13.縋る先
喧騒の中に居るはずなのにその声が何処か遠くから聞こえる。五感が麻痺して思考が安定しない。聞こえる声も見える光景も全て他人事のようで、自分の身体が他人に使われている感覚だった。
カラン、と音を立てたグラスに入っているのは何の酒か。自分が注文したのかされたのかも定かではないそれを口に含む。グラスに反射した己の顔はひどく歪んでいて、まるで心の内を透かしているようだった。

(何してるんだろう、私)

体調管理も社会人の務め。心身ともに健康に仕事に打ち込みましょう、と世間はさも当たり前の様に宣うが、言葉通りに働けている人間などごく僅かだ。皆、多少の無理をねじ伏せて働き続けている。無理をして残業を、無理をして接待を、無理をして笑顔でなんてことないと。

(……駄目だ)

マイナスの思考を振り払う様に、千歳は手に持つグラスの中身を一気に喉に流し込んだ。焼ける様な喉越しにむせ返る。心配そうに顔を覗き込む同期には心許ない笑みを返した。
酒を飲めば気が紛れると思った。嫌なこと難しいこと何もかもを忘れて、飲んで酔って寝てしまえば明日が来る。来た明日はきっと全てを洗い流してくれる。確証など何もない馬鹿げた行為に溺れたくなるほど、千歳は何かに縋りたかった。何かに縋りたくて、しかし誰かに縋るなどということは許されない。

否、縋りたくないのだ。

(まだ、大丈夫)

自分は大丈夫。自分はまだ恵まれている。世の中を俯瞰して自分の立ち位置を確認する作業を繰り返して、千歳はひとり己に言い聞かせた。もっと劣悪な環境で酷使されている人がいる中、好きな仕事を尊敬する先輩の下でやっている。それだけで御の字なのだ。
及川政幸の行動も、あの接待も、誰かに縋るほどのことではない。酒を飲んで忘れる程度の、瑣末なことだ。

そうして、心を保とうとしながら、しかし千歳の中に巣食う黒い靄は晴れる気配はなかった。

「千崎、飲み過ぎじゃね?」

大丈夫か、と隣に座ったのは千歳に飲み会の話を持ってきた同期だった。思い瞼を彼に向ければ、端整な顔が微かに歪む。

「辛そうじゃん、飲みすぎだやっぱり。水飲め」
「……いらない」
「潰れてもマズいだろ」
「……大丈夫だから、いい」
「お前なぁ」

ガン、と音を立てて目の前に置かれたのはジョッキのお冷で。その音に肩を震わせ、ひとつ目を瞬かせた千歳が隣の顔を見る。片眉を上げて呆れるその相貌で彼は溜め息を吐いた。

「なんでお前っていつもそうなわけ」
「……?なんのこと?」
「嫌なことも言いたいこともあんまり言わずに、全部溜め込むじゃん」
「……別にそんなんじゃ」
「前、あいつがお前らに、女はいいよな、て突っかかった時もお前何も言わなかったし。かといって全面的にあいつの言うことがその通りだなんて思っていないだろ」
「それはそう…だけど」
「前から思ってたけどお前さ」


ーー何考えてんのか分かんねぇよ。


それは、何気ない一言だったのだろう。しかし、するりと出て来たその一言に千歳の思考は停止した。
何を考えているのか分かりづらい。言いたいことがあるなら、吐き出したいことがあるなら言えばいい。それは千歳自身気づいているはずのことだった。何も言わなければ、誰も助けてくれない。自分はまだ大丈夫、まだやれる。そう思い続けたところで見えるのは深い闇路しかないと分かっている。

『お前、俺のこと本当に好きなわけ?』

突き放す一言から学んだ、伝える必要性。
全部分かっている、理解している、納得している。
それでも、伝えた結果が導いたのは歪んだ笑みと返される書類の束だけだった。

「……たしも」

ぼそり、と低く唸る様に出た声音に同期が首を傾げた。

大丈夫、助けてほしい。まだいける、もう嫌だ。知らないくせに、伝えていないくせに。会いたい、会いたくない。

自分はできる。
それは、本当?

視界が滲む。


「……私も、分からないよ」


ぽたりと落ちた雫に同期が狼狽えたのが見えたが、溢れる涙は止まらない。
言わないから感情がないわけじゃない。けれど伝えてこなかったのは自分で、そして伝えた勇気は踏み潰された。

想いが溢れる。仕事に加えて浮かんだのは恋人ごっこの彼のことで。分からない、と呟く言の葉に全てが込められた。
何もかもわからない。どうすればよかったのか、どうすれば良いのか、どうしたいのか何もかも。

「おい、千崎………あ」

狼狽の色が見える同期の声音が唐突に変化した。混み合いを見せる店内でその視線は千歳の傍らに注がれている。
不審なその視線を辿り、そうして先にいた人物に千歳の声は震えた。


