終話:彼方から此方へ

桜は散り際が一等美しい。そんな言葉を宣っていたのは果たして誰だったか、今となっては思い出せない。プレイボーイな彼だったか、自信家な彼だったか、記憶の中に居る彼らに尋ねてみてもとんと返事は返ってこない。

春を迎えたばかりだった。丁度桜は満開の頃合いを迎えて咲き乱れている。散るには幾分か時間がかかりそうだ。
木造平屋建ての住宅。い草の香りが仄かにする和室の床から外へ視線をやる。開け放たれた縁側に陽が射していた。

ひゅるりと吹く風は春の陽気と冬の冷たさが入り混じっている。肌に触れる心地良いそれに千歳は目を細めた。
ウグイスがの鳴き声が時節を告げる。何度も巡った季節だった。何年、何十年と歳月だけが過ぎていった。

(あぁ、そろそろ)

微睡む意識は千歳を誘う。
さようなら、そうひとりごち千歳は意識を手放した。


ーーー


「何突っ立っているんだ?」

意識が覚醒させられたのは後ろから届いた快活な声によってだった。千歳が振り返れば、粟色の髪にスーツを着こなした彼が居た。

「神永さん」
「おう、久し振りだな」

D機関の中でも最年長にも関わらず、その笑みは何処か少年のようで、白い歯を見せるその姿に千歳は安堵した。

「お変わりないようですね」
「まぁな」

さ、行こうぜ、と進むことを促される。

大東亜文化協曾。久方ぶりの学び舎に懐かしさを千歳は覚えた。陰気な廊下に所々裸電灯が覗く貧乏所帯だ。壁にはヒビが入っている箇所がある古びた建物。

薄明かりが扉の向こうから漏れていた。加えて、陽気な声も漏れている。
神永に続いて『食堂』と書かれた扉を潜れば、これはまた懐かしい顔が広がっていた。

「おや、遅かったですね」

顔の割に低い声、実井が千歳の顔を見るなり皮肉めいた声音を出した。
木製の丸テーブルに座るのは、実井、甘利、田崎、福本。テーブルの上に散らばっているのは、見慣れたカードとチップの山だ。

「まぁ、妥当な時間だろ」

空いている席に神永が座る。彼もまたここでゲームに興じていたのだろう。わざわざ迎えに来たのかと、意外と面倒見のいい彼に感心する。
記憶の中に存在していた、ありし日の空気に千歳の頬が緩んだ。

「久し振り、千歳ちゃん元気だった?」

朗らかな笑みを向けて来た甘利に、千歳は同じく笑みを携えて答えた。

「えぇ、それはとても」
「何だか綺麗になった気がするな」

気障な台詞をさらりと口にした田崎には、呆れを含ませた声音を向ける。

「それは私に言う言葉ではないでしょう?」
「おや、気づかれていたのか」
「ご存知でしたでしょう?」

探る視線を遣れば田崎は肩を竦めた。

「福本さんは、戻ってこられなかったみたいですね」

会話を黙って聞いていた福本に千歳が声を掛ける。重い瞼を向けた変わらない表層が向けられた、が

「あの空気が気に入ったからな」

ニヤリ、と彼に似つかわしくない笑みが貼り付けられる。否、これも彼なのか。千歳は今となって感じた印象に驚きを覚えた。

千歳は視界の端に、彼女が送り出した2人を見つけた。
ゲームを端から見守る彼らに静かに近寄ると、その時と変わらぬ笑みを向けた。

「お久しぶりです、佐久間さん、小田切さん」

懐かしい顔だ。2人は強面に華を咲かせると、穏やかに千歳に返した。

「久し振りだな、千歳。また随分と長かったものだ」
「当たり前です、私は送る立場ですから」

千歳の返しに佐久間は、馬鹿だなお前は、と苦笑しながらその頭を撫で回す。子ども扱いするなと片眉を上げながら、千歳は何処か嬉しそうにそれを受けた。

「小田切さんも長かったですよね」

崩れた髪を直しながら千歳は隣の小田切へ尋ねる。
此処を去る前は、心労が絶えず常に悩ましげに瞳を伏せていた彼も、今や晴れやかな好青年の顔をしていた。

「まぁな、随分と永らえたが、悪くはなかった」
「えぇ、だって良い時をお過ごしになったと聞きましたから」
「お前のその情報は何処から入ってきていたんだ……」
「秘密です」

人差し指を口に当てていたずらっ子のようにくすくすと笑う千歳に、小田切は観念したように溜息を漏らした。


穏やかな空気に微睡んでいたその時、



「あ…」



凛と、鈴の音が届いた。澄んだその音は聞き間違えようがない。
思い起こされるあの雑木林の記憶に千歳は見開いた目を細めた。懐古の念に瞼を落とす。
どうした、と自分を見つめた2人に千歳は苦笑した。

