スキンシップとは互いの合意があって成り立つ。互いが身体に触れ合うことを是としていなければそれはスキンシップではなくセクハラだ。
セクシュアルハラスメント。性的嫌がらせ。それは男から女でも女から男でも変わりはない。それでも、その行為が認知されにくい現状がある。
抱き寄せられた肩、撫で回された体躯。
思い出しても怖気が走り幾ら雑念を振り解こうとしても、絡みつく不快感は消える気配がない。
行き交う人を尻目に、千歳は書類を片手に歩みを進める。営業が入るフロアは忙しない。事務的な会話、仕事の詰め、コピー機の稼動音、キーボードを叩く音。ありとあらゆる音が千歳の耳に入り消えて行く。そこにある現実が非現実のように映り、己の感覚すら曖昧で不確かな錯覚に陥る。
わたしは、何をしているんだろう。
「千崎ちゃん?」
良く通るこの声は誰だったろう。何処かその声音を他人事のように捉えていた千歳の意識は再度の問いかけで覚醒する。
「千崎ちゃん!」
「………あぁ…甘利さん…」
お久しぶりです、と千歳はヘラリ笑みを零してみせたが甘利は怪訝そうに眉を顰めた。
「大丈夫?顔色ものすごく悪いよ?」
体調を案じる甘利に口元を無理矢理あげる。
「大丈夫です。最近仕事続きで寝不足なんですよね」
「そんなに大変なの?休まないと体に毒だよ」
「そうですね…」
毒、という言葉に浮かんだのはあの忌まわしい感触だった。無意識に千歳は眉根を寄せる。
嗚呼、早く洗い流したい。激情を押し殺して耐えた無意味で不快な感触も、今現在の己の立ち位置も、何もかも忘れてしまいたい。
何を言おうと抗えなかった。何が彼の本心で自分がどんな発言をすれば良い方向に行ったのかなどを考える余裕は今の千歳にない。崖に追い込まれた羊はその中でしか自由になることはできない。
千歳はただ、ひたすら今を過ごすことしかできなかった。
「千崎ちゃん?本当に、」
「あ、千崎ー!」
鬱ぎ込む千歳に掛けられたのは正反対な明朗な声色だった。
同期の男子の声だ。千歳は後方から聞こえた声の主を振り返る。
「なに?」
「今日の飲み会、この前と同じ場所で定時終わりになったからよろしくな」
「……あー、うん。分かった」
「じゃーな!遅れんなよ!」
仕事の合間だったのか、要件を手短に伝えると颯爽と姿を消した同期の言葉に思い出された予定。
失念していた。手帳にも書いていたというのに覚えていなかった、恒例の同期飲み会。常なら鬱憤を聞く側の飲み会で、今回それを聞く側になり得るかどうか甚だ疑問だが、憂さ晴らし程度にはなるだろうか。
考えても仕方がないと千歳はひとつ息を吐く。
「……飲み会に行くの?」
低めた声音の甘利の問いかけに千歳の視線は自然と彼へ上がった。交錯したそれから見えたのは、瞳に映る懸念の色。
「体調悪いんでしょ?断ったら?」
(……優しい人だなぁ)
薄ぼんやりと、甘利の相貌を拝みながら千歳は思う。
恋人でもないのにここまで身を案じてくれる先輩がいることは千歳にとって有り難かった。甘利だけではない、同部署の小田切、福本。他部署ではあるが仲の良い雪乃。人間関係において非常に恵まれている環境だと千歳自身も感じている。
ただ、その中に異質なものがひとつ混じっているだけだ。
(そうだ)
なんてことはない。大したことはない。高待遇の職場に信頼できる先輩、それだけで十分なのだ。瑣末なことを気にしていてはいけない。
己の置かれた環境を俯瞰して見なければ、その価値はなかなか分からないもので、額縁の外から絵画である己を見ればきっと世界はまだ輝いている。
「大丈夫です」
「千崎ちゃん」
「私そんなにヤワじゃないですよ。大丈夫ですから」
失礼します、と作り笑顔を置いてその場を後にする。まだ、笑顔を作ることができるだけ大丈夫なのだ。
大丈夫、大丈夫。
何度もなんども自分に言い聞かせたそれは、まるで呪いのようだった。
ーーー
「波多野、もう上がっていいよ」
今日も今日とて残業続き。いつから連勤しているかは数えることを止めた。フロアの大半が消灯された中、プロジェクト用の資料製作の為、甘利と仲良くデスクに張り付いていた波多野にかけられたのは、サボり癖のある甘利からは聞き慣れない台詞だった。
「何言ってんだ、お前」
〆切が数日後に迫っている資料作成は2人がかりでやらなければ終わる量ではない。大詰めの作業に入っている中、自分が抜けて良い局面でもないのは甘利も理解している筈だ。
なのに何故、と怪訝な声を出した波多野は甘利に視線を向けて目を見開いた。
「ちょっと行って欲しいところがあるの」
神妙な顔つきでそう話す甘利に妙に胸が騒つく。仕事で追い込まれようと、恋人に逃げられようと、へらりと何事もないような振る舞いをする甘利がこの顔付きになるのは緊急事態の時だ。
何があった、と問う前に、携帯端末を操作した甘利が見せてきたのは都内の地図。飲み屋が立ち並ぶ有数の繁華街の地図に波多野は首を捻る。
「飲み屋に行け、てか?」
「今日さ、千崎ちゃんに会った」
千崎、とその名が甘利から漏れたことにドクンと波多野の胸が脈打った。何故、何処で、と疑問が頭を掠め、二の句が告げずに閉口するが甘利は構わず続ける。
「仕事が原因かは分からないけど、あの子今けっこうヤバそうだよ。体調悪そうなのに同期の飲み会に誘われててさ。この前と同じところ、て言ってたから多分此処だ」
トン、と指差されたのは大衆飲み屋だ、会社からの距離は私鉄を使って20分ほど。
ディスプレイの右下を確認すれば、時刻は午後9時を回っていた。飲み会となれば、波多野が着く頃には一次会が丁度終わる程度の時間になる。
「波多野」
促す甘利に波多野には躊躇いの色が滲み出る。
パソコン画面に映るのは作成データで、波多野が終わらなければ甘利が取り掛かることのできない資料もある。自分1人で済む話ならいざ知らず、尻拭いは甘利にも降りかかるのだ。
時間がないからこうして残業に勤しんでいる。
「あのさ、波多野」
押し黙った波多野を見かねた様に甘利はひとつ盛大なため息を吐いた。
「あの状態の千崎ちゃんが飲み屋なんか行ったら確実に潰れるよ。で、時間が時間だし、覚束ない足取りのあの子を送れるのは誰って言ったら同期の男子くらいだよね?」
それでもいいの?と問う甘利も、答える波多野も互いがその答えを知っている。
「甘利」
「うん」
「悪い」
波多野の一言に、甘利は破顔一笑した。
「いいよ、行っといで」
送り出す笑顔に気恥ずかしさを感じながらも、湧き上がる焦燥感に掻き立てられ、波多野はフロアを飛び出した。
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揺らぐ視界