10.荒波の航海
「千崎……千崎!」
「……え……あ、はい!」
「お前、最近どうした?呼んでも上の空なことが多いぞ」
「あ……すみません」

資料作成のために睨めっこをしていたパソコン。エクセルデータを打ち込み演算処理をしていた筈の千歳の意識は霧散し、小田切の呼びかけによって収束した。つい1時間前打ち出した筈の画面は、何の軌跡も残していなかった。
何をやっているのだろう。叩きつける雨音がやけに耳につく。

「何か悩んでいるのか?」

怪訝そうに眉根を寄せて小田切が千歳に問いかけた。その相貌は心底千歳を案じているもので、今の千歳にとってはそれだけでも安堵するに充分だった。同じ部署にこれだけ自分を見てその仕事ぶりを理解してくれている先輩が居る。それは支えとなり、更に千歳を叱咤した。
後輩の面倒見の良い彼のことだ。相談をすれば、きっと助けてくれる、きっと力になってくれる、その確信はある。
だからこそ、千歳は首を振る。

「最近寝不足ぎみで駄目ですね。夜更かししちゃっているんですよ」

優しい人間ほど追い込まれる。抱え込み、煩悶して黒く纏わり付く圧力に潰されてしまう。
小田切は優しい、面倒見も良い、だからこそ瑣末な個人的な問題に関わってはいけない。

ーーこれは、私の問題なんだ。

顔を歪めたその表情は胸に刺さるものがあったが見ないふりをする。代わりに目に入るのは、スマートフォンの小刻みな揺れ。バイブ音が告げるのは逃げ場のない袋小路だった。




「でさぁ、もう部内でドン引きだったわけ!」

大衆居酒屋とは毛色の違う、価格帯がワンランク上の店は地元特産の畜産、農産物を扱っている。その手の店も都会ならではと言うべきか、探すまでもなく都内に点在していた。
チェダーチーズを食みながら、赤ワインを飲み干した友人を囲む女性4人。上気した頬から泥酔とまではいかないにしろ、ある程度アルコールが体を巡っていることは分かる友人は、しかし言い足りないのか語気を強めて尚続ける。

「家庭あるくせにデートして、あまつさえ体の関係もつとか、信じられなくない?!しかも同じ会社とか、意味わかんない」
「後先考えろよ、て言いたくなるよねー」
「でしょ?!でも、僕達にそんな関係ありませんよ?ていう風に装うの。その子のことお気に入りなのかしょっちゅう話しかけて連絡入れてるくせに」
「うわぁ、あからさまなのって目につくから鬱陶しい」
「ほんとだよー」

相当腹に据え兼ねているのか、チーズを口に含みワインを一気に飲み干す友人。周りの友人達も、酒のつまみのネタとしては上々の内容に食い付き饒舌になる。妬み嫉み、愚痴の嵐、人の舌が良く回るのは、他人の幸福や成功の話ではない。負の感情は同じ立ち位置に立つもの同士で共有されることで発散され、収束する。
あり得ない、気持ち悪い、口々に好きなことを喋る友人達に相槌を打ちながら、千歳は脳裏に浮かんだ狐目に眉を顰めた。

あの接待の一件の後、及川は千歳を誘うことがなくなった。千歳自身が不快に思ったことを察したようで、千歳は何度もメールで謝罪をされた。
仮にも他部署の上役に文句一つも言うことはできず、結果千歳はあの一件に蓋をした。臭いものには蓋をする、嫌な記憶は忘れてしまえ。あの世代の男とは、そういうものだ、と認識し送った文面は『気にしないでください』。
実際、気にして欲しいわけではなかった。ただ、金輪際この手の誘いも、メールすら受け取りたくはなかった。

適当な相槌と笑みを貼り付けていた千歳の目に、携帯端末の振動が見えた。一定のリズムで震えるそれに千歳の相貌が陰る。
話に夢中になる女子の喧騒が遠ざかり、意識が端末へと向かうことに嫌気がさしたが伸ばした手を戻すことはなかった。
指をスライドさせ、画面を開く。

(……嗚呼、もう)

内容に目を細め、真一文字に結んだ口が物語る鬱屈した感情。端末を握りしめる掌に力が入り、哀れな無機物はミチリと鳴いた。


「てかさ、上司も上司だけど女も同罪だよね」


カラッとした声音に似つかわしくない言葉に眉間に皺を寄せていた千歳は目を見開いた。ドクンと心の臓が跳ねる。
それは自分に対しての言葉じゃないにも関わらず、千歳の心を抉る。

「それね。家庭あること分かっているのにそんな関係になってさ」
「あれ最初は男の方が口説いたらしいよ?」
「え、ほんとに?!」
「ほんとほんと!絆されてそのままズルズル気づけば上司のお気に入り、て話」
「うわ、余計タチ悪いじゃんそれ」

