようやく、終わる。
それは即ち、久方ぶりの再会を意味していた。
東京品川駅へ列車が着いたのは秋が深まりを見せる頃だった。昼下がりの時間帯、ホームへと雪崩を打った様にどっと復員兵が溢れかえる。焼け跡が見られることから此処も爆撃にあったことは火を見るよりも明らかだった。
それでも、帰りを待つ者達はいるのだ。
ある者は我が子を抱き、ある者は父母との再会に涙していた。
皆それぞれが、この時を愛おしんでいた。
戦争が終わった。そのことをこの光景は如実に表していた。
ふと波多野の目にある復員兵が留まった。その男はキョロキョロと忙しなく辺りを見渡す。やがて、暗然としていた表層に晴れやかな笑みが浮かび男は視線の先へと走り出した。
刹那、男は質素な着物姿の女性と抱擁を交わした。
ーあぁ、待っていたのか。
合点がいった波多野は気怠げな視線をちらりと女に遣る。男を待ち続けていたのだろう、女の瞳からは大粒の雫が落ちていた。静かにしかししっかりと離さまいと女は男を抱き締めていた。
波多野の瞳に柔らかな色が灯った。
「何呆けているんですか」
喧騒の中、凛と良く通る声が耳に届いた。導かれるように波多野が声の先へ視線を送れば、懐かしい顔が其処に居た。
「待ちくたびれたから、来てしまいました」
遅いですよ、と口を尖らせながらも仄かな笑みを携えた彼女に波多野は肩を竦めた。
「最短で帰ってきたんだけどな」
「それでも遅いです」
「お前よりは早かっただろ?」
皮肉を込めてニヤリと口角をあげれば、それもそうですね、と素直な答えが返ってくる。
他愛のない会話だ。しかし、待ちわびていた時間だった。久方ぶりの再会というのに、互いがあの夫婦のように熱い抱擁を交わしもしない。
けれど、確かにそれは待ちわびていたことだった。
「行きましょうか」
くるりと千歳は歩き出す。何処へ、と波多野は聞かなかった。千歳が此処へ来た、帰りを待つために来たという事は即ち、巣はもう畳まれたということだ。
波多野さん、と促す彼女の後を波多野は追いかけた。
ゆうに50段は超える石畳の階段。一歩一歩踏みしめて歩んだ先の鳥居をくぐり、真っ直ぐ拝殿へと足を進める。がまぐち財布から賽銭を取り出し投げ入れれば、後は二礼二拍手一礼だ。
からんからんと鈴が鳴る。場に似合わぬ己らの姿に波多野は珍妙な、何とも形容しがたい感覚を覚えた。強いて言うなら、居心地が悪い。
「何で此処なわけ?」
ぽつりと疑問を呈す。
波多野の隣で両手を合わせて頭を垂れていた千歳は彼の間の抜けた声にぱちりと瞳を開けた。
「不思議に思っておられても、一緒に祈ることはして下さるんですね」
揶揄う声音に波多野は片眉を上げる。波多野の相貌に、すみません、と千歳は眉尻を下げ、ただ、と続けた。
「どうしても来ておきたかったんです。此処は、色々とお世話になったので」
ふと、雑木林を千歳が見つめた。微笑を携えながらも細められた瞳は、誰かを偲ぶように哀切の色を僅かに忍ばせる。
妙に、その瞳が煩わしく思い波多野は徐に彼女の髪をそっと梳いた。波多野さん?、と丸くした瞳を向けられるが構わない。
波多野は改めて目の前の彼女に意識を遣った。千歳は視線を向ける波多野に小首を傾げて愛おしむように彼に微笑んだ。
ーー本当に、もう…
じわりじわりと波多野の中に浸透していくのは、絵も言えぬ充足感だった。
「千歳」
ピタリと髪を梳いていた手を止める。彼は、己の舌に乗りその名が紡がれることを待ち続けていた。
名を紡ぎ、そして伝えたかった。
「ただいま」
漸く終わったのだと、漸く此処から始まるのだと。
千歳はその言葉を聞きゆっくり頷いた。眉尻を下げて笑む彼女から、はらりはらりと零れ落ちる雫を掬う。
泣くなよ、そう波多野が苦笑すると、その小さな身体が彼の胸に収まった。
