11.難破船の行方
仕事には繁忙期があるものだ。朝方から始まった作業は時間を忘れさせ、あっという間に気づけば日は寝入り、月夜が出勤する時間帯となる。
繁忙期というものは、時間感覚を狂わせる魔物だ。

三社合同プロジェクトの最終調整に入った週、波多野は仕事に忙殺されていた。内々で進める内容よりも他社のチームとの会合が増え始め、他企業を行ったり来たりの生活。おまけにきっちり自社の営業のノルマは課されているという、まさに社のために馬車馬の如く働く模範社員となっていた。

ひたすら目の前に積み上げられる課題を捌いていく作業。心を殺して金を得る。

「波多野大丈夫?」

労りの声と共にデスクに置かれたのは缶コーヒーだった。声の主は見上げなくても分かる。

「お前はどうなんだよ、甘利」
「最悪。何でこの時期にまで通常営業入れられるんだよ、て話」
「社畜だな」
「波多野もでしょ」

苦笑する声が物語る疲労。
お互い溜息すら出ない状況だが、それでもこなしていくのは、この会社の社員、営業のエース、プロジェクトを任された、それらのプライドがある為だ。

「過労死しないでよ」
「ぬかせ」

そんなことをすれば今迄のキャリアが水泡に帰す。自分の背を見て邁進している後輩もいるのだ。

(泣き言なんて言うかよ)

幸い残業代がきっちり払われるだけ此処はホワイト企業だ。幾ら仕事に追われようともその一点だけでも辞めることを踏み止まる社員が多い。

しかし、と波多野はふと頭の片隅を過ぎった相貌に手を止める。

(最近会ってないな)

年の割に大人びた色を纏う一方、子どものような笑みを見せる彼女。
千崎千歳。波多野が現在、恋人ごっこ遊びをしている相手。
平日の食事に加えて毎週末のように何処かへ足を運んでいた彼女と、この2週間ほどは会えていない。波多野の仕事が繁忙期を迎えたこともあるが、彼女も彼女で開発、修正業務に追われているらしい。
ほぼ毎日行き来していたメールのやり取りも途絶えがちになっていた。忙しいのか、との問いには、

『波多野さんほどではないですよ』

と、返されるだけだ。
互いに仕事の内容を把握しているわけではない。同じ会社とはいえ部署が違えば畑違い。土足で踏み入ることは無粋というもので、それに社歴は関係ない。

しかしながら、もう随分と彼女の顔を見ていない。実際はたかだか2週間だが、それでも波多野にとっては大きな期間だった。

「なになに、千崎ちゃんのこと?」

ニヤついた声が掛けられ眉間に皺が寄る。睨み付けた視線の先には矢張り口角を上げた甘利の顔があった。

「最近会えなくて寂しいとか」
「そんなんじゃねぇよ」
「えー、ほんとに?」
「うぜぇ」

脛を蹴ってやれば、痛い、と情けない声があがる。ざまぁみろ。せせら嗤ってやったが甘利の言うことは外れてはいない。
寂しい、のかもしれない。ぽっかりと胸に空いた穴はじわりじわりと広がっている。隣に居て当たり前というところまで彼女の存在は波多野の中で大きくなっていた。恋人らしいことなど何一つしていないというのに、先走った感情に苦笑いしか出てこない。
それでも、与えられた膨大な仕事に追われる日々の中でその感情に従うこともできずに波多野は立ち止まる。

(千崎)

今どうしているのか、手を取り話をしたかった。


ーーー


頭の中で声が木霊する。ひどく纏わり付く雑念が支配する思考。

(嫌だ、嫌だ)

反芻されるのは拒否の言葉だ。嫌だ、やめて、来ないで、放っておいて。吐き気を催すほどの苦痛が胸を締め付けて、息苦しさに掻きむしっても一向にその苦しみは引く気配を見せない。