「少し、会いに行ってきます」

一言、その言葉だけで2人は合点がいったように頷いた。


足早に廊下へ赴き鈴の音が導く方へと歩みを進める。さて何処だろうか、宝探しをする童子のように軽やかな足取りで曾内を回っていると一等高い音が聞こえる部屋があった。
扉の前で止まれば、凛々と鳴っていた音は嘘のようにぴたりと止む。

(まったくもう…)

半ば呆れながら、千歳はドアノブを回した。



「遅い」
「開口一番にそれですか」

月明かりに照らされた彼は大層美しい。象牙のような肌が光を取り入れて一層艶やかに輝く。窓際に背を預け此方を見遣るその姿は神々しくさえあった。

そんな神がかった彼を随分と待たせたのだろう。千歳はひとつ息を吐くと彼へと近づいた。

「三好さんが早過ぎたんです」
「いいや、貴女が遅過ぎたんだ」
「私は遅過ぎて丁度いいんです」

最後まで残り送る立場だ。ふんと鼻を鳴らして口を窄めれば、今度は彼から溜息が漏れた。
気づけば、彼の掌が千歳の頬に当たり、彼女が彼を見遣ると同時にその身体は彼の中に収まった。


「馬鹿な人だ」


先ほども言われた言葉だと、千歳は苦笑する。冷たくない、暖かなその温もりに、彼が此処にいるのだと実感した。

ゆうに半世紀は過ぎた。あの日、あの時離れてしまいそして会うことのなかった温もりが感じられる。

「待つ方の身にもなって下さい」
「私だって待ちました」
「期間を考えたらどうです」
「三好さんこそ、早過ぎは良くないです」

互いに譲らない舌戦。ふと、視線を合わせると2人は思わず吹き出した。

「相変わらずですね、千歳さんは」
「三好さんも」

どちらも屈託のない笑みを浮かべていた。
ちらりと千歳は三好を見遣る。
プライドが高く、冷笑を浮かべるナルシスト。人を小馬鹿にするような、そんな人間だった三好の柔らかな一面を彼女は垣間見た。
あぁ、これも三好なのだと妙な安心感が芽生える。


「千歳」


三好のそんな姿に目を奪われていた千歳の名を彼が呼んだ。
はい、と向き合えば月光を纏った彼が紡いだ。


「おかえり」


それは『三好』には似つかわしくない言葉で、しかし彼から確かに届けられた想いだった。
半世紀越しの彼の言葉に千歳は目尻を下げて微笑むと、その言葉を噛み締める。
あの時は、自分が伝えた言葉だった。
今は伝えられた言葉だ。

千歳は彼を真っ直ぐ見つめて、応えた。


「ただいま」




ーーー



「終わったのか」

ガチャリと部屋の扉が閉められる。窓際に一輪の花、作業用のデスク、寝台とベッド。そのベッドの縁に腰を下ろしていたのは生涯を共に分かち合った彼だった。

「随分と懐かしかったですけど、遅いと怒られました」
「全くだな。俺もまた待たされた」

腕を組んで不服のポーズを取る彼に、千歳は眉を寄せて口を尖らせた。

「亮祐さんを待たせた記憶はありません」

何が不満なのかとそっぽ向いた彼女の手が引かれ彼の膝へと座らせられる。
彼女が波多野を見つめる前に、彼はその身体を抱き締めた。
僅かに震えるその腕に千歳は目を丸くする。

「亮祐さん…?」
「……看取らせる気なんざなかった」

肩口に顔を埋めぼそりと呟いた波多野に、あぁ、と納得した千歳は困ったように笑んだ。

二人三脚で歩んできた2人の軌跡。終わりが近づくにつれて、その後は片方だけの軌跡となることは理解していた。
いつまでそうなるか分からない。
しかし、長い年月を過ごした2人は互いに思ったのだ。
看取らせるより看取りたい、と。

「お前しぶと過ぎ。俺が行ってから何年経ったと思ってんだよ」
「5年…でしたか?そこまで長くもなかったですよ、曽孫の姿も見れましたし。中々賑やかな家でした」

存外楽しかったと顔を綻ばせる千歳は、しかしふと瞼を伏せて顔を埋めている波多野の髪を梳いた。

愛おしむその手つきに合わせて、でも、と口を開く。


「寂しい思いをさせてしまってごめんなさい」


か細い声音、侘しさを含んだ声色に波多野の肩が揺れる。
千歳もまた、会うことを心待ちにしていた。

緩慢に面を上げた波多野と千歳の視線がかちりと合う。言葉を交わさずとも、その慈愛の籠った瞳は合図となる。どちらからともなく交わした口づけは久方ぶりだった。柔らかな唇を食み、啄む様は付き合いたての男女のようだった。