「……波多野…さん?」



◇◇



波多野が甘利に詫びを入れて会社を飛び出して30分ほど。週末で混み合いを見せていた地下鉄に揺られ、出口から徒歩数分の居酒屋の場所は頭に入れた地図を広げて確認済みだった。
足早に飲み屋に入った。時間的に、帰るか帰らないか瀬戸際の時間帯だったからだ。
盛況を極める店内のカウンターに彼女は居た。隣に座っていた同期は同じフロアで見かけたことのある顔だった。狼狽している様子に妙に胸が騒ついたが、逸る気持ちを抑えて隣に立つ。
あ、と同期の男が漏らした声に吊られて波多野を振り向いた千歳に胸が詰まった。波多野さん、とか細い声色だけではない。

「……千崎」

泣き顔を見たのは初めてだった。

恋人ごっこが始まってからふた月あまり。様々な顔を見てきたつもりだった。恋人のような関係を保ちつつ、その実は一線を踏みこえることのない綱渡りの関係だとしても、だ。虚構の関係と言ってしまえばそれまででも、波多野は彼女との距離は先輩後輩という上下関係以上に確かにあるというある程度の自負はあった。

その彼女が泣いている。
大粒の涙を流し、瞳を瞬かせる彼女に己の内に湧き上がる情動は待ってはくれなかった。

「……帰るぞ」
「え、あ、波多野さんっ」

腕を掴み立ち上がらせる。当惑する千歳を連れ、去り際に後輩となる男に口止めを忘れずに波多野は店を後にした。



閑静な住宅街は街灯が疎らだ。単身向けのマンションやアパートが散見される地区は防犯面で人気の土地ではあるが、一人歩きをするには些か適当ではない。
地下鉄を乗り継いで1時間ほどで、波多野と千歳は千歳の住むマンション前まで辿り着いた。帰路へとついている間、千歳は終始口を開かなかった。それは、波多野も同じで2人は側から見れば仲違いでもしたのかというほど無言であった。帰るぞ、という波多野の一言と困惑する千歳の二言程度しか会話らしい会話はなく、今に至る。

ちらりと、波多野は千歳に視線を走らせた。
多少覚束ない足取りで波多野の後ろを付いてきた千歳は、道すがら始終俯いたままで波多野を見ようとはしなかった。体調が悪い、の一言で片付けられるものではなく、その態度に波多野は眉を顰めた。拝まない相貌からは心情を推し量ることすらできない。

『あの子今けっこうヤバそうだよ』

甘利の忠告に波多野の中に焦りが募る。
酒を飲むにしても、ペース配分が出来ないほど彼女は子どもではない。仕事が繁忙期でも、体調管理を疎かにして日常生活に支障をきたすほど自己管理が出来ないわけでもない。柔らかな印象に反して芯の強い女性だ。

何かがあったのは明白だった。そして、それは即ち、彼女は自分に何ひとつ相談しなかった、できなかったということだ。

「千崎」

以前来た時に記憶した彼女の家、その玄関先まで来れば後は鍵を開けるしかない。開けてくれ、と促す声色に千歳はこくりと頷く。
波多野の横を通り鍵を開けた彼女は、そこで漸く波多野へと表層を見せた。

「もう大丈夫です」

何処かだ、と詰問したくなるような相貌だった。

「少し疲れていたみたいですけど、寝たら治りますし。だからここまでで大丈夫ですから」

感謝の意を述べている筈なのに、その言葉はひどくよそよそしく波多野に響く。
何もない、関係ない、と。そう言われているようだった。

「波多野さん?」
「…大丈夫じゃねぇだろ」
「……っ、」

見開かれた双眸に走った動揺に、弾かれたように波多野は動いた。華奢なその腕を掴むと強引に部屋へと押し入り、当惑する彼女を見据える。

「何があった」

波多野が語気を強めれば、千歳は、波多野と視線を合わせたその瞳を揺らして言葉を詰まらせた。

「千崎」

促す言の葉に彼女はびくりと肩を震わせる。しかし、再び視線を逸らして俯くと、一向に口を開く気配は見せなかった。もう一度名を呼び、感情を聞き出そうとしたところで首を左右に振るだけの千歳に先へ進むことはできない。

言いたくない、と言われても引く気はない。その思いで問うた先の決意が萎んでいくのは、この曖昧な互いの関係故か。

ぼそり、と吐露した心情に乗せたのは遣る瀬無さだった。

「俺には話せないか…」

ごっこ遊びを過ぎていればこの殻に閉じこもってしまった彼女は手を伸ばしてくれたのだろうかと、頭の片隅を過ぎった後悔にそれ以上踏み入ることが憚られる。疲弊した彼女に追い打ちをかけるようなことはしたくない、が此処で手放すことは波多野にはできなかった。

思案しても掬うことの叶わない解決策。
ただ、伝えることしかできないもどかしさ。此処に彼女がいるというのに、その存在には手が届かない。

「千崎、俺は」
「波多野さん」

スゥ、と千歳が面を上げた。波多野は思わず胸をなでおろす。
ようやっと話すことができるのかと淡く期待した心は、しかし絡まった視線にピシリと固まった。


「お願いがあるんです」


ひどく、澱んだ瞳を携えた彼女は無感動に口角を上げていた。
そうして放たれた彼女の『願い』の重さに、波多野は言葉を失った。




「私を、抱いて下さい」




ーーー


縋る先