「おかえりなさい」
震える声で波多野に告げる彼女は駅のホームで見た女と同じだった。
何気ない、そんな雰囲気を醸し出していた彼女も、待っていたのだ。
頬が緩み、安穏とした表情になった波多野はその温もりを確かめるように回した腕に力を込めた。
「あの日からずっと、こうなることを望んでいました。そう願っていた私がいました」
滔々と紡ぎだした千歳が、彼の腕から離れる。向き合った彼女の視線は温かな色に満ちていて、波多野は息を呑んだ。
「沢山悩んで、沢山迷いました。けれど、辛かったことも苦しかったことも、全て抱き込んで今があります」
囚われることに悩み、捉えてしまうことに苦しみ、その痛みを受け入れた彼女はひどく美しかった。
「貴方を想うことで、私が感じた全てを私は愛しく思います」
それは、彼女の精一杯の想いだった。
それは、彼女の、本当、だった。
波多野はゆっくりと目を閉じた。
その思いを、その本当を波多野は受け止めなければいけない。
心の全てを曝け出す彼女に波多野はひとつ息を吸い込み、吐き出した。
「俺は本当の名すらお前に伝えていない、自分の過去すらお前に教えていない。」
懺悔のように綴られる言葉。今更だ、綴らなくても良い言葉だ。しかし波多野は続けた。
「これは、本当の俺じゃないかもしれない」
D機関にいた、波多野、という人間。D機関に来る前の、波多野の本当。
偽りの人間を演じてきた波多野は、偽ることを今、放棄する。
「それでも、」
それでも良いのかと、半ば縋るような気持ちで波多野は彼女の前に立った。
波多野の言葉に千歳は彼を見た。その瞳と波多野の瞳が交錯し、彼は、目を見開いた。
「違いますよ、波多野さん」
波多野という人間を、その深層を、彼女は捉えた。
「本当の波多野さんなんて何処にもいないんです」
確信を持った瞳が彼を射抜く。
「嘘も本当もない。私の目に映る貴方が、私の目の前にいる貴方が私にとっての貴方なんです」
彼女の細長く指が、柔らかな掌が彼を包んだ。その温もりが、慈愛が、彼の心を溶かした。
「私は、貴方の全てを愛しています、波多野さん」
だから、泣かないで下さいと笑みを携えた彼女は、波多野の頬を優しく拭う。気付かないうちに落涙していた己の心の不安定さに波多野は苦笑した。
「お前、ずるいよ」
口角を上げて彼特有の笑みを向ければ、すみません、と言葉とは裏腹に幸に溢れた声音が返ってきた。
ーー待ち続けていたのは、俺の方だったのかもな。
波多野はこれまでの日々に思いを馳せた。
波多野が、波多野となったあの日。化物の一員となり、魔王の手足となり世界を駆けた。自分ならばこれくらい出来て当然、その自負心を胸に過ごしてきた時間。
出会いもあった、別れもあった。過去を捨て去り、未来を選び取る中で波多野は波多野にとっての、本当、に行き着いた。
「千歳」
「はい」
名を呼べば返ってくるその声は、確かに波多野にとって、己の存在を確立する唯一無二のものとなった。
波多野は彼女を見つめた。
その瞳にはもう、灰色の存在は映っていない。彼女の頬に手を添え、彼は紡いだ。
「俺はお前と共に在りたい」
思いが綴られていく。千歳の瞳が揺れ、眉根を下げて仄かに笑んだ。
波多野という人間が、その存在が表れていく。
「私もです、波多野さん」
波多野の思いに応えるように、千歳は彼の胸に身を任せた。
「貴方と共に生きたい」
終戦の年、秋が深まる時節。
その日、全てが終わり始まりを迎えた。
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祝福
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