だってそれってさ、と前置かれた先。


「自分は悪くありません、て言い逃れしそうじゃん」


ざくりと深く楔が差し込まれた。深く、致命的なほど奥底まで突き立てられた杭に触れれば伝わる罪責の念。
彼女の一言に千歳は、溢れ出る己の醜悪さに顔を覆った。


ーー私、また自分のことばかりだ。


目の前の問題を解決しようとして対処法を探し、行き着いた答えが正解か分からず口を噤む、仕方がない、と。そうして何処かで、自分にはどうしようもない外側の出来事と捉え、行動を起こすことなく現状にただ不満を漏らしていた。

自分は、ただ言い訳を重ねていただけだ。

会話が遠のいて行く。虚空を見つめ、脳裏に浮かぶ幸福に満ちた家族写真に思いを馳せ、千歳は拳をキュッと握り締めた。

何も言わなければ、誰も助けてはくれない。
行動を起こさないと、何も変わらない。

不満も不平も、変わることのない現状への細やかな抵抗だ。吐露することで心の安寧を保つそれは清涼剤であり、しかし常習性の高い毒のようなものだ。舌に乗せてしまえばするりするりと紡がれるが、効果など一過性のもので根本の治療にはならない。
元から絶ち、終わらせるためには自分自身が動く以外道はない、千歳はそれを嫌という程理解してしまっていた。

もたれ掛かる相手もいない、縋る先など見えはしない。
それでも、と千歳は目を閉じる。
頬を伝ったあの手の温もりと眼差しがやけに今、思い出された。



ーーー




蛍光灯を変え損ねてしまっていた。
技術部の事務フロアには人影はなく、とっくの昔に定時を過ぎてしまった為、今電気が点いているのは千歳のデスクの周辺のみ。しかし、その電灯がチカチカと点滅するものだから、データ入力の作業の妨げとなっていた。
目の奥の疲れを感じて、椅子の背もたれにもたれ掛かる。目頭を押さえて上向き、時を刻む掛け時計の音に耳を傾けた。静寂のフロアにカタコト針音が響く。

カツカツと、靴音が静寂を裂いた。革靴の底がフロア横の廊下から聞こえ近づいてくる。時刻は午後11時、幽霊が出るには少し早い。蛍光灯の点滅、時計の針音、近づく靴音。奏でられる三重奏が終わりを迎えたのは、3番目、靴音がピタリと止まったからだ。


「遅くまで精が出るね、千崎ちゃん」


ねっとりとした絡みつく声。顔を拝まなくても分かる吊り上がった口角に千歳は眉を寄せる。
ゆっくりと上体を起こした。

「及川次長こそ、遅くまでお疲れ様です」

何故、この時間までここにいるのか、そんなことは瑣末な疑問だった。今彼が此処にいて、自分の元へと足を進めている。それが全てであり、それが何よりも重要だった。
時計の針音と共に近づく靴音に、合わさったのは己の鼓動の音。落ち着け、と瞳を閉じる。すぅと息を吸い、いちにいさんと秒数を数えて吐き出した。

「もうそろそろ終電もなくなる。送っていこうか?」

靴音が止まった。己のデスクの真横に立った及川はあいも変わらず人の良い笑みを見せていた。その笑みに早鐘が鳴る。落ち着け、と胸に手を当て、千歳は重い口を開いた。

「及川次長」

これは、私の仕事なんだ。

「少しお話をいいですか?」

カタリと椅子を引き立ち上がると、狐面を見上げる。なんだい、と小首を傾げる様は柔和な上司そのものの筈なのに、背筋に張り詰めた感覚が告げているのは危険信号だ。
及川政幸という男は家庭想いで、愛妻家で娘を溺愛している、何処にでもいる普通のサラリーマン。
その認識は、この数週間で覆されつつある。非の打ち所がない完璧な人物像の下に見える、靄がかったもう一つの顔に千歳は幾度か掴まれそうになった。
悪意の有無は関係ない。

ひとつ息を吐き、細長い瞳を見据えた。


「メールのことですが、業務以外の内容は控えて頂けませんか」


端的に要件を伝える。できるだけ心を乱さないように、努めて平静を装った。上役に対する発言としては失礼極まりないということは重々承知の上だ。
それでも、千歳は言わなければいけなかった。己と、そして

「ご家族の方にも、良くないと思うので」

帰りを待つ家族の為に。
脳裏に思い起こされた及川政幸の妻と娘の写真は、たいそう幸せに満ちていた。彼の連絡の意図も、その心内は関係なく、その行いは褒められることではないのだ。

早鐘を打つ鼓動に唾を飲み込む。落ち着かせる為に俯いた。
大丈夫、震える己を抱き締めた矢先、


「千崎ちゃん」


ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
底冷えする声音に、煩い程早鐘を打っていた鼓動音が届かなくなった。しん、と訪れた静寂に次の言の葉が紡げず、二の足を踏んだ千歳が堪らず顔を上げる。
ひっ、と微かな悲鳴が漏れた。


「何を言っているんだい」


全身の毛が粟立つ。
及川政幸はにんまりと口角を吊り上げていた。
しかしその瞳のどこにも光などなかった。




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荒波の航海