友人が来る時以外はガランとした部屋だ。ワンルームのマンションが立ち並ぶ地区にある、ありふれた部屋。極一般的なこの部屋に彩りが溢れたのは、他でもない彼が来たからだった。
我ながらの大胆な申し出を断ることなく 部屋に上がった波多野の残り香に頬が染まる。変態か、とお気に入りのクッションを抱きベッドに転がり込んだが、やはり違う人間の匂いは独特だった。
この部屋に彼を呼んだのだ。そう自覚すればするほど、羞恥と同時に湧き上がる高揚感。たった数十分であってもその事実だけで千歳は、えも言われぬ充足感を感じ頬を緩めた。
牛肉と旬の野菜を香辛料を混ぜた母直伝のソースに絡めた一品は現在千歳の胃の中にある。流しも片付け全ての家事が終わり、あとは入浴して就寝準備をするだけだった。
ふと、頬に触れた彼の熱を思い出す。
(熱い)
何をしたかったのだろう、何故触れたのだろう。自らの其処に触れていてもその答えはわからない。
何気なく差し出したのだ。友人や家族にやる様に味見がてら差し出した料理。波多野の面食らった、微動だにしない様子に遅れて来た気恥ずかしさ。たった数十秒の出来事だが内容はたいそう濃かった。
視線を合わすことが容易ではない。右往左往させていたまなこを安定させる様に添えられた掌は、余計千歳の心をかき乱した。
ゴロゴロとベッドを転がり、内に秘めた熱を放出する。あまりにも居た堪れない。昨今の高校生の方がもっと上手な対応をするのではないか。
それでも、と千歳は己の心内に問いかける。
(嫌じゃないでしょう?)
時刻は午後10時。そろそろ入浴の時間だ。恋や愛に悩む乙女となる前に明日も仕事、そして自分は社会人。
嘆息し、立ち込める華色を振り払うと千歳は脱衣所へと足を運んだ。
「あれ、メール?」
衣服を脱ぎ、下着一枚となった状態でスマートフォンの画面の変化に気づく。そこには一通未読のメールがあった。
仕事が終わったのかと、仄かな期待を胸に画面を押す。
しかし、開かれた内容と送り主に、広がっていた暖色には冷や水が被せられ、千歳の顔に陰が落ちた。
陰鬱な眼差しがその名を捉えた。
『及川政幸』
ーーー
「すまないね、ここ最近は忙しいだろうに」
「いえ、大丈夫です」
「どうしても君の話を直に聞きたいとのことでね。毎度すまない」
謝罪の意には擦りもしない声音を向けられるも、千歳は笑みを貼り付けた。
(なんで、また)
及川政幸と連絡先を交換して以降、千歳のメールボックスに増えた彼の名前。メール不精の千歳だがあの見合いを境に波多野との連絡だけは増えていた。
其処にここ最近幅を広げ始めたのが、及川政幸、の文字だ。
初めはただの仕事話だった。取引先の商品に対する印象、販売した感触、売れ行きについての考察など、会社では中々聞くことのできない及川次長直々のレスポンス。企画会議の資料が回ってこないと下々には知り得ない内容を彼は細かく伝えてくれていた。
其処に徐々に加筆されていったのは、彼の世間話だ。何処其処に行ったこと、家族の話、時には此方の休日の予定など。
害はない、が千歳の中で些か不信感が募っていた。
お喋りなのか、暇なのか、理由は不明だが毎日送られてくる内容は、ある時は意味があり、ある時は意味のない、開くまで判別不能なものばかり。
加えて、この1週間程で投げかけられてくる注文があった。
「おう、及川君よく来たね」
「いえ、社長いつもありがとうございます」
「何を言っているんだい。君のところの商品には此方も助けられているんだよ」
都内でも指折りの日本料理店。波多野との見合いで利用したような、自分とは縁もゆかりもない空間に千歳は足が竦んだ。場違いな空間なのは、何もこの店の品格の所為では無い。
「ところで、彼女が?」
恰幅の良い中年の男性は千歳にちらりと視線を走らせた。蛇に睨まれた蛙の如く体を強張らせた千歳とは対照的に、及川はカラリと笑う。
「ええ、あのサンプルを作った功労者です。期待の若手ですよ」
肩を抱かれ、鼻高々に紹介をされて千歳は身が縮まった。手に持つ真紅のバッグをぎゅっと抱き締め、取り繕いの笑顔で挨拶をする。
