3:足音

大東亞文化協曾、陸軍内に秘密裏に結成されたスパイ養成機関、通称D機関が入る古びた建物。
その建物のとある一室、正確には資料庫内。資料整理をしていた千歳は人が入ってくる気配を感じ視界の端に意識を遣った。普通に見ればいいものの、このような行動を取ってしまうのは染み付いた癖のようなものだ。

(……甘利さんか。)

足音とちらりと見えた背の高さから人物を特定する。
訓練資料でも見に来たのだろうと、千歳は手を休めることなく資料をパラパラと捲った。独語で書かれているのは医術資料。走る文字の羅列から、所定の位置に戻した刹那だった。
ふと、気配が薄れた。
違和感に千歳が何気なく後ろを振り向くと、至近距離に甘利が、酷く無色な笑みを浮かべて立っていた。底知れない感情にうすら寒さが背筋を撫でる。

(相変わらず考えていることを読ませない笑み。)

そもそも気配を殺して近づくあたりがいやらしい。
実直な、かの陸軍中尉を少しは見習って欲しいと嘆息した千歳は、しかしそれが無意味で馬鹿げていることも知っている。
「何か?」と端的に問うても、甘利は肩を竦めるだけだ。

「いや、特には何もないんだけどね。」

(何故わざとわかるような嘘を。)

彼らが千歳に用がある時というのは、飯時などの炊事の時か、機密情報を軍に届ける時の配達役、訓練の補助係などの雑務時が主である。会話という会話はほぼない。
彼らにとって、千歳という存在はただ其処に在るだけの存在なのだ。結城中佐の秘書、それ以上に必要な情報はない。
そのような間柄の相手に、用がないのに会いに来た、など不自然極まりない行為だった。

「あまり話したこともなかったからさ、少し話してみようと思って。」

貼り付けた笑みは薄っぺらい。
虚言だと証明するその顔貌に千歳は応えなかった。

「そうですか。」
「……つれないなぁ。」
「そうでしょうか。」

ある程度は使えるかの品定めだろうと分かってはいた。即ち、女である己の品評会だ。
結城中佐を通してではない。己が目を通してみる異質な女の真髄を暴こうとでもしているのだろう。魔王の秘書というただ其処に在る存在を彼は試しているのだ。
千歳は嘆息した、がしかし即座に首を振る。
千歳としても彼ら個人を知っていくことは必要なことだった。
個性を殺し、人の皮を被り続けるスパイは何者にもならず、誰にでもなれる。
誰にでもなれるからこそ、その人というものを覚えておく必要があった。
それは、結城中佐がD機関を設立する時に千歳自身が肝に銘じたことだ。

『スパイは個性を殺す。だが見誤るな』

それは、試験が始まる前、彼らが集められる前に千歳が結城中佐に言われた言葉だった。言葉の意味を噛みしめたことを千歳は覚えている。

(個性を殺した相手を見分けられないなんて、それこそ此処にいる意味がなくなる。)

彼らを見分けられないと、他のスパイなど到底見分けることなどできない。陸軍はおろか、海軍でさえスパイに対して懐疑的な視線を向ける輩が多くいる日本と違い、列強各国は優秀な諜報機関を有している。狡猾、且つ強かな戦略を駆使するスパイを己が目で暴く必要に迫られる日が必ず来るのだ。
身内すら暴けなくて、何が出来ようか。
だからこそ、今この時だけ見える彼らという存在を知るために、千歳は注意深く観察することに決めていた。
千歳は改めて目の前の長身を見つめた。甘いマスクに柔和な笑み。どれだけの女性がこの道化師に惑わされてきたのだろうかと思案したのは、以前訓練生全員で花街の上物を誰が先に口説き落とすかのゲームをしていたためだ。

「そんなに見つめられると照れるな。」

茶化すように片目を瞑る甘利の仕草に興味はない。無駄な動作に微動だにせず、千歳はその思考を探る。

(何かの訓練とか…?)

思考に浸った千歳に、甘利が動いた。

「髪、綺麗だよな。」

サラリと耳元の髪が一房掬われる。
思わぬ行動に一瞬動揺した千歳は、しかしすぐに平静さを取り戻した。

「普通です。」

とん、と半歩右に身体をずらす。煩わしいと眉根を寄せた千歳の表情に、甘利がニッと笑った。
滑らかな動きで千歳の前に動き、再度彼女に影を落とす。同時にその左手が資料棚に着いた。端からみたら女を囲う男だ。

「あまり間近で見たことなかったけど、やっぱり綺麗だよ。」

白々しさを通り越してもはや何かの罰ゲームではないかと思えるほどの歯の浮くような台詞だった。女口説きの訓練の予行演習だろうか。
後方に下がれない状況にどうしたものかと考えを巡らせようとした千歳は、別の気配に気づき目を逸らした。

「甘利さん、お呼びですよ。」
「甘利、そこまでだ。」

トントン、とドアをノックして甘利の行動を止めたのは切れ長の眼の好青年。
彼へと視線を移した甘利は、深く息を吐いた。

「田崎、今いいところだったんだけど?」
「……次の講義、あと2分。」
「……分かったよ。」

諦めたように肩を竦めると、甘利は千歳から離れた。目の前の圧迫感がなくなり、千歳は僅かに止めていた息を静かに吐き出す。「またね。」と相変わらず胡散臭い笑みを浮かべて立ち去った甘利を尻目に千歳は作業を再開した。
手を動かしながら思案する。
一体、何が目的だったのか。甘利の行動から予測しようにも情報が少なすぎた。単に反応を見たいだけ、という短絡的な楽しみという線も考えられたが、如何せん断定までは出来ない。
ふむ、と唸った後に千歳が出した結論は、

「考えても仕方ない。」

堂々巡りの思考は無意味だ。するべき仕事は無数にある。
思案する作業に区切りがつけられた。


トップページへ リンク文字