「千崎」


冷然とした声が響いた。キュ、と心臓が締め上げられ同時に俯いていた顔が上がる。視線の先の直属の上司に見える苛立ちの色に冷や汗は止まらない。

「また、突き返された。お前何をやったんだ?」

パシリとデスクに投げられたのは千歳が提出した製品企画案。
嗚呼これで何度目だろう。数えることをやめて幾たびか過ぎた。

「私は、何も…」
「今まで及川次長がお前の案を無下にすることなんてなかったのに、ここ最近ずっとこれだ。何かあったと思うのが普通だろ」

嘆息する上司のここ最近の悩みの種の原因は千歳にあった。
立て続けに技術からあげる企画案が下げられている。主には企画審議の重鎮である及川次長が何かにつけて案を突き返しているためだ。
企画は精査されて上を通る。原案が返されたのちにブラッシュアップされた物が最終案として製品サンプル化するのだ。
しかし、その突き返される頻度がここ最近圧倒的に増えている。

「あの人は大口の顧客を持っているし、お前の案を通してくれていた。営業の上が目を掛けてくれていたのにこれじゃあなぁ」

肩を落とす上司の言い分も分かりつつ、千歳はもはや上司の言葉が耳に入っていなかった。木霊する小言が消えていく。

千歳は仕事が好きだ。良い物を作ればそれ相応の評価を得られる。仕事の良し悪しは給料という形で可視化される、実にシンプルだ。
希望部署に入社し、先輩に恵まれ、後輩に恵まれ順風満帆とまでは言わなくともそれなりに充実した毎日だった。少なくとも仕事面において千歳を煩わせる要素はなかった。

消え行く木霊から漏れていた名前。及川次長、及川政幸。つり上がった細目、歪んだ口元、狐面に隠された顔は靄がかかっている。その靄が晴れれば、出てくるのはひどくーー

(やめて)

思い出される相貌に拳を握りしめた。





「何を言っているんだい?」


ありったけの勇気を振り絞った言葉だった。曲がりなりにも上役、目を掛けてくれていた敏腕営業マンの彼に放った嘆願はその一言で片付けられた。
及川政幸は目を細めニンマリと口元を歪めていた。常より一等細く長く歪められたそれはひどく不気味で、ぞわりと千歳の背をかけたのは悪寒だった。

これは誰。これは何。

「及川次長…」
「よくわからないな。どうして家族のことが出てくるのかな」
「それは、」
「……あぁ、なるほど」

それはつまり、と及川は前置き、とん、と千歳の胸元に人差し指を当てた。それだけで全身を絡め取られるような錯覚に陥り千歳の身体に緊張が走る。
強張る千歳に愉快な声色で彼は宣った。


「君が僕のことをそんな風に見ていた、ということだよね?」


(え…?)


何を言っている、今度は千歳が疑問符を浮かべた。その言葉を意味を理解ができない。話している言語は同一のものであるはずなのに、紡がれた言の葉を咀嚼できない。

「何を言って…」
「妻帯者である僕が不埒な思いで君を誘うようなそんな人間に見えたんだろう?」
「そうは言っていませんっ、ただ」
「心外だな」

歪められた口元から発せられる言の葉に加えて、刺すような鋭い視線が千歳を射抜く。言葉を詰まらせた千歳を彼は詰問した。

「僕をそんな風に見て楽しかったかい?」
「ちがっ、わたしは」
「僕のことを不倫をしでかすような男と心の中では思っていたんだろう」

一等声が低められる。


「ひどい女性だな、君は」


まるで死刑宣告だった。

何故、こうなった。自分が間違っていたのか。邪な考えなどなかった上司のプライドを傷つけたのか。ただ目を掛けてくれていた人を裏切ってしまったのか。
正常な判断ができない。笑みを深めながらその実は冷然としている目の前の狐面を相手にしては、ただ己の無力さを痛感するしかなかった。

「すみません…でした」

何に対しての謝罪か分からない。謝らなければいけない、その強迫観念からだった。
落とした視線からは及川の相貌は伺えない。

「謝らなくていい。僕は失礼させてもらう」

妻と娘が待っているからね。
念を押してそう言われて仕舞えば、返す言葉はなかった。

足音が去っていく。俯いたままの状態で千歳は拳を握り締めた。




どうすれば良かったかなど分からない。考え抜いた選択によって1人の人間の矜持を踏みにじった結果、突きつけられたのは仕事での現実だった。目を掛けていてくれていたからお前は優秀でいられたのだと。
取るに足らない正義心と倫理観を持たなければ順風満帆な社会生活を送れたかもしれない。何も考えなければ良かったのかもしれない。

声を上げなければ誰も助けてくれない。


(声を上げたところで、良くなるとは限らない)


先行きの分からない航海に出た船は荒波に呑まれていく。



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難破船の行方