「技術部第2課の千崎千歳です。この度はありがとうございました」
「いやいや。此方もね本当に助かっているんだ。まぁ、座りたまえ、何が飲みたい?」
「あの」
「彼女はこう見えて強いんですよ。ね、千崎ちゃん」
初耳だ。いつ誰からそんな話を彼は聞いたのだろう、と思いながら千歳は苦笑した。
酒は強い方ではない。人並みに飲むことは出来るが、千歳が好むのはジュース感覚で飲むことができるリキュール全般で及川政幸が視線を向けた日本酒、焼酎、ワインの類などでは決してない。度数の高い酒は直ぐに身体を麻痺させる。
しかし、そうなのか、と笑みを深めた得意先の代表の表情に対して、千歳は断る術を持ち合わせていなかった。
「少しだけなら、ですけれど」
苦笑いも愛嬌と捉えたのか、2人はカウンター席に千歳を挟むと上機嫌で宴を始めた。
「それでね、及川君は本当に家族の話をよくするんだよ。もうちょっと遊んでも良いと思うんだけどねぇ」
「冗談よして下さい社長」
「愛妻家で愛娘を溺愛だとそうもいかないか」
耳障りな笑い声が頭に響く。
下卑た話だ。千歳は回らない思考の中でも不快感に眉を顰めた。
この世代の男にありがちな話だとはよく聞いていた。妻が家で待つのをいいことに外に女を作り遊び歩く。ただのお手付きで浮気ではないと弁明する姿は滑稽でならないと、社のベテラン女性が嘆息していた。
例にも漏れず、この男もそうなのだ。
(また、こういう場所)
これで2度目だ。千歳は所謂、接待、という場に同席していた。
1度目は創作料理の老舗。そして今回は日本料理店。一体幾らの金額を払っているのだろうと頭を悩ませる。
しかし、千歳の開発商品を及川が積極的に売り込む先、得意先の代表が目の前にいる。それは厳然たる事実で、それを前に粗相は出来るはずもない。
所詮、物は売れなければ意味がない。莫大な開発費用は、理念と意欲、頑張る気概だけでは生まれないのだ。
そして、千歳の仕事へのモチベーションとその成果を売り込んでいるのが、左隣にいる家族想いのやり手営業マンなのだとしたら、千歳が今やるべきことは下らない与太話を一蹴することではない。
笑え、笑え。
「千崎ちゃんは彼氏とかいるのかい?」
前言撤回、笑えない。
「ノーコメントでお願いします」
笑えない、があくまで和かに華を保ちながら返す。男の機嫌は損ねなかったのか、その返しに男は大笑した。
「これは探りがいがあるなぁ。な、及川君」
「僕に振らないで下さいよ。社長、これはセクハラになってしまいますよ?」
「おやおや。昨今はそういう声の連中が幅を利かせていて実にコミュニケーションが取りづらいんだよ」
そもそも、そんなことでしかコミュニケーションが取れないことに大いに問題があるのでは、と冷ややかな想いを抱きながら千歳は火照る体を抑えた。
酒が随分と回ってきた。幸いなことに理性は保っているが、身体が眠っている。
ーー熱い。
ぼう、とした思考で目を閉じる。瞼の裏に浮かんだ彼の顔と頬に触れた温もりを思い起こして夢想した。
(波多野さん…)
これが彼との時間ならどれだけ良いだろうか。
「千崎ちゃん、大丈夫?」
ひたりと冷たい感触が頬に当たった。現実へと引き戻された感覚に目を見開き、千歳は体を仰け反らせた。
視線の先には行き場のない掌を上げる及川の姿。
「あ、のすみません、びっくりして」
「いや、すまないね。いきなり触れたりして」
配慮が足りなかったよ、と苦笑する及川に平謝りする。
「いえ、私が呆けていただけです、すみません」
「飲み過ぎてしまったかな?」
「そんなことは…」
「いやぁ、産だねぇ、千崎君は」
がしり、と今度は頬に触れるどころではない。酔っ払いそのものとなった男は、千歳の肩を抱くと、そのまま手をスライドさせ身体のラインを撫で回した。厚ぼったい掌の感触が気色悪い。
(こ、の)
ぞわりと粟立つ肢体。唐突な手つきに反応できずに千歳は硬直する。
思わず突き飛ばしたい衝動に駆られた身体にブレーキを掛けたのは理性だった。
立派なセクハラだ。
しかし、これは取引先だ。同じ社内ならいざ知らず、今ここで突き飛ばしでもしたらどうなる?