2人で歩んで来た。子を成し、時代の移り変わりを見ながら多くの感情を分かち合ってきた。
昭和20年秋、あの日千歳という人間は、波多野は終わりを迎えそして始まったのだ。

「千歳」

愛しいその口から名が呼ばれる。これ程の祝福があるだろうか。自分は果報者だ。
千歳は彼に視線を合わせる。先を促すように、じっ、と見つめれば波多野は顔を綻ばせて彼女を抱き寄せた。


「会いたかった、千歳」
「……私もです、亮祐さん」


空白の期間を埋めるように抱き合う。他の誰でもない、彼だからこそ満たされる。久方ぶりのその感覚に千歳は破顔した。



ふと千歳の脳裏に闇が掠めた。満たされていた感覚が、スッ、と現実に引き戻される。カツンと聞き慣れた音が耳に響いた気がした。

あぁ、ようやっと、と思わずくすりと千歳は笑みを零した。
その僅かな違和感に気付いた波多野も、肩を竦めながらも眉尻を下げて促した。

「行ってこいよ」

解放された身体をトンと押される。振り向いた彼の表情は実に、D機関に在籍していた頃の小生意気なそれになっていて、口角を上げた相貌に千歳はえも言えぬ充足感に包まれた。

「行ってきます」

記憶に刻み込まれた、その懐かしさに胸の高鳴りを感じながら千歳は部屋を飛び出した。





任務以外で駆けたことなど数える程しかないのではないか。ましてや、このような高揚感に包まれながら足を回したことなどは覚えがない。
長い大東亜文化協曾の廊下を走る、階段を駆け上がる。淑女のように淑やかに振る舞う必要はない。会いたい人に会う、待ちわびた再会の為に家路へと駆ける童のように千歳は足を走らせた。

浅く呼吸を繰り返しながら、ある扉の前でピタリと止まる。呼吸を落ち着かせ、大きく息を吸い込むとドアノブを回した。



「遅かったな」



先程までで何度聞いたろう。しかし、その声は誰よりも低く、誰よりも平坦なものだった。
瞳が向いた先、千歳の視界に映ったのは部屋の片隅で腕を組み僅かに口の端を上げている、父の姿。
そして、見慣れた大きなデスク、その後ろにある椅子に腰を下ろした、黒い影。

千歳は一歩一歩、ゆっくりと歩みを進めた。己の軌跡を、想いを確認するように緩慢な歩みで彼に近づく。


長かった。しかし必要な時間だった。
彼が千歳に与えた全てが、本当だったと示すためには妥当な時間だった。
己の軌跡を証明するように、千歳は背筋を正し、彼の前に立った。

「結城中佐」

視線が交錯する。深淵と見紛うかのような漆黒の瞳に吸い込まれそうになりながら千歳は笑みを忘れずに口を開いた。

「ただいま戻りました」

微かに震える声音は気付かれているだろう。

結城中佐は千歳の言葉に答えずに、音もなく立ち上がった。カツンカツンと杖を鳴らし、デスクを回り込むと彼女の正面に立つ。
ゆうに自分の背を越す彼を千歳は揺れる瞳で見つめた。


「千歳」


漆黒の瞳の中の自分がひどく幼く見えた。
徐に、結城中佐の掌が伸びてきて、そして、




「よくやった」




初めてだった。ついぞ聞いたことのない言の葉と、頭に暖かい掌の感触。
その一言とその行為が、これまでの千歳の軌跡を証明した。


蘇る記憶と、軌跡と、覚えてきた感情。彼の手を離れてからも歩み続け、遂に最後の1人となるまで目に焼き続けた色彩の世界。


生き切った、その一点を彼はーー




「……っ、ちゅ、うさ…中佐、中佐っ!」




堪えきれない。
大粒の雫を惜しげも無く流れ落とし、千歳は彼の胸に飛び込んだ。しがみつき、泣きじゃくるその姿は誰1人として見せてこなかった、紛れもない千歳という人間の姿だった。
彼女は老いて、そして今幼子に帰った。


魔王の相貌に光が灯った。笑みを含んだその相貌は確かに彼自身だった。
彼の右手が、泣きじゃくる幼子をあやすように頭に添えられる。



此処から先は何もない、何者にも縛られない。


一歩ずつ、歩みを進めた先の奇跡。


彼方から此方へと歩んだ軌跡。







満開を迎えた桜の中、
ひとつ、早咲きの桜がひらりと舞い落ちた。



ーーーーー


彼方から此方へ


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