アルコールに支配された身体は強張り、無駄な働きをした理性を憎みながら千歳は歪んだ笑みを捻り出した。
「社長、あの、そろそろ」
「おや、どうかしたのかい?」
「いえ、その」
「明日に響くので。社長、今日はお開きにしませんか?」
掌が千歳の臀部まで来ようとしたまさにその時、及川の物腰柔らかな声音が男を制した。
臀部に触れようとした手がピタリと止まる。瞬間、温度のない瞳が及川を捉えたが直ぐに彼は手を打った。
「またの機会に、ゆっくりと飲みましょう」
胡散臭い笑みに眉を顰めたのは千歳だけだったようで、邪魔をするなと言わんばかりだった男は、その発言に満足いったのかするりと手を戻した。
鼓動が早鐘を打つ。あと少しで、彼にも触れられたことのない場所に下卑た男の掌が触れていたかと思うと、千歳の身体に悪寒が走った。
「さ、千崎ちゃんは先に出ていようか」
及川が誘導し、先に千歳を逃がす。千歳はひっ掴んだコートとバッグを片手に深々と頭を下げる。此処で何も礼を残さなければ印象はより悪くなることを恐れてだ。
しかし、直ぐに背を向けると入り口に向かって早足で駆けた。
(もう……なんなの)
風にあたり電柱に身を預けた千歳は顔を歪ませた。夜はまだ長く、街行く人の数は昼と大差ないにも関わらず、その喧騒は耳に届かない。
一挙一動に男が舐めるような視線を向けていることが耐えられなかった。触れられた箇所を洗い流したい衝動に溢れ出したのは、羞恥の心以上に、
(馬鹿みたい)
悔しさだった。
女という身分を、仕事の成果を以って高めていた。同期の男に僻まれようが、それがどうしたと製品データを突きつけてやることが出来るほどの結果と、実力はあると自負してきた。
此処でやれる、その自負は、此処が好きだ、というプラスの感情を生み出し、貢献しようという意欲を生み出していた。
それが、今日はどうだ。
相手が得意先となれば、自分に出来るのは製品の良さをアピールすることの筈だ。
男ならばそうできたのか、女だから、性を売り物にする選択となったのか。求められる物が、女としてのコミュニケーション、ならばあの程度のことはスキンシップだとでもいうのか。
(そんなわけないっ)
あってたまるか、と千歳は唇を噛む。
しかし、啖呵を切ってあの男に詰め寄ればよかったのかといえば違う。
脳裏に浮かんだのは、及川政幸の笑みと家族の写真。千歳に頬を緩ませながら話すその姿は、間違いなく一家の大黒柱で父で夫の顔だった。
自分の一言が、行動が与える影響を先読みできない程、千歳は愚かではない。
「じゃあ、どうすればよかったの」
だからこそ、答えが分からない。千歳の問いに応える者は居ない。
吐露した切実な想いは、喧騒の中に呑まれていった。
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忍び寄